マッチ売りには難しい
@natu777
第1話
12月の暗くて寒い日だった。激しい雪が廃ビルを隠し、地上は白い足跡でたくさんだった。人々は身を縮めながら、急いで夜の道を歩いていた。そのほとんどが制服に泥や埃で汚れた仕事帰りの男達だった。アンデラフの人口の大半は肉体労働をしているのだ。彼らは時間通りにやってこない電車待って、それを降りたら、最短距離で帰っていた。誰もが屋根があって、温かくて、灯りがあるところに向かっていたのだ。
しかしサイヤロン駅前だけはその例外となる。改札口からそれほど離れていない周辺に、ルーシーが立ち止まっていたからだ。どこに行くでもなく、その12才の少女は木の篭を両手で持って、ただ呆然と立っていた。既に長靴の先は雪で埋まっていて、唇は青くなりかけていた。肌は死体のように白くて、冷たくて、生気のないものになっている。小さな指は、さらに小さくなっていた。
彼女は手を擦り合わせて、ゆっくりと息で温めた。そうすることで、何かが好転するわけではないことを知っていながら、それでも彼女はそうせずにはいられなかった。あまりに寒すぎたのだ。
――er02め!
彼女は思考の中でそう叫んだ。掲示板の貼り紙を見つめて、怒りに囚われていた。その貼り紙には、太った男の写真が添付され、こう書かれていた。
~ホールデン・マータフを許すな! ~
※er02を見つけたら、警察に連絡を。
ルーシーがこの貼り紙を見るのは、その日だけでも20回目だ。しかし何度見ても、腹が立っていた。それはルーシーだけでなく、他の者にとっても同じことで、er02のことに少しでも関連するものなら何であろうと気を悪くしてしまうのだ。そのおかげでルーシーは少しの間だけだが、凍える寒さも忘れてしまっていた。
「アンタも苛ついてんのか? 」
声がして振り返った。そこには禿げ頭の男も、ルーシーの側で張り紙を見つめていた。彼の薄っぺらい外套は埃にまみれて、爪には垢が詰まって黒くなっている。靴は片方がない。きっと浮浪者だろう、と彼女は思った。最近はますます見かけるようになった気がする。
「まあ」とルーシーは遠慮がちに言った。
「俺もこんな寒い日には、このデブが腹立って仕方ないんだ。なんでこんな奴が肥太って、俺が貧乏しなきゃならんのだろうかってね」
「……ええ、私もそう思います。全てはer02のせいです」
男はそれに深く頷いた。
「なあ、マッチをくれ。こういうときはコンラッドに会わなくっちゃ」
男はそう言って、ポケットからしわくちゃの札を取り出した。ルーシーはお釣りをやると、木の篭からマッチ(正式名称、mindcontrol・cheapitem)のタバコ型をごそごそと探し始めた。売れない飴型ばかりがこんもりと積もっていて、お目当てのものが見つからない。タバコ型は人気があるため、朝方にほとんど売れていたのだ。それでも、一本だけ飴型の間に埋もれていたのを見つけた。黒い筒上に、白文字で『コンラッドに万歳!』と書かれている。くわえる部分は黄色いラインが入っていた。これはタバコ型だけではなく、飴型だろうと、チューインガム型であろうと、注射型であろうと、すべてのマッチが国営マッチ商社によって統一されているのだ。
男はマッチを受け取ると、それに火を点けて吸った。黄色い煙がもくもくと立ち上る。男はそれを眺めながら、一気に半分ほどマッチを灰に変えた。そうすると、男の顔は全体的に淀んで、口元が垂れた。しかしその瞳は恍惚とし、純情な子どものように透き通っている。
「……ああ、きた。これだよ、これ。木が見える。コンラッドだ」と男は間延びした声で言った。
そして男は走り出した。もうルーシーを振り返らなかった。途中でぴたりと止まり、天に向けて両手を上げると、高らかに叫んだ。
「コンラッドに万歳!! 」
「コンラッドに万歳! 」とルーシーも叫んだ。
そしてルーシーも飴型のマッチを取り出し、包み紙を開けて口に放り込んだ。ぱちぱちと泡になって溶け出す。甘くて、固くて、ゴムのような臭みがあった。しかし不味くはなかった。あるいは、ルーシーが覚えていないだけかもしれない。いつも彼女がマッチを使用して覚えているのは三つだけだった。天井も床もない白い世界、神聖なるコンラッドの影、そして幸福感だ。彼女はその間、先程の男と同じような顔つきになっていた。それどころか唇の端から涎が垂れて、顔は酒で酔ったように真っ赤になっていた。まだ性に無垢であったが、オーガズムに似た快楽を得ていたのだ。
彼女にはもう雪は見えてなかった。彼女が見ているのは手を差し伸べるコンラッドの影だった。彼女は興奮していた。コンラッドが私を導いている! 私は救われる! コンラッド、万歳!!
数分後、彼女は手先が痺れる感覚があった。瞼を開けると、そこには雪があった。幸福感が薄れ、代わりに怒りが沸いてきた。彼女はそれがer02に対する憎悪からだと思った。怒りや、苦しみ、嫌悪感は全てer02によるものだと学校で習っていたからだ。彼女にとって、er02とはこの国を乗っ取ろうとしている腐ったミルクのような奴らだった。勝手に外国からやって来て、税金を払わず、資本家となっている集団だ。害しか与えず、利には決して働かない。リーダーのホールデン・マータフの写真を見たら、ますますルーシーはそう確信した。あんなに太った豚達がいるせいで、ルーシー(純国民)が苦しんでいるなんて馬鹿げている話だったのだ。
「死ね、ホールデン・マータフ! 消えろ、er02!」
彼女はそう言うと、貼り紙をびりびりと破り捨てた。そして家まで走って帰った。そこは蔦が生い茂って、排気管の煙で汚れたアパートだ。彼女はそこで父親と暮らしていたが、自分の部屋はなかった。あまりに狭くて、トイレと居間しかないのだ。台所の流しはあったが、皿が一枚置けるかも怪しい。
彼女は玄関で頭の上の雪を払い除けると、居間に行った。そこにはルーシーの父がテーブルに座っていて、彼女を待っていた。険しい顔つきで、かなり怒っているようだった。彼はマッチ非使用者であり、マッチを憎んでさえいた。ルーシーはそれがわかっていながら、マッチを持って帰ったのだ。全部売れなかったのだから、残りは自分で使うか、どこかで捨てたらよかったのだ。ルーシーはそう後悔しながら、同時に不思議でならなかった。怒りは全てer02から派生するのに、なんだってルーシーの父が自分に怒るのかわからなかったのだ。ひょっとすると、父さんは怒りがer02のせいだと気づいてないのかな、という疑念さえ抱いていた。マッチ非使用者の感情コントロールが下手だということは国家の統計で明らかになっているのだ。
「今日もクスリを売ってきたのか? 」とルーシーの父はため息をついた。
「そうよ」とルーシー。
「お前もやったのか? 」
「そう。それが悪いの? みんなやってるし、それにこれは道徳的なことなんだから。学校の先生も勧めてるんだもん。苦しかったら、全知全能のコンラッドに助けを求めなさいって」
ルーシーの父は小さく舌打ちをした。目尻が鷲のように鋭くなってつり上がった。
「もう二度と使っちゃいけないよ? 」
「なんで? 」とルーシーは言った。
「それは危険なものなんだ。わかってくれ」
「でも、マッチは覚醒剤とは違うよ。これは脳を小さくさせたりしないし」
テーブルがばしんと鳴った。ルーシーは驚き、後ろに仰け反った。ルーシーの父は息を荒くさせながら立ち上がる。そして平手でルーシーの頬を叩こうとした。しかし哀願するような表情に変わると、悲しげに手を下げた。
「叩いたところで変わらない。そんなことは知っているんだ。だけど、お前の母さんと約束したから……とにかく俺はお前を守らなければならないんだ」
ルーシーはかたかたと震えていた。人に暴力を振るうことは、どんな理由であってもあり得ないことだったからだ。彼女の父が怒鳴ることはあっても、叩くことはなかっただけに余計に恐ろしかった。それはコンラッドの教えに反し、er02的な野蛮人の思考に基づく行為なのだから。それをまさか父がやるなんて、彼女は酷く狼狽えた。涙がぽたぽたと落ちて、足元を濡らした。こんなに可哀想な子どもが他にいるだろうか、彼女はそう思ってならなかった。まさか、父がコンラッドを否定するなんて。そして潜在的er02の可能性があるなんて……
その晩、ルーシーは床についてもずっと泣いて、枕をたっぷり濡らした。彼女の父は慰めてやろうとしたが、撫でてはやらなかった。そうしたところで、彼女の慰めにならないことを知っていたのだ。ただ、一言だけいってやった。
「クリスマスにはケーキを菓子屋に頼んだからね。大きくて、丸いものだよ。一緒に祝おう」
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