第17話

 

 私はその日、深夜二時まで起きて、それから酒も飲まずに寝た。誰も邪魔はしないし、わたしも好き勝手にやった。ソファで横になりながら、孤独のうちで死んだトムのことを想った。息を引き取る前に彼は何を望んでいたのだろう、と考えてみた。自分の遺体がちゃんと埋葬されるか心配していたのだろうか。ロイやリリーやハンが葬式に来て、自分を想って泣いてくれるところを期待していたのだろうか。だが、この三人は彼のために墓を立てるどころか、彼の葬式にも顔を出さなかった。


 そのことを知ったらトムは怒るだろうか?  


 いや、そうはならないはずだ。きっとさほど悲しみもしないし、それでも彼は幸福だったかもしれない。自分の子供たちがしっかりと二本足で立っているということ、たったそれだけのことで嬉しかったはずだ。ささやかだけど、何よりの宝物として、その事実を墓のなかに持っていったはずだ。だから墓参りに行っても、ハンの死はトムには黙っておこう、と私は思った。


 それからトムと彼が世話をした三人の子供たちについて考えながら、かつて見た夢をふと思い出した。エレナと一緒にチェリーパイを食べている夢だ。どんな会話をしていたかはあまり覚えてないが、それなりに楽しい話をしたのだと思う。それが捏造された理想だったのか、霧のように消えかかった記憶かはわからない。重要ではない枝葉のことは殆ど忘れてしまったのだ。はっきりと覚えていることは、エレナの里親が決まったことを彼女が嬉しそうに報告してきた夢だったということだけだ。


 ねえ、里親の人、ラードナーさんって優しそうな叔母様なのよ、と夢の中で彼女はにこやかに言っていた。それに心が熱くなりながら頷き、きっと温かい人なんだろうね、と私は言う。そして、なんて報われた日なんだろうか、と顔のない誰かに感謝する。二人でチェリーパイを齧りながら、たまに飲むコーヒーは格別に感じる。そして私は夢の中でこういうことが永遠に続けばいいのに、と思う。このまま瞼が閉じていればいいのに。しかしやっぱり瞼は開き、消えた電灯を見つめることになる。


 起きたとき、幸福な夢だったが少し落ち込んだことを覚えている。頬がうっすらと濡れていたし、そのことに憤りも感じた。夢とは違う、と私は思った。朝からこんなのってないよな。こんな酷い仕打ちはないじゃないか?


 なぜなら現実のエレナはまだ一人だった。かつてのロイと同じように、どこにも避難場所がなかった。だからといって、金のない私が引き取るわけにもいかない。自分のことで精一杯だ。小さくて狭い部屋に住み、底が磨り減った靴を履きながらも、辛うじて体裁を保っている人間なのだ。ペットだって満足に飼えやしない。きっと生前のトムも、本当のところはロイを引き取りたかっただろう。その辛さとやるせなさは今なら少しだけわかるような気がした。それでもトムは自分の出来る範囲の全てを彼らに与えた。私たちとチェスをしながら、彼は飢えに堪え、生活に貧していたはずだ。しかしそのことを周りの連中に少しだって悟らせることはなかった。たしかに我々に対してはケチで狡猾な爺さんだったが、こんなにも心が豊かで立派な男はそういないだろう。その魂の高潔さは、かつて清掃活動を広めたアイクと相違ないはずだ。


  ★


 一ヵ月後、ロイが引っ越したことを知った。理由もわからず、別れの言葉もなく、唐突にその事実だけを知ったのだ。彼の家を配達業者が出入りするたびに、ついにトムの遺したものは想いで以外に何もなくなったことを残念に考えた。いつもそうなのだが、私の知らないところで物事は勝手に進み、そしていつの間にか区切られてしまうのだ。そして私はその唐突な別れを納得していなくても、その事実を強制的に受け入れなければならない。それは時に辛いことであるし、時に安堵のため息が出ることもある。別れは多くの意味を保有しているのだ。それからロイ・バースとは会っていない。これからも会うことはないだろう。


 それはそうと、その知らせはちょうど、雲が過ぎ去り、太陽が顔を出した時期と重なった。新聞はこのことを異常気象だと盛んに取り上げていた。それぐらい太陽が陽気に輝いていたのだ。天気予報でもこれからずっと晴れが続くと報じられた。でも、本当のところは誰にもわからない。次の雨だって誰が望もうが、望まなくても、意図せずやってくるかもしれない。精々、私たちにできることは傘を忘れないでいることぐらいだろう。


 いつだって思いがけない頃に、巨大な雲がやって来て、とんでもない量の雨を落としてくる。窓が濡れて、遠いどこかで雷が落ちる。部屋は少し湿気ているが、ひんやりとしている。そこはもう太陽を覆い隠した暗い世界だ。いつも通りではやっていけない。それでも私はそんな世界で目を瞑らずにいる。トム・ホーガンが貧しながら笑顔でいたように、アイクが蔑まれながらゴミを拾ったように、そのときに備えて丈夫な傘ぐらいは用意しておく必要もあるだろう。たとえ雨の前で無力であっても、そのなかに潜む大きな闇を見落とすわけにはいかないのだ。



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ダークレイン @natu777

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