第16話

 事務所に戻ると、ルークが扉の前で待っていた。私をじっと睨みながら、息を潜めるように静かに黙っていた。彼の隣はマッチ棒のように背の高い男に変わっていた。鼻も高くて、目元が細長くて、歯が真っ白。なかなか清潔そうな男だった。


 私は二人の男から視線を離さず、青い傘を閉じながらゆっくりと階段を上がった。


 「やあ、なにか? 」と私は言った。


 ルークは黙ったまま、私を見つめ返した。白い髪が雨で濡れたせいか、頭が艶やかに光っていた。彼はハンカチを額に当ててから、面白くとも何ともなさそうに呟いた。


 「オブライエンは辞めたよ。あいつはここの警官としてやっていくには頭が良くなかった」


 「誰それ? 」


 「歯グソ野郎さ」 


 「ああ、そんな名前だったんだ」と私はにやりと笑いながら言った。「それで何の用? 」


 「いや、特に何も」


 ルークはそう言うと、横目で隣の男を見た。彼はすぐにそれを察知すると、黙って頷き、階段を降りてその場から消えた。その一連の動作は聡明な狐を彷彿させた。


 「前のより使えそうだ」と私は言った。


 「少しだけね。それより、お前はオブライエンから何か聞いたことはないか? 」


 「さあねえ、何かばれたらマズいことでもあるの? どっちにしろ、もうハン・インスの事件は終わっただろうに。このまま新聞に載らないでこの自殺のニュースは静かに鎮火するはずだろうよ」


 「そうだろうな。せめて誰かの慰めになればよかったのにな」


 「徒労だった? 」


 「徒労だったらマシな方だ。しかしこれが我々の仕事だよ。昔は警官のすることはいつも正しいとは限らないけれど、誰かの幸せのために頑張っていると実感できる職業だと思っていた」


 「違うの? 」


 「ある意味では正しかった。そういう生きがいを持って働く警官もいる。でも、アトランのような街にはそんな警官は生まれない。いたとしたら、とんでもない偽善者さ。そして、これから俺がどんなに偉くなったとしてもこの原則は変わることはないだろう」


 「辞めちまえばいいのさ。そして私のようなやりたいことを自分で選択できる仕事を探しなよ。その代わり、全てを自分で背負わなければならない人生さ」


 「私はトップじゃなくて、一生を歯車で生きる人間なんだよ。それにもう歯の形が歪に変わってしまって替えがきかない」


 「話はそれだけ? 」


 ルークはそれを聞くと、ぴたりと静止した。まだ何か言いたげのようでもあったが、これ以上べらべら話す気はもうないみたいだった。左目がぴくぴくと痙攣して、ゆっくりと目を閉じ、しばらく経って、彼は冷静な自分を演じながら言った。


 「……じゃあな、もう会うことはないだろう」


 「それがいいよ。お互い仕事をミスっちまって、ばったり出会わさないように勤めようぜ」


 彼はくすりとも笑わなかった。嫌な顔さえしなかった。こんなに表情がつまらない男もなかなかいなさそうだ。だから最後に目に焼き付けておこうとも思ったが、そうする前に連れの男と共に去ってしまった。その姿は大量の雨のカーテンによって一瞬で消えたのだ。私は階下に向かって、君たちがもう少し何をやっているのか明かしたら同情も出来そうなんだけどな、と叫んだ。私だって何も語らない者からは何も言う気になれない! しかしその声は誰にも届くことはなく、すぐに霧散してしまった。 


 誰が望もうと雨は止んだりしない。この雨はそのまま一週間ぶっ通しで降り続けた。これに対し、ロイの『エリーゼのために』はいつまで流れていただろうか。




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