四話:遠いところ
「聞いてました、よね」
「……『貴女の血を俺のも」
「わーっ!! 待っ、言わなくていいです!!」
大慌てで遮る景を、無精髭の教諭、高辻真一は片頬で笑う。その口の端にほんの少しだけ滲む感傷に気付きもしないで、教え子は話題を探していた。
「そ、それより、なんでここに? 宴会は夜からなんでしょう?」
「俺からしたらお前さんの方が『なんでここに』だが。それも制服で」
「え? あぁ、これは学校に行ってたから……って俺はタカティー、じゃなくて高辻センセーに訊いたんですけど! なんで俺が答えてるんですかね」
「……ハァ。ソイツは天ヶ瀬光に用があって、俺は好きな酒を選んでいいってんで荷物持ち」
ほれ、と掲げられたのはマットな黒のバッグと酒屋の袋。ベテランに踏み入れた教諭の持ち物としてはいささか不釣り合いな小さい鞄は、この猛暑にも黒一色の学長に持たされたものか。もう片方にはその好きな酒というのが占めているに違いない。
袋の中で、瓶がぶつかる音がした。
「黒崎暗音は酒は好きなんだが、酒の方が黒崎暗音を嫌ってる、というのがお決まりでな」
当の本人は形式に則っているのか短縮化されているのか、少なくとも「やぁドザエモン! 元気?」よりよっぽど丁寧な挨拶を交わしていた。無論、相手は用があるという家主こと光。
「学長にも弱点なんかあったんですね」
独り言を聞きつけてか、黒崎暗音が二人の方に視線を投げた。薄くルージュの引かれた口角が下がる。
「体質には敵わんよ。大妖怪も八岐大蛇も酒にゃ酔うだろう」
「まぁ、確かにそういう話はあるな。八岐大蛇は蟒蛇の語源だとも言うし」
「ウワバミ? ってなんですか」
「黒崎暗音の逆、大酒かっ食らう奴のことを俗にそう言うんだ」
景の疑問に真一が答える。ごく自然に行われたやり取りに、光はぽつりと感想を漏らした。
「……高辻先輩がまるで先生みたい」
「先生なんだよ」
「よくわかんないタイミングで抜き打ちテストとかしてくるし」
「あぁ、アレなら
腕を組んで暗音が言う。道理で、前回の授業でテストしたから来ないだろうとか、一ヶ月くらい開いて小テストなんて忘れたころだとか、油断しているときにばかりやってくるわけだ。
それに、と真一が付け加える。
「最初に五分も待ってやってるだろ。それだけありゃ……」
「何ができるっていうんです」
「……いや。重要語句の一つでも覚えてろってこった。だいたい、端っから予習復習をしておけばそうはならんだろ」
「う、耳が痛いなー!」
実際に耳を押さえて目を逸らす。と、光と視線が交錯する。微笑みを浮かべる薄い唇。シャツを控えめに飾るリボンタイが揺れた。
聖銑学園は制服にネクタイや、スカーフみたいな幅広のリボンを推奨している。対して幅一センチほどの、棒タイとも呼ばれる彼女のリボンは随分と心許なさげに映った。もしあの、学園の大きなグリーンの蝶が止まっていたら、と考えてしまうのをやめようとして、しかし口から零れたのはどうしようもなく興味だった。
「ねぇタカティー、天ヶ瀬さんってどんな子でした……?」
「ちょっ、水樹くん!?」
「……さぁ、忘れたな。それより、用事ってやつを片付けないといけないんだろ」
溜め息混じりに濁して、話題を動かす。光は胸をなで下ろし──もちろんこれは比喩であり景が彼女の胸ばかり見ていたわけではない──咳払いをした。
「そ、そうよ。そうね。じゃあ水樹くんはまた今夜に、よろしくお願いね」
「はい。ごめんなさい。……じゃあ、また」
門をくぐって外へ出る。そっと振り返って見れば三人は何やら言葉を交わしていて、なんだか物理的なものだけでない、距離を感じた。
もやもやした寂しさを蹴るように、寮のほうへと歩いていく。日が傾き、影も広くなったとはいえ、まだまだ気温は下がらないらしい。重ささえ感じさせる夏が空を制圧している。
ふと、聞き慣れた声が届いた。
「あれーおケイじゃんおっひさー!」
顔を上げれば見慣れた愛嬌ある笑顔が片手運転でこっちへ走ってくる。昼前に見たときは私服にサンダルだったのが、半袖のワイシャツにしゃんと締めたネクタイと指定ベスト、足下は焦げ茶のローファーという出で立ちに変わっている。
「おひさーヨリさん。時間的にはさっきの今ですけどね」
と、言いつつもなんだか本当に久し振りな気がした。景が片手を挙げて応えると、こよりはそのまま接近し横を抜け、カゴの歪んだ愛車を学園の敷地に頭から突っ込ませた。スタンドを蹴って鍵をかけ、こっち来いといったふうに手を振るので景は後を追った。鍵に吊られた紛失防止の鈴のキーホルダーが先導する。
「さっきの今かぁ。同じ聖銑区内にいるとはいえ、夏休みだししばらく会わないもんだと思ってた」
「俺もそう思ってました。だいたいヨリさん用事があるって帰ったでしょ? というか確かさっきは私服でしたよね」
「ん、そんでまた学校まで帰ってきたのよ。職員室行かなきゃだから着替えてきたわけ」
「なんでまた」
話しながら体育館を回り込めば、直接二階や観戦席に入るための階段に辿り着く。格子のついた小窓からはバスケットシューズのブレーキ音が聞こえた。
中に入るつもりはないらしい。こよりは五段上ったところで振り返り、鞄を置いて座ると少し考えて答えた。
「ちょーっち悪いことやるため!」
「ちょっちって」
「だーいじょぶ大丈夫、ちょーっと
トントンぺたんとね、と細い判子をつまみ朱肉を叩いて押す行程を演じる。景は勘に従って、恐る恐る訊いた。
「……ねぇヨリさん。もしかしてその判子、印鑑って言いません?」
「ははは」
「ちょっちじゃ済まないでしょ、それ」
景の指摘に、こよりは待ってましたとばかりにニヤリと笑って両手を広げる。
「大丈夫だって、田中なんて名字、日本にごまんといるぜ? 134万といるぜ」
「134万は確かにちょっとじゃないですけど」
「むしろ俺はこういう手を取りやすくするためのアナログなんじゃないかなと疑ってるくらいでさ」
魔鉄歴も30年。OI能力者を示す登録証や、そうでなくとも多くの皇国民に普及している携帯端末で年齢確認やら個人証明ができる時代になってきている。聖銑の編入手続きもインターネット上で行われたし、定期テストも範囲が一斉メールで送られてくるあたり聖銑学園はデジタル派のはずだ。聖境学園のある京都や聖観学園の福岡、田舎の山奥なんかは景観保護とか受動側の端末が行き届いていないために紙幣にコインだったり印鑑と手書きだったりすることがあるというが。
「あ、でも筆跡でバレませんか? 小学校のころ親に『見ました』って書いてもらう、音読かなんかの宿題で嘘書いてめちゃくちゃ怒られてたクラスメイトがいました」
「それは平気。うちの親父の名前一って書いてはじめなのね、田中一。筆跡も何もないでしょ」
「あぁ……バレなさそう……」
「提出してしまえばこっちのもんっす」
こよりは肩をすくめる。全く悪びれる様子が
ない。印鑑の重要性が下がっている昨今でも、そこらで買えるスタンプなんかとは一線を画す存在なのだから、それでもマズくないことはないはずだが。
「何の書類なんです、こそこそと。追試にでも掛かりました?」
「洒落にならねー!」
けらけらと楽しげに否定する。手足を跳ねさせて笑うから、ローファーの踵が階段の角に当たって音を立てた。
「いやさ、ほんと、やましいやつじゃないんだけど」
あ、いやちょっとはやましいけど。付け加えられた台詞にはコメントしないことにして景は続きを待つ。
「うちと聖刀の交換留学にね、まだ空きがあって困ってんだって。定員割れってやつ? それはよろしくないってんで、白羽の矢がこう、スコーンと。そういうわけで行ってくることにしたわけよ」
「したわけよ。じゃないですよ。……聖刀ってどこでしたっけ」
「えーっと長野。制服が今日び和装で、なのに女子はセーラーとか! わかってねーよな。逆じゃん!? 女子こそ推奨されててほしいじゃん!?」
「あー、それなら定員割れもなかったかも!」
茶化すように言えば、こよりは組んだ両手を頭の後ろに回して言葉を探す。
「んー、それはどうかなー。って言うのもさ、聖刀って
まぁ聖銑にも人切り包丁ばっか鍛えるバカいっぱいいるけど、と付け足して冷笑する。どうも彼は武器の鍛造が嫌いらしく、いつか『ゴテゴテに装飾したペラペラのナマクラに研げないよう焼き入れしてこれも剣だろって提出してやった』と楽しくもなさそうに話していた。
「ともあれ表向きは危ないから厳禁だぞーってしてる割に、実際は
「……ヨリさんが知ってるくらいだから相当の広まり様ですね」
にはは違いねーや、と苦笑が返る。パソコンと固定電話で事足りると、こよりはこの時代この土地に希有なことに、携帯端末を持っていない。そのせいかと言ってしまえば現代人のなんとドライなことかと嘆きそうになるが、気のいい彼がどういうわけか学科で浮いていることも、校内の噂話には敏くないことも景は知っている。
「そんでまぁ例年は、国選魔鉄加工技師狙いとか意識高い系とか打倒聖玉に燃えてる連中とか聖銑区から離れたいーみたいな人材がわさっと……っと、この辺は
「さぁ、あいにく縁遠くって」
「それもそっか。……例年はその志願者から学園側が面接だか何だかで選ぶらしいんだけど、今年はそれ以前のハナシになっちゃったって。情けねー連中だぜ」
吐き捨てるように言い、こよりはネクタイを緩める。
試合でも始まったのか、体育館からお願いしますと揃った声が聞こえた。この暑いのによく走っていられるものだと思いかけて、冬に泳ぎに行くなんて馬鹿の考えることじゃないかと頭を心配された自身の経験を思い出した。
「それで白羽の矢ですか」
「やー。そのとーり」
両手を広げ、こよりは洒落っぽく相好を崩す。「やー」と矢が掛かっていたのか、景がなにも言わないでいると照れて「なんでもない」と小さく取り消していた。なんですかーとからかうのはやめることにして、話を巻き戻す。
「つまりヨリさんの言ってた書類、印鑑をこう、トントンぺたんとしたやつ。それって」
「……その交換留学の申請のやつ」
「うーん、かなりやましいですね?」
「ノーとは言えん」
子供っぽく舌を出してみせる。つられて小学生みたいなことを言ってしまった。
「せーんせーに言ってやろ」
「やめてねー。学級会で掃除サボりの余罪と一緒に吊されちゃう」
「ちょっと男子ぃーまりちゃん泣いちゃったじゃん謝りなよー」
「いたいた、委員長気取りの委員長じゃないやつ!」
「あれなんなんでしょうね、委員長じゃないやつ……じゃ、なくて! ヨリさん絶対、少なくとも百パーで学長にはバレますからね!?」
主張すると、やや色素の薄い目が「学長の何を知ってるのさ」と言いたげだった。それを言わない代わりに、こよりは眉を顰める。
「ふん、俺は決めたんだ。聖刀の魔鉄鍛造ってやつを見て、そんで超えてやる」
今までになく、重い台詞。何か言うべきだ、と頭のどこかで声がしていた。
ドヴェルグは魔鉄にそのOWを刻むという。製鉄師が魔女との契約でそうするように、写し込めれば消えていく。この忌々しいOWを視界から消してしまうためなら、きっと『その先』を求める必要はないのだ。にも関わらず「なんか大発明して特許権で悠々自適したーい!」と軽薄な願望を謳うのは、反面それが本気だからに違いない。止めても無駄か、と諦観のような誇らしさをも感じる。
「あー、交換留学っていつからなんです」
「夏休み明けてすぐに三ヶ月コース。確か向こうの寮に入れるのも八月の二十七日からってなってる」
ゴチャゴチャ機能のついた腕時計に目を落とし、おそらくは日付を見て、まだ先だと話す。九、十、十一で三ヶ月、というのは、都合がいいように思われた。
「あ、でもそれだと体育祭も聖銑祭も返上ですか」
「関係ないねー。仲良しこよしは義務教育で終わったのさ。友達なんざ他科に一人ずつで充分なの!」
「はて、ヨリさんいつ魔女科に知り合いが?」
「それはその……放っとけばおケイのツテで契約者さんがワンチャンあるかなって」
「……思い出した! 俺も言いたいことがあったんでした」
景も今日の昼前にこよりと別れてからの一大事件を語る。かくかくしかじか、出歯亀のくだりは無かったことに編集しておいた。
時に頷き、時に「おケイ、ちょっと落ち着こ?」と言葉を挟み、最後まで聞いたこよりは暫く唸って、それからゆっくり口を開いた。
「……まず訊きたいことがある」
「はい」
景は居住まいを正した。この底抜けに明るい親友が、珍しく神妙な顔をつくるものだから、つられてしまう。
あのさ、とおずおず切り出された言葉。それは後回しにされ続け忘れ去られていた欲を思い出させた。
「お昼、まだなん?」
「……はっ!?」
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