第15話

 私は部屋を見回しながら螺旋階段の下まで歩いた。トムがいた頃とはまるっきり変わっている。ワインの瓶が転がってないし、埃臭くもない。チェスの盤もなかった。


 鼓膜を突き刺すような炸裂音が聞こえた。落雷だ。窓の外を見ると雨は激しさを増し、雲は完全に太陽を覆い隠してしまっていた。屋根の上にごつごつという戸を叩くような雨が落ちている。部屋のなかはじわりと湿気で濡れていた。かすかにベートーヴェンの『エリーゼのために』が階上で静かに聞こえていた。


 「お待たせしました」


 二階からロイが顔をひょいと出した。少し表情に疲れが見えた。彼はゆっくりと螺旋階段を降りると、私を書斎まで案内し、二人で丸くて小さいテーブル席で向かい合って座った。そこで彼と一緒にサンドイッチを食べながら、温かい紅茶を飲んだ。私は二杯目の紅茶をいただいたところで、リリー・フランクにあったことを伝えた。彼は穏やか声で、彼女は思ったことが何でも口から出てしまうのです、と言った。悪気は一つもないのですがね、もし気分を害してしまったのなら申し訳ない。私は頷いたが、気分は害してはいません、とちゃんと伝えた。たしかに酷い言われ方はしたが、彼女から悪意は何も感じなかった。それを聞くと、彼も安心したように頷いた。


 「リリーは友達なんです。いや、家族だったかもしれません。僕たちは同じ施設で育ちました」


 「施設? 」


 「ええ」とロイは言った。「僕たちは孤児です。その頃からリリーはお喋りで、始末に終えませんでした」


 彼は言いながら、吹きだすように笑った。今よりずっと若い頃の楽しい思い出が目の前で広がったのだろう。しかし、すぐに疲れ果てて、悲しそうな表情に変わった。


 「施設にいた頃、僕には三人の親友がいました。一人がお喋りなリリー・フランク。もう一人は陽気なお爺さんのトム・ホーガン。最後は物静かなハン・インスです。彼はとても繊細な心の持ち主でした」


 「ハン・インス」と私は言った。「それは童話作家の? 」


 「そうです。われわれ四人は親友でありながら、家族のような固い繋がりがあった。施設のなかでも僕たちはとても仲が良かったです。とはいえ、初めからそうではありませんでした。きっかけはトムが施設にやってきてからの話です。僕が小学生のころ、トムはボランティアでたまに絵本の読み聞かせに施設までやってきてくれました。まだその頃は彼も仕事をしていたのですが、自分の奥さんが死んで孤独だったんだと思います。よく人との繋がりについて話していました。その一つに、僕はアイクという初老の老人がアトランの街をせっせと綺麗にしようと奮闘するお話を聞きました。とても楽しくて、大人になったら僕もアトランに行ってみたいという想いを馳せるようになりました。正直、トムの絵本の読み聞かせは退屈でしたが、彼の記憶から語る物語は魅力的でした。リリーもその一人で、トムが絵本を読んでいるときは他の子と遊んでいるのに、彼が雑談しているときには膝元まで近づいて熱心に話を聞いていました。トムの自然な表情から漂う雰囲気が好きだったみたいです。ハンだけは僕たちとは違ってトムの絵本が大好きでした。もちろん、トムの下手な読み聞かせには興味なくて、彼の絵本のチョイスが気に入ったんだと思います。今思えば、この頃から僕たちはそれぞれ見ている方向は違っていました」


 ロイはふいに黙ると、こほんと咳をした。それから恥ずかしそうに言った。


 「……この話、退屈じゃありませんか? 」


 「いえ、そんなことありません。もっとお聞かせください」


 彼は紅茶を一口飲んで、ゆっくりと頷いた。


 「いつしか、トムの方も特別に僕たちを気に入ってくれました」とロイは物語るように言った。「そういうことがあまりよくないことだと知ってはいたのですが、もう誰にも止められませんでした。サッカー、バスケット、ポーカー、麻雀、あまり教育的なものないものも含めて、いろいろな遊びをトムに教えてもらいました。彼はこっそりやっていたのでしょうが、施設の職員は困ったでしょうね。なんたって、リリーが周りに喋っちゃうから。そうして僕たちが成長すると、絵本の読み聞かせは小説に代わり、シャーロック・ホームズをそこで始めて知りました。その頃から僕は無意識で見ていたものを意識的に見る癖を身につける練習に励むようになりました。階段の数をしっかり覚えるとか、そんなことです。今でも時々真剣にそういったことを考えているぐらいなので、当時はもっと熱狂的なシャーロキアンだったはずです。そんなことに集中するぐらいなら、テストで一点でも上げてみなさいよ、とリリーから馬鹿にされたこともありました。かつてはそんな幼稚なことで大喧嘩をしてたんです。でも、そういうとき、ハンが僕たちを冷静に対処してくれました。彼はとても表情が暗い男でしたが、誰よりも優しさで満ち溢れていました。僕たちも彼の言葉にはあまり逆らいませんでした。裏があるようなことは絶対に言わないと知っていたんです。だから、そんな彼に里親が見つかって、最初に施設からいなくなったときは僕とリリーは愕然としました。いつかはそうなるかもしれない未来も覚悟していたつもりだったのですが、まさか最初の一人目がハンだとは誰も思ってなかったんです。彼だけはいつも側にいてくれると信じてました。おかげで、僕とリリーはつまらない喧嘩の数々を繰り返し、いつしか一緒にいることもなくなり、やがて彼女も里親が見つかって施設から去ってしまいました。かくして、僕だけが誰からも拾われないまま大きくなってしまった。漠然とした焦りがありました。十代も終わりに近づき、施設から出なければなりませんでしたから。それに特にやりたいこともありませんでした。とりあえず勉強はそこそこできたので役所の試験に合格して勤めることにしました。一人で暮らす分には困りませんし、なにより役所の働き方は僕にとってやりやすかったです。が、楽しかったのは最初の二年の図書館勤務だけでした。次の配属先の児童相談所で僕は精神的に追い込まれ、眠ることが困難になったので強い睡眠薬を頼るようになりました。助けられるはずの子供を見捨てるようなことを何度もしたせいか、どこかおかしくなり始めたんです。それでも何とか堪えていたのですが、最後に配属された保健所で注射や二酸化炭素のガスによって息絶えてしまう猫や犬の死骸を見て、仕事だと割り切っていても、殺しに加担しなければならない状況に疲れ果ててダウンしました。今でも寝ているときに、救えなかった子供たちや死んでしまったペットのことを考えると、僕は泣きながらうなされ、睡眠薬を飲まないとやっていられません。もしトムからの週に一回の電話がなかったら、誰とも繋がりがない僕は、その苦しさから自殺をしていたでしょう。殺してしまった彼らと同じように、二酸化炭素のガスか、あるいは注射を使って死にたかった。どんなに怖いのだろう、どんなに苦しいのだろう? 僕にはわかりません。自分がしていることが社会の役に立っているはずなのに、それを確信しているにも関わらず、一方で罪悪感で締め付けられていました。もう限界だった。いつ自分が死んでいてもおかしくなかったんです。あともう少しだけ僕に衝動的な力があったなら、ハンやトムより先に死んでいたのは僕だった。今生きていられるのはトムのおかげです。彼は僕たちが施設を出たあとも、ひとりひとり熱心に支えてくれてました。まだ作家として一冊も本が売れていないハンにも、仕事が長続きしないでぶらぶらしているリリーにも同じぐらいの愛情で応援してくれていました。彼だって僕たちのことを無視していたらもっと裕福な生活が送れたのでしょうが、僕たち三人に何かを遺そうとして質素な余生を過ごしていました。この家もその一つで、僕たちが相続したものなんです。……もっとも、ハンは死んでしまい、リリーは所有権を金銭に変えてしまい、今は僕だけになってしまいましたが」


 彼はそう言うと、蝋燭の灯が消えるように唇を閉じた。長い時間が経過した。繰り返される『エリーゼのために』は五度目の終盤をむかえた。雨は止む気配はない。


 「本当はこんな話をするつもりではなかった」とロイはおもむろに言った。「今日、僕はあなたに次の契約の必要はなくなったと伝えたかっただけだったんです」


 「すると、私はもうあなたと同じ時間に寝起きしなくていいわけですね? 了解しました」


 「なぜ、僕があなたにこんな依頼をしたのか知りたくないですか? 」


 「知りたくても、もう自分から行動して知ろうとは思いません。教えてくれるのなら聞いてみたいものです」


 「もしハンが僕の目の前で死んだら、あなたにその証人になってもらいたかったからです」


 「彼が死ぬのを予見していたとでも? 」


 「ええ、ハンが最初にこの家に来たとき、僕が屋上で彼を殴ったことはご存知ですよね? 」


 「もちろん」


 ロイは息を吸うと、肺に入ったものを緩やかに吐いた。それをもう一度やって、まるでこれから行うことが人生を変えてしまうみたいに長い沈黙が訪れた。そのあとようやく口を開き、また少し長くなりますが、と彼は言った。私は黙って頷いた。一言でも聞き逃さないように耳を澄ました。雨はまだ止んでいなかった。


 「ハンはそこで近いうちに自分は死ぬだろう、と言っていました」と彼は慎重に言った。「ハンが何に追い込まれていたのかはわかりません。苦しいとか、死にたいとか、悲しいとかしか言わなかったものだから、根本的な原因がわからなかったんです。理由を訊いても話してくれませんでした。が、あの日の屋上で言っていたとき、実際にするだろうなという予感がありました。あの時の目の雰囲気いつもとは少し違っていた。僕も精神的に追い詰められた経験があるからわかるんです。あれは暗い内側の中心に行きつつあった。こうして彼が僕に話すのは、自殺に対する最後の抵抗だと思いました。でもそのときはそんなことわかりませんでした。僕だって動揺していたし、どんな慰めの言葉も彼には効果がなくて精神的な余裕が減耗しつつあったんです。彼は泣きながら話すのです。もう少しでお別れだよ、ロイ。そしてこう言いました。なあ、動物を楽に殺してしまう注射ってどこで手に入るのかな? この最後の言葉に僕は仕方ないと思いつつも、腹の底がむかむかとして、我慢が出来なくて彼の前から去ろうとしました。一旦、おれは落ち着いたほうがいいぞって思ったんです。でも屋上から部屋のなかに戻る途中でどうしても許せなくて、ハンの元に戻ると、彼の頬を手が痛くなるぐらいの力で殴ってしまいました。弁解ではないのですが、けっして僕は人に暴力を振るうような類が好きな人間ではありませんし、怒鳴ることも同じくらい好きでもありません。でも、ハンの言葉はこれまでにないくらい気に障ってしまった。一瞬だけとはいえ、あんなに誰かに対して憎しみを抱いたのは始めてでした。相当痛かったでしょう。しかし彼は何も言わないで、こっそり裏口から家に帰ってしまいました。僕もその背中を見ながら何も掛けてやる言葉が見つかりませんでした。そうして彼がいなくなると、僕はすぐにテキーラを三杯飲んで、猛烈に高ぶる感情を落ちつかせようとしました。酒の力は強烈です。おかげで神経質な考え方ができなくなり、あとでやってきた警官の相手も冷静に対処できました。まだ三杯目だったことが、なおよかったのかもしれません。警官がいなくなると、四杯、五杯と飲んでしまい、僕は死んだようにベッドに倒れ、夢もない朝を迎えました。でも頭はいくらか働くようになってます。余計なことしか、徒労ばかりの悩み事しか増やさないこの脳みそは僕にこう問いかけるのです。ハンはトムが残したこの家で、なおかつお前の目の前で死にたいんじゃないのか、と。どこにも根拠はありませんでしたが、なぜかそういう考えに悩まされました。きっと僕も役場で働いている頃、ひとりで死ぬことを想像したとき、とても悲しくて怖くなったからだと思います。隣に誰かがいて欲しくなるだろうと思ったのです。だとしたら、僕はそのときに備えて彼の死を、それこそ野蛮な手を使ってでも阻止しなければなりませんでした。あなたに見張りをさせたのは、そういう意味でも必要だったんです。証人として、起こりえたかもしれない物事の全容を知っておいてほしかったから。あるいはこの死の危険性が纏わる行為に、僕もまた誰かに見てほしかったのでしょう」


 「でもハンはここには来なかった」


 「そうです。彼はひとりで死んでしまいました。それは僕があのとき彼を殴ったせいかもしれません。僕はそのことについて大きな罪を感じています。なんで彼の隣で静かに話を聞いてやれなかったんだろうって思うときもあります。どうして僕は彼に助言をしてやろうなんて愚かなことを思ってしまったんだろうとも考えます。どうして、どうして、どうして……今さら悩んでもどうしようもないことばかりです」


 彼は数秒黙った。それから時間を掛けて席を立つと、何も言わずに部屋から出た。遠くから水道水が流れる音が聞こえた。そしてさっぱりした顔で戻ってきたが、充血した目までは隠せてなかった。


 「話はこれで終わりです」と彼は静かに言った。「すみませんね、こんな長い話をして」 


 「いや、最後まで話してくれてありがとうございます。私もわからないことが少し理解できました。なにより、自分がこれまで何をしていたのかちゃんと知ることが出来てよかった。あなたに刻まれた魂の傷があなたと共に歩めることを願っています」


 彼は目を伏せ、テーブルの上でゆっくりと指を組んだ。本当はこのまま頭をテーブルの上に落としたいのだけれど、なんとか指に顎を乗せて我慢しているみたいだった。藍色の瞳はきらきらと光っていた。


 「……不思議な気持ちです。あなたといると、僕はいろいろ話してしまうらしい。なぜか、あなたからは人に寄り添う温かさを感じるんです」


 「あまり言われない言葉ですね」


 「気づいてないかもしれません。リリーもあなたにならいつもの二倍ぐらいお喋りになりそうだ」


 「だとしたら、私も口がもう一つ必要になるかもしれませんね」


 彼は優しそうに唇を持ち上げた。


 「帰りは玄関の傘を持っていってください。まだ早いですが、僕はもう眠ります」


 私は頷いた。そして紅茶の残りを全て飲み、帽子を被り直しながら言った。


 「また暇なときにでもいいので連絡をください。次のお昼は私の事務所でどうですか? 」


 「ええ、素敵な考えですね。玄関まで送りましょう」


 「いえ結構、ひとりで行けます」と私は言った。「それでは、次のときまで」


 外に出ると、雨はわんさか降っていた。これまで経験したことがないくらいの雨だ。一粒がアーモンドぐらいの大きさがあった。排水溝は大働きだ。でもそれは誰の涙でもなかった。あるいはもっと抽象的なものだった。


 私は事務所に戻りながら思った。あの湿気ている書斎で、『エリーゼのために』はまだ鳴り続けているのだろうか、と。

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