六話:景色
すい、と水たまりのアメンボのような自由さでエアボードが車道の端を駆けていく。あのふわふわ浮く板がエアボードと名付けられた当時は、雪遊びのエアボードと紛らわしいと物議を醸したものだ。今ではエアボードと言えばあの白を基調とした反重力板になってしまった。運転手は風を受けて涼しげだが聖銑区は今朝も凶悪な快晴で、予報では当分このままらしい。
聖銑区の街路樹には夾竹桃が多いが、おそらく理事長の趣味で学園の正門近くには主張するようにソメイヨシノが立ち並んでいる。相手はその若い葉の下で光を待っていた。幹に背中を預け、目を瞑って頭をゆらゆらさせていた。
「水樹君」
「……おはようございます、天ヶ瀬さん」
呼び掛けると景はうっとりと笑んで応える。まだ夢うつつの境にいるようだったが、頭を振ってソメイヨシノの影の外に出てきた。
「おはよう、ずいぶん眠たそうね。どうかしたの?」
「まぁちょっと、考え事をしていて……あれです、夢で貴女に会えないかなって?」
「どうかしてるのね、起きなさい」
「モーニングコールってやつですか」
「違うから」
軽口に釘を刺しながら、景の後ろをついて歩く。そういえば学園の敷地内に入るのは初めてかもしれない。あるいは忘れているだけで訪れていたかもしれないが、それが契約のために、となるとやはり光は初めて学園に踏み入れる。善は急げというわけでもないが、モタモタしていたって果報は来るまいと、翌日に決めていた。
「そういえば天ヶ瀬さん、神楽坂マナカの彼氏は二十なんぼ年上らしいですよ」
「あれ事務所が否定したわよ」
「不都合な! テレビ観るほうなんですか?」
「ううん、人並みだと思うけど」
そうですか、と声が渡り廊下を弾む。似たような階段と似たような廊下、似たような渡り廊下で繋がれた校舎は迷路じみていて、景が目的地へのナビゲートを完了する頃には、既にどっちから来たのかさえ分からなくなっていた。
到着した体育館には製鉄師のペアが一組と魔鉄技師が一人、そして契約魔鉄器が一基。契約が成立すると鉄脈術が試運転のように小規模で起動する。それによって起こり得る『万が一』のために教員が付くと聞いていた。幸か不幸かいずれも顔見知りでなく、光は事務的に準備が整えられていくのを見ていた。 鉄脈術の詠唱を聞く。それは万が一の先に突かれた杖であり、生徒を導く教鞭であり、どうやら愛を綴る羽ペンでもあるらしい。やがて待機状態に移行し「こちらは整いましたから、あとは自分たちのタイミングで契約を、試行なさい」としかつめらしく促した。
景がひとつ深呼吸をして、契約魔鉄器に手を置く。光もそれに倣って、隣に右手を並べた。自然、距離は近付く。肩が触れるほどの間合いはパーソナルスペースを侵害して、いつだって光に居心地悪さを与える。
「……手が、震えていますね」
「あぁ、言わないであげようかと思ってたけど言わせてもらうわ。あなたもよ、水樹景」
「そうですか。やっぱり緊張してる」
ふ、と困ったように笑いながら抑揚の薄い口調で応える。掴み所のない軽口も重く閉ざされているらしい。景はまた深く息を吸って、少し止めて吐く。言葉なく降りてくる視線、その問いかけに光はひとつ頷いた。あとはやってみるだけだ。
「
堅い呪文
強風にも似た衝撃に思わず目を瞑り、そっと顔を上げる。
明るい。何よりも先にそう思う。
暗い舞台をシーリングが照らしたように、バスケットゴールや契約魔鉄器のディテールまでもが一回りくっきりと見えた。床を走り
その
しかし。舞台は
ぐッ、と全身を強い圧力が襲う。光の立ち入ることを許可とせず、まるで深海のようでもあった。
「っあ、あ!」
一人きりで、このまま小さくひしゃげて消えていく。そんなイメージが自分の内に描き込まれるのを感じた。あるいは景の救難信号。世界が過剰に仔細に見えるので、自身の薄弱さがいやに際立つ。『存在感がふわっと』なんて彼は表現していたが、仮にこれがその綿菓子みたいな『ふわっと』ならそれは湯をかけられている最中に違いあるまい。タルトやマカロンの色鮮やかなテーブルに、まるで存在感がない。
けれど。
「私が、受けいれる──……!」
視界が瞬く。それが答えかと音もなく、舞台の緞帳は降りた。
鉄脈術は発現しなかった。
「……そう」
隣に立つ景を見上げる。あの晩にしていたように、頭の高さに掲げた手の甲に、まるで小さく文字でも書いてあるかのように目を凝らしていた。やがて、景はぱたりとその手を下ろし、光の方を振り返る。
「……っ」
初めて見る表情だった。それまで彼が見せたのは、ほとんどがプラスかマイナスで言えばプラスの、笑顔だったり驚きだったり照れ、あるいは真剣な顔だった。けれど今は、ともすれば泣き出しそうにも見えた。
悲しいのだろうか。悔しいのだろうか。あるいは使えない魔女に対する怒りがあるのかもしれない。
「ごめんなさいね」
「……こちらこそ。苦しかったでしょう」
「どうしてそう思ったの?」
「前に、俺と契約してもいいって言ってくれた先輩に『圧縮袋にかけられる布団の気持ちがわかった』って泣かれてしまったことがあって」
見え透いた作り笑顔に、無性に腹が立つ。それは相手への不満であると同時に、自分自身への不満であった。
「……言いなさい」
「天ヶ瀬さん?」
「『
「なんですか、急に?」
「ヘラヘラしないで」
「ヘラヘラなんてそんな……いや、やっぱりやめます。本当は、少しありがたい」
景が溜め息混じりにぽつりと呟く。「失敗です、ありがとうございました!」と呼びかけると、立ち会いのペアは術を解き、お疲れさまと契約魔鉄器を引いて体育館を去っていった。
ありがたい、なんて言葉を望んではいなかった。むしろそれはずきずきと心を痛ませる。
同じ心の痛みでも、欲しいのはもっと鋭く深い傷。
「私のせいよ、私のせいで契約は成立しなかった」
詰ってほしかった。
罵ってほしかった。
その気が晴れるまで、嘲ってほしかった。
「……貴女の、せいで」
掠れがちな声が、低く音を打つ。葛藤するように、貴女のせい、と再び呟く。根がお人好しなのは光も知っているところで、躊躇うのも無理はないと予想する。
光は肯いて、薄笑いさえ浮かべて導く。その頬に手を添え、自虐を求める。それが天ヶ瀬光という魔女体質者の役割だと思っていた。
「えぇ、私が失敗作の魔女だから」
「そう言えば、貴女は喜んでくれるんですか」
長い前髪の向こうで、濡れ羽色の目が曇っている。うなだれるように肩を落とし俯くので、向き合っていることもあり距離がより近くなっていた。
「喜ぶ、と言ったら?」
「……嫌です」
少しの後、確かめるようにまた「嫌です」と嘆く。どうして痛そうな顔をするのだろう。強がらないで、
「なんで、そんなこと言うんです」
「事実だもの。素質はあるはずなのに、私はずっと一人のまま。ずっと初期不良の失敗作」
純真な目から逃げるように、光は踵を返して三歩離れた。振り返れば不服を顔に張り付けて光を、あるいは光を通してかつての契約交渉相手を睨んでいた。
「それ、誰かに言われたんですか」
「……仕方ないことよ。契約の通らない魔女なんか何の役にも立たない。そうでしょう?」
「そうだとしても、心無いこと言われるいわれはないでしょ」
少し考えて、光は返す。
「兵器に人権なんか望むべくもない」
「貴女は兵器じゃない」
「えぇ、私は兵器じゃない」
「天ヶ瀬さん」
「私は兵器に、なりたかった」
発した言葉が、がらんどうの体育館に反響した。池に石を投げ込んだように、思ったより遙かに響きが残って、まるで真に迫っているようだった。なんでもない、と取り消そうとして首を振る。
「……俺、は」
耳を塞ぐように頭を抱えて、青年は波紋の作る煩悶に思考を揺らした。少し押せばそのまま転びそうなほど不安定な感じがした。
「そうか、俺は貴女を……兵器に、そのパーツにしようと……。いいえ、分かってはいます、本当に。製鉄師とは
自問自答、否、答えは用意されているのだから証明するための道程を手繰る。うがー!と屈み髪を乱す姿を見下ろせば、景はさっと顔を上げた。契約を弾かれた直後だというのに、その目は変わらず光に焦がれているらしい。
「……無理に昔の価値観に合わせようとする必要はないと思うわ」
「そう、ですよね」
頷き応えながらも納得はしていないらしく、難しい漢字を見たような顔をしていた。
「帰りましょう」
「あ、送っていきますよ」
「あなたも来るのよ。鴨居の上、脚立がなくても届くでしょう。せっかくだから普段お掃除できないところ全部拭いて回ってもらおうと思って」
「……そうでしたね。えぇ、どうぞ使ってください」
壁際に置いていた鞄を拾い上げ、景はまた眩しげに笑っていた。
体育館を出て、たぶん来た時と同じルートを辿る。渡り廊下を半分ほど行ったところで、不意に景は光のほうへ振り返った。
「そうだ、失敗作って話、してましたけど、やっぱり天ヶ瀬さんのせいじゃないんですよ」
「へぇ、じゃどうして私は魔女になれないの?」
意地の悪い問いかけだと思ったが、景は気に留める様子もなかった。後ろ向きに光を先導しながら、真っ直ぐな目で訴える。段差の位置も覚えているようで、前見て歩きなさい、という言葉は飲み込んだ。
「今回に限って言えば、俺も不良品だったってことです。俺だって素質?はあるはずなんだから、どっかのタイミングで誰かと契約できててもおかしくなかったはずなんですよ! なんかちょっと負け惜しみっぽいけど、かれこれもう三年ですからね」
「……三年生だったの?」
「あっれぇ言ってませんでしたっけ!」
「聞いてない、と思う」
「えー、あー……えっと……だからまぁ気にすることないっていうか……?」
両手を不自然に上げ下げして、なんだっけと話の着地点を見失っている。彼なりに励ましてくれようとしているのかなと思うと少しおかしかった。
「ありがとう」
「いえいえこちらこそ、ありがとうございました」
それからは何を喋るでもなく、見慣れぬ廊下を、見慣れてきた背中を追って歩いた。
やがて下駄箱の並ぶ玄関前まで戻ってきた。自販機が低い機械音をさせている横を抜ける。半ば踵の潰れたスニーカーを履きながら、カラカラと景は笑って言った。
「何が足りてないんですかねぇ」
素朴な言葉と、開かれた扉から蝉時雨が流れ込んでくるのは同時のことだった。あの歪む世界の残滓を振り撒いたかのように、青年を中央に据えた景色は綺麗に思えた。
「ねぇ
「はい。……はいっ?」
どうしてそうしようと思ったかはわからなかった。わかろうともしていなかった。後に、夏も終わってから気付くことになるが、しかし『それ』こそが、天ヶ瀬光という魔女体質者に欠けていたものだったのだ。
「手、だして」
「はい」
差し出された左手に、光は自分の右手を重ねて握る。景は不思議そうに視線を固定して、おそるおそる握り返した。と思えば手の力を緩めて、確かめるようにまた握る。実際、その行動は確認のためだったのだろう。ポケットに垂れる手袋に繋いでいないほうの手が伸びるが、結局それは出されないままだった。
「はいはい……夢ですねこれ?」
「覚めないといいわね」
「あー、あっつ……」
夢じゃないなと呟く声に引かれながら、光は自分の鼓動を聞いていた。
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