第2話



 

 次の日の朝方に、ルーシーは目を覚ました。長い夢を見ていたようで、意識が微睡んでいた。彼女はマッチを使用してから夢を見ることが多くなったのだ。そのほとんどが、実は自分がお話の主人公で、この世界から去る必要があると誰かから言われるものだった。しかしそれがどんなお話なのか、言ったのが誰なのか、そもそも他にどこに行くべきなのか判断がつかなかった。ルーシーはこの事を先生に話すと、それはコンラッドの世界の否定に繋がると注意され、二度と話さないと反省した。

 

 「父さん、もう朝よ」とルーシーは言って、毛布を取り去った。

 

 返事はない。いつのまにか、横にいる父がいなくなっていたのだ。トイレにいるのかもしれないと思い、行ってみるがそこにもいない。外に出て、廊下を探してもいなかった。仕事用の制服はあるのに、と彼女は訝しげに悩んだ。それから数時間待って、それでようやく理解した。父はもういない、とルーシーは悟ったのだ。彼女はこれと似たようなことを過去に経験したことがあった。

 

 それはルーシーの母が生きている頃の話だ。彼女も父と同じように、コンラッドを信じることはなく、マッチを飲むこともなかった。それどころか、コンラッドを排除する運動を秘密裏に参加していたほどだ。その教えは強烈なもので、コンラッド信者には異教徒に他ならなかった。つまりはer02の手先として考えられていた。それはコンラッドは神ではなく、マリファナと同じ類いの幻覚症状であり、国民を依存状態にさせることで権力者が国民を利用しているという考えだった。その証明にマッチはコンラッドの姿を一定に見せず、人によって変わっているということだった。コンラッドがどの様に見えるかは、人それぞれであるというのだ。それは太陽であり、林であり、リスであり、影だった。これは幻覚症状に似かよっている、とこの反体制組織は指摘してある。またer02も同様に存在せず、怒りの捌け口のためにつくられた架空の敵組織であり、その象徴がホールデン・マータフだった。これ等の全てが国民の政治不信を払拭し、そもそも政治を考えさせないようにする政策の一つとして機能していると論じていたのだ。

 

 その論文が、警察に発覚してから、ルーシーの母はすぐに家から消えてしまった。ルーシーはまだ幼く、恐怖していた。母はとんでもない悪いことをしたのだ、と驚いていた。少しして父から更正所に入れられていると聞いて、一応は安心していた。しかし母が帰ってみると、その姿は変わり果てていた。やつれて、目元が黒ずみ、指が痙攣しているのだ。背中は丸くなり、真っ直ぐに伸ばせなかった。

 

 それでも彼女は更正していた。コンラッドを信じ、そのためにマッチを常に使用していたのだから。

 

 それと同じようなことが父にも起きているのだろう。ルーシーは更正所に寄ってみることにした。彼女の家からすぐ近場にある白くて大きな塔だ。誰もが出入りでき、更正中のer02犯の――潜在的er02犯も含む――傍聴が可能となっていたのだ。部屋はいくつもあり、窓ガラスから自由にer02犯を見ることができた。その誰もがガラス窓の中で、ベッドに拘束具で縛り付けられていた。口に猿轡をされ、目も布で隠されている。その光景が廊下までずっと続くのだ。

 

 ルーシーは五番目の部屋で父親を見つけた。彼も同じようにベッドに縛り付けられて、呻いている。ルーシーは窓をぺたりと触れて、父を見守っていた。いつの間に、父さんはここに連れてこられたのだろうか。そう不思議に思ったが、そもそもどうやって警察は父さんを潜在的er02犯とわかったのかも理解できなかった。それも当然で、ルーシーはまだ知らなかったが、警察が秘密裏に家庭のプライバシーを除くことは多々あることだったのだ。部屋を盗聴したり、隠しカメラを設置したり、パソコンの履歴を暴いたり、疑いをかけたら全てが見通せた。しかもそれは違法な捜査でなく、合法的にやり遂げられるのだ。

 

 サイレンのような音が鳴って、ドアから白衣の男が入ってきた。彼はルーシーの父の猿轡を外してやると、注射器の針をたしかめながら、優しそうな声で言った。

 

 「調子はどうかな? これから、更正プログラムの実施になるけれど」

 

 「最低な気分だ」とルーシーの父は言って、唾をぺっと吐いた。

 

 白衣の男はため息をつくと、彼の目隠しを外してやった。ルーシーの父は蛍光灯の眩しさに目を瞑ると、やがてゆっくりと開いて、窓の外にいる娘の存在に気づいた。彼はじわりと瞳を濡らしたのだが、それは娘にはわからなかった。彼女はどうか父が更正してくれることを祈るばかりだったのだ。

 

 「これから、あなたは辛い一時を過ごさなければなりません。しかしそれは我が神、コンラッドを信じることに繋がり、すなわち救済を意味するのです」と白衣の男が厳かに言った。

 

  「コンラッドなどいない!」と父は叫んだ。

 

 「それはer02的な思考ですね」

 

 「いや、er02なんてのも存在しない。全てがウソっぱちだ。本当に搾取をしているのはホールデン・マータフという偶像ではなく、それを作り上げた己にあるとなぜわからない? 」

 

 「いや、あなたはer02を信じています。その考えが既に驚異になっている。er02とはその考えから生じています」

 

 白衣の男はそう言うと、彼の首もとに針を射し込んだ。全ての黄色い液体を流し込むと、針はするすると抜けていった。ルーシーの父はもがいていたが、それも意味はなく、次第に力が抜けてだらんとなった。瞳はぱっちりと開かれ、瞳孔は大きくなっている。

 

 マッチだ、とルーシーは思った。父さんはマッチを打たれたんだ。これでコンラッドに救われる。何はともあれ、問題なく終わる。マッチを使用したら誰であろうと、コンラッドの存在を否定することは出来ないはずだ。

 

 しかしルーシーの父は言った。

 

 「幻覚だ! こいつは幻覚だ!! 」

 

 白衣の男は肩をすくめた。どいつもこいつも、同じことばっかり言っていやがるという感じで。

 

 「いいですか? マッチは覚醒剤とは違います。これは国が認めた安全な薬品です。依存度もなく、害はないと調査で出ています」

 

 「信じられるか! 全部でたらめだ! 」

 

 白衣の男は顔をムッとさせた。そして彼は台車の上に置かれた自転車のヘルメットのようなものを手に取ると、ルーシーの父の頭に被せた。

 

 「よろしい。あなたの更正プログラムは続行です。どうせいずれはコンラッドを信じることになります。今までの全員がそうだったように」

 

 「……この頭にあるものはなんだ? 」

 

 「更正器具ですよ。実際に試してみてください」

 

 白衣の男はそう言うと、彼の耳の少し上を触り、取り付けた器具のボタンをぐっと押した。ルーシーの父は大声をあげて、小指を切り取られたかのように絶叫した。紐で拘束されている手足はもぞもぞと忙しなく動いていた。白目を剥いて、口からは吐瀉物と一緒に泡が出ていた。やめてくれ、と彼は叫んだ。痛いんだ、頼むから。

 

 白衣の男はそれを五回言わせて、満足したようにボタンから指を離した。

 

 「これから、改心するまでこれが続きます」

 

 ルーシーの父は黙っていた。瞳は恐怖に怯えていた。

 

 「あなたが改心したら、すぐにやめます。では、また明日」


 白衣の男はそう言うと、次はルーシーの扉から出ていった。彼はルーシーに会釈をすると、にっこりと笑った。先程のことなんて知らないように。

 

 「娘さんですか? 」

 

 「はい」とルーシーは答えた。

 

 「お父さんは大丈夫です。私がちゃんと正常に戻しますからね。少しだけ、手強そうだけど、ここに入ってきた人はちゃんとなります。例外なくね」

 

 「お願いします」

 

 「それでは、また明日。次は朝から一時間おきにマッチを注射しますので、好きな時間帯に見に来てください」

 

 彼女はこくりと頷いた。父の悲鳴が強烈すぎて、なかなか思考が追い付かないのだ。しかし彼女は深呼吸をすると、訴えるような目付きで言った。

 

 「……いくら更正のためといえ、あのやり方はer02的では? 」

 

 白衣の男は首をかしげて、なんのことか思い出すような仕草をした。そして、更正器具のことかと思い当たり、平手の上にぽんと拳を置いた。

 

 「全く違いますよ。更正器具は身体を傷付けたりしません。あれは痛みだけです。er02のように野蛮な暴力とは違います」

 

 「……でも」とルーシーは言った。

 

 たしかに、そうかもしれないが、あまりにも残虐な行為ではないだろうか。彼女はそう思えてならなかった。彼女はそれをどう上手く伝えるか悩んでいたが、気づくと白衣の男は目の前から去っていた。それから彼女は窓の中にいる父を見て、手を合わせた。どうか、父をお助けください。コンラッドよ。

 

 次の日、彼女はまた更正所に行った。学校終わって、すぐに駆けつけたのだ。そして昨日と同じ五番目の窓ガラスにたどり着くと、自分の父を見た。しかし、それは昨日の父とは見違えるようだった。彼はやつれ、顔は皺だらけになっていた。目は充血し、皮膚は被れている。彼は娘に気づくと、涙を垂らした。悲しそうに嗚咽して、顔をしわくちゃにさせた。白衣の男がマッチを注射するまでそうしていた。その後は、人が変わったようにけらけらと笑っていた。言葉だけは批判的であったものの、それも更正器具で黙殺された。そうして一週間が過ぎ、クリスマスに近くなると、もうルーシーの父は呆然とするようになった。ただ、白衣の男の言う通りにするようになった。er02を憎んでいるかね、と彼が訊いたら、彼女の父は頷いた。 ホールデン・マータフは存在するね。それも頷いた。その日、白衣の男はルーシーに言った。もう終了ですよ。お父さんは更正しました。

 

 彼女は白衣の男に礼を言うと、父を連れて帰った。父はまともに歩けず、途中で座り込んでは、ずっとマッチが欲しいと言っていた。彼女はポケットに入れておいた飴型をやると、彼は奪うようにそれを頬張った。それからというもの、彼は家から出ることはなく、ただマッチを消費するだけの物置と化した。仕事をせず、誰からも相手にされない存在となった。あれだけ心配していたルーシーでさえ放っておくようになったのだ。ルーシーの商売道具のマッチをくすねては、こっそり使用していた。マッチがないと、er02が悪いと叫んだ。その大きな声はうるさくて、ルーシーは眠れない夜もあった。そしてクリスマスの朝、彼女が菓子屋からケーキを貰らって帰ると――彼女はこれで父が元気になってくれると思っていた節がある――父がまたいなくなってしまったことに気づいた。彼女の目の前には父の足があったのだ。上には頭があり、そして首には縄が取り付けられていた。わずかに身体を揺らし、それでももう喋ることはないのだ。

 

 彼女は泣いた。胸が苦しくて、やるせない怒りに囚われた。その苦しみや怒りがどこからやってくるのかわからないでいた。ケーキの箱は床に落ち、中身がぐちゃぐちゃになっている。彼女は屈むとクリームの半分を手ですくって、父の足元にそっと置いた。手を合わせ、誰かに願った。それがコンラッドなのか、もう彼女にさえわからない。

 

 

 

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マッチ売りには難しい @natu777

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