三話:証明開始
「……ずっとお寺か何か、観光地だと思ってました」
「ふふふ、驚くなかれ。向こうの塀の道路挟んで向かいに離れもあるわ」
がらがらと重たげな門の右半分だけを開け、そこをくぐると光は左を、景から見て右を指す。「お邪魔します」と一歩踏み込み、彼女の指先をたどって漆喰の壁の上を見れば、カラスが翼を休めている。さらに上へ目をやれば、離れとやらの屋根もまた見えた。
「あそこも含めて天ヶ瀬さんちなんですね……?」
「そうなるわね。お寺とか神社みたく霊験あらたかな場所ではないのは確かよ。埋め立て地だし」
「そうですか……」
景が圧倒されているのを尻目に門扉を閉めながら、光は語る。
「私の祖父がね、聖銑区を作るためにここらを埋め立てるって決まったときに、どうしてもとお願いして土地を分譲してもらったんですって。なんとしても死ぬ前に理想の忍者屋敷を建てるんだって」
「理想の忍者屋敷?」
「ええ。魔鉄建築って概念が輸入されて、より複雑な仕掛けが作れるようになったから。腕のいいドヴェルグを雇うために関東圏がよかったんだと思う。たぶん、皇国の魔鉄文明で一番最初のからくり屋敷よ」
「……歴史的建造物じゃないですか。そのうち観光地になりますよ」
「なるかしら。入場料をとらないとね」
視線を本堂、ではなく平屋のお屋敷に戻す。砂利の敷かれた庭の飛び石を渡り、光は先程取り出していた鍵で戸を開ける。
「入って、冷蔵庫までお願い」
「あ、はい! お邪魔します」
「えぇ、いらっしゃいませ。こっちよ」
靴を脱ぎ、小さなサボテンが置かれた靴箱らしき棚に寄せて上がる。つい蹴って揃えそうになるのを右手で整え、小さな背中を追う。やや低い位置で結ばれた長いツインテールが、気ままな猫のようにも見えた。
修学旅行で泊まった旅館のような、二人で通るにはいささか余白の多い廊下を曲がること二回。先導していた光が一室の襖を開ける。言うまでもなく台所だ。
「ここ。……そうだ、水樹君、何か飲むでしょ」
「いえいえお構いなく!」
「そういうわけにもいかないわ。記録的猛暑よ、記録的猛暑。死ぬわ」
「死にますか」
大袈裟な、と笑いながら広いダイニングテーブルに麦酒の袋を乗せると、家主はテキパキとそれを冷蔵庫にしまっていく。なるべく中を覗かないように小さな窓の外に目を移し、景はボタンを閉めていない袖を軽く引いた。風が抜ける。ちらりと視線を寄越して、光は肩をすくめる。
「長袖も日差しを防ぐにはいいでしょうけど、冗談にならないんだから」
「あー……これは、まぁ」
少し俯けば、登録証のシルバーが浮かんでいる、ように見える。握った拳を開いても、未熟者の目では観測できない。
「なんだか理由があるんでしょ。それとも趣味?」
「まさか。記録的猛暑ですよ、記録的猛暑。死にます」
聞いたばかりのフレーズを繰り返し、軽く笑って、スラックスのポケットに手を差し入れた。光は花が綻ぶように口角を上げて、ひとつ頷いた。
「そうだった。……さて、お茶か水か牛乳、あとは私の部屋にコーヒーがあるくらい。どうする?」
冷蔵庫をぱたんと閉じて、人差し指から小指へ選択肢を上げていく。
「えぇとじゃあお茶を、お願いします」
「いいわ。水出しのを作ってあるの。早めのおやつにしましょう。水羊羹は好き?」
「あ、はい。……好きです」
「よかった」
屈託なく笑うと、光は再び冷蔵庫を開けて、冷えたガラスのコップを「本当なら湯呑みを出すべきなんでしょうけど、内緒ね」と二つ取り出した。
「お邪魔しました」
「いいえ何のお構いもいたしませんで。気をつけて帰るのよ」
「はい。……あの、天ヶ瀬さん」
「何かしら」
影の方向が変わるころ。小さな茶話会を仕舞い、二人は再び庭の通路の真ん中まで来ていた。
不意に景が足を止め、光のほうへ向き直って半歩踏み出す。砂利が擦れてギュと鳴った。今日を逃せば、次はないと思った。
「天ヶ瀬さん、俺と契約してくれませんか」
ブラッドスミスと魔女の間における契約申請、といっても学生だと口頭で伝えるのが主だが、ともあれ日本皇国でのそれには現在、しばしば隠れた意味が付く。すなわち、時として「お願いします」の前に「付き合ってください」が横入りする。無論どこそこに、ではなく恋愛的な意味での「付き合ってください」が、だ。
「ごめんなさい」
「っ、どうしてですか」
ゆっくりと目を伏せ確かに断る光に、ほとんど反射で景は訊いた。
「その言葉、そのまま返すわ」
「……俺の質問が先です」
どうにか、ブレーキのかかる頭をふかして返す。
「そう」
少し考える素振りを見せて、一歩近付く。真っ直ぐな視線が見上げた。朝日の色の瞳が、窓から差し込むかのように、心のどこかへするりと抜ける。
「水樹景。私のこと、好きなんでしょう」
是も否も言わないでいるのを首肯と認め、光はリボンタイが下がる胸に手を当てた。ほんの子供のようでありながら、その仕草は童話の高貴な姫君を思わせる。
「どこが好き? 容姿? この声? それとも天ヶ瀬の財産?」
責めるように畳み掛け、くすくすと笑う。夕日を背にした逆光で、表情が読めない。思わず、寄った二歩分下がり、最初の距離感を奪取した。まるで実戦演習みたいだ。もちろん数学や物理の、ではなく対人戦闘を想定した授業の。
「答えられないのならそれまでよ。話は終いだわ。お帰りなさい」
嘲笑するように言い放ち、光はついと庭園の、水の張られていない池へ目をやった。プールの水よりも、冷蔵庫を出たばかりのガラスのコップよりも冷たい声だった。ろくに進んでいない課題の山より手に負えない気がした。
「……天ヶ瀬さん」
「なぁに、水樹君?」
恐る恐る呼ぶ。振り返った彼女は打って変わって年長者らしい穏和な対応に戻る。景はその様子に心底ほっとして、そして言葉を選びあぐねて押し黙ると、やがて困ったように笑って言った。
「……めちゃめちゃ格好いいですね」
虚を突かれ、光は二度瞬きをした。突っぱねたつもりで、そんな返答がくるとは考えていなかった。景のほうもちゃんと突っぱねられたことは分かっていたが、それでも本心がそのまま出てきていた。有り体に言えば、ギャップ萌え。ラブコメ教科書があるなら第一章に綴られうる魅惑的なパワーのもとに平常心などあってもなくても同じこと。いや、景の場合は平常心なるものはコンビニの駐車場にでも置き忘れてきたかもしれない。
握った左手の指を額に当て、光は暫く唸っていた。成績不振の学生に対する学年主任といった表現が近いか。
「……あのねぇ、私は冗談言ってるんじゃないのよ」
「俺だって冗談で契約を願い出たわけじゃないです」
落ち着きを取り戻した夜色の目で、青年は真っ直ぐに主張する。
「馬鹿な子」
「貴女が俺を馬鹿にするんです」
「そういうところもよ。馬鹿な
口調の割に、その微笑はどこまでも優しかった。
「……俺だって、馬鹿な話だって、戸惑っているんです。初めて会った人に、どうしてこんな気持ちになってしまうのか」
わずかな嘆息。返る言葉は、しかし素っ気ない。
「出会うんじゃなかったわね」
「貴女はこうは思ってくれませんか」
「残念ながら」
「わあ聞くんじゃなかった!」
自爆。青年の迂闊な問いかけは、自らを攻撃することになった。未だ沈まぬ空を仰ぐ。
光の笑う声が聞こえた。控えめに抑えた笑い方ではなかった。手を添えても歯が見え隠れするほどに、からからと、楽しそうな声だった。
「っふ、ふふ、ごめんなさい、あんまりしょんぼりするんだもの」
「傷口に塩、泣きっ面に蜂です。泣きますよもう。……って、いつまで笑ってるんですか!」
「あはははっ……はぁ、ほんと、ごめんなさ……ふふっ」
「傷付きましたー。責任取ってください。ぜひ」
「ふふ、ダメ」
「手厳しい。……ろくにパソコンも使えないのに」
「聞こえてるわよ。それとこれとは関係ないでしょ」
レース細工のように精妙な編み込みツインテールが、反駁に合わせて跳ねた。
口をとがらせた白磁の横顔に景が見惚れていると、ふとその薄く紅のひいてある唇が小さく音を紡いだ。
「……あ。いいわよ、しても。契約」
「なんと!?」
『契約』のくの字が空間に溶けきる前に、つんのめるように言った。自分の発した素っ頓狂な声に咳払いをして「マジです?」と問えば、光は「マジです」と応えてくれた。
しゃなりしゃなりと音がしそうな足取りで、手を伸ばせば届くだろう距離まで迫る。呼吸の音さえ聞こえそうな、鼓動を聞かれそうな間隔に夏のせいじゃない汗が滲む。
「……ねぇ、今夜うちへまた来なさい」
「それって……ひ、光さ」
「百万年早いわ」
「ごめんなさい。……何時に参上しましょうか」
差し出しかけた腕を気をつけの体勢に収め、ビシッと畏まって訊ねる。
光は満足げに目を細め、乳歯かと思うほどに白い歯を見せ胸を張る。ロングスカートの裾が揺れた。
「七時半ってところね。もちろんバイト代は出すから」
「バイト?」
「そ、雇用契約。準備と片付けね。言ったでしょう。今回は人手がないのよ。今日はキラウエアだってメールが来てたわ」
「あぁなんだ……お手伝いさんの代わりですね」
肩を落とす景をちらり、と流し目で見上げる。
「えぇ。新田さんたちが帰ってくるまでも、手伝ってほしいこともあるにはあるのだけど」
「任せてください。チャンスをくれるんでしょう?」
先の「ごめんなさい」が翻る可能性の話。翻るなら御の字、翻らずとも星の天使の清んだ声をまた聞けるというならそれはそれで美味しい。そんな下心を隠しこめるように、けれど透明な握りこぶしを作った。
ひょいと肩をすくめて、光ははぐらかす。
「さぁどうかしら。雑用にこき使いたいだけかもしれないわよ?」
「お役に立ってみせましょう。それでもってぜひ俺と契約してください」
「困った子。とんだ押し売りを雇っちゃった」
「俺もちょっとくどい気がしてきたところです。気が合いますね!」
しゃあしゃあと、とぼけた台詞は一笑に伏される。
「言ってなさい。……それで、週に二、三くらい? 表札の下に呼び鈴があるから押してくれたら後はおいおいかな。でもまぁ、私としてはいつ来なくなってもいいのよ。好きにして」
「どうしてです」
拗ねたような声色で首を傾ければ、景の目を、同時にどこか遠いところを見て話す。
「私はこの屋敷に一人でも五年や十年どうってことないの。あなたも別に契約者を見付けたとか暑くって億劫だとか、もしくは勘違いだと気付いたとか……」
「勘違いじゃない」
「はいはい」
あくまで冗談の類いにしたいらしい光はぞんざいにあしらって続ける。
「ともあれ私はあなたを製鉄師にはしてあげられない。なんでも適当な理由こさえて、さっさと私のことは忘れたらいい」
「忘れられるわけがない」
「私はあなたを忘れることができる」
「忘れさせない」
光は少し驚いて目を見開く。
「忘れさせません。貴女の血を、俺のものにさせてください」
ゆっくりと、確かめるように繰り返して唱える。
光はその言葉にどこか脅えるような目をして景を睨み、突風にうねる風鈴みたいに啖呵を切った。
「……いいわ。いいわよ、受けて立ちましょう。せいぜい証明してみなさい。貴方にできることならば!」
「仰せの通りに。きっと今なら何だってできますよ」
涼やかに、しかし内心を反映してか跳ねる声に急に冷静にさせられて、光は内心焦っていた。真逆のことこそいくらでも言う心づもりであったが、よりによって学生を、煽るようなことを言うつもりは全くなかった。
言ってしまった手前、撤回するわけにいかない。腕を組んで、ささやかな抵抗とばかりに話を変えた。
「よく回る口ね。そういう台詞は授業で習うの?」
「アピールポイントになりませんか」
「……それを魅力だと思うのは根からの少女漫画脳だけかも」
後ろを見てみなさいと言うふうに、光は人差し指でU字の曲線を描く。
景はふと去来した嫌な予感に質量をさえ感じながら恐る恐る振り返る。少し開いた門に野次馬が二頭。小さい方が少女漫画脳、なのだろうか。黒崎学長が顔を覆った両手の、人差し指と中指の間からこちらを窺っている。それから。
「きっつい……タカティーが見える……」
「高辻先生と呼べと言うに」
よりにもよって、やれやれといった風の大きいほうの野次馬が、月曜三限と水曜午後イチで見える古典の
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