第14話


  ロイから電話が掛かってきたのは、翌朝の午前だった。私はミルクで濁ったコーヒーを飲みながら、彼の一軒家に招待されたことを承諾した。日程は今日の昼の十二時ちょっきり。むこうで食事を用意してくれるらしい。呼ばれた理由は聞きたかったが、そうはしなかった。結局のところ、そこで私はこう言うつもりだったのだ。残念ですが、ロイさん、一ヶ月の任期が満了したらそれで契約を打ち切らせてください、と。こんな仕事もう関わらない方が得策だ。あるいは好奇心に負けてこう言うかもしれなかった。ハン・インスとの関係はどんなものだったんですか? なぜ、彼を殴ったんですか? 私は何のために働いていたんですか? 


  帽子を被って外に出ると、雨が降り始めた。鉛色の雲の中から特注サイズの青いバケツをひっくり返したみたいだ。ごろごろと稲光がして、遠くで落雷が見える。私は傘を持ってロイの元に向かった。僅か数十メートル先なのに、彼の家の前にたどり着く頃にはもう帰りたい気分になっていた。はやくシャワーを浴びて眠っていたい。湿気で身体がべたついて気持ち悪い。雨はさらに強烈になっているし、雷が私の側の電柱に落ちて黄色く光った。全てが雨と曇りと雷で覆い隠されている。歩きながら、この世界では私以外の人間はついぞ存在しなかったのではないかと思ったぐらいだ。しかし、彼の家の存在感だけは別だった。重そうな雲を背にしながら、雨を弾き返しているように見えた。落雷はその気味悪さに怖がっているみたいに家を避けていた。クリーム色の壁は雨で濡れながらも綺麗に保たれていた。庭は土がぐちゃぐちゃになり、沼のように溶け始めていたが、それが元々そうあるように仕組まれていたようだった。


 ドアベルを鳴らすと、知らない女が扉を開けてくれた。エメラルドグリーンの綺麗な瞳の持ち主だ。中指の青い宝石の指輪が女の強かな知性を物語っているように見えた。こんな女、これまで見たことがない。ロイ・バースはいつ招き入れたのだろう? 私はしばらく考えていると、彼女は静かに小さく微笑んで、私を部屋のなかに通してくれた。


 「あなたがロイに雇われた人? 」


 「ええ」と私は言った。「あなたは? 」


 「彼の昔のお友達。今は違うけれどね」


 「ロイはどこに? 」


 「彼なら書斎にいるわ。呼びに行きましょうか? 」


 「いえ、自分で行きます」


 「なるほど」と彼女は呟いた。「それならそれで構わないわ。でも、もう少しお喋りしましょうよ。彼、書斎に閉じこもっているときは機嫌が悪いの」


 「構いませんよ。あなたみたいな人と話すのは嫌いじゃありません。どんな酒がお好きで? 」


 「芋焼酎。ねえ、もっとマシな質問はないの? 」


 「彼とは具体的にどんな仲だったんですか? 」


 女はゆっくりと目を細めた。天井のライトの反射で長い睫毛がきらりと光った。


 「秘密」


 「なるほど」と私は言った。「あなたの名前は? 」


 「リリー・フランク。別に覚える必要はないわ。ねえ、本当は私の名前なんてどうでもいいんでしょ? 」


 「本当のところ、誰の名前だって興味ないんです。顔を覚えるのは得意なのですが、どうにも名前は不得手で」


 「私の顔、どう? 」


 「私の家に素敵な額縁があるので寄ってみませんか? 」


 彼女は口元を手で隠しながら愉しそうに目で微笑んだ。


 「あなた、回りくどい話し方するのね。でも、嫌いじゃない。どうしてそんな話し方をするの? 」


 「似合ってませんか? 」


 「ちっとも、なんだか滑稽に見えちゃう。あ、気を悪くしないでね。悪気があったわけじゃないの。気になっただけ」


 「ええ、構いませんよ。よく言われますから」


 「どうしてそんなにキザな言い方するの? 」


 「演じているんです。タフな自分を守るために」


 「それって必要? 」


 「意味があるからやっているんです。もし私が家畜の豚として生きていたならこんな役を演じようとは思いません」


 「滑稽だから? 」


 「私はニヒリストのような考え方はあまりしません。自分のやっていることがどんなものであれ、滑稽という一言で終わらせるほど冷めてはいない」


 「ふうん」と彼女は言った。「じゃあ、私がニヒリストなのかしら? 」


 「さあ? 私にはそうは思えません」


 「じゃあ、ロイは? 」


 「基本的に地上で完全なニヒリストは存在しません。生きている限りね」


 「やっぱり、あなたの喋り方って不思議ね。男でも女でもない印象があるの。女が男の格好をするのは素敵なときもあるけど、男が女の格好をしていたら気持ち悪いわ。オカマなんていなくなっちゃえばいいのよ。ねえ、こういうのって差別的かしら? 」


 「気持ち悪いなら仕方ないでしょう。私にその嫌悪感を責めることはできません。無論、誰に責める権利があるのかもわかりませんが」


 「神様かしら? やれやれ、私って性差別者なのねえ」


 「あるいは、そういう側面もあるだけかもしれません。全てにおいて、一律にそうとは限りません。私だって太った男が脂汗を浮かべているのを見ると、その日はベーコンを食べる気が失せてしまいます。そしてその男の良い部分が見えなくなるのです。だが、この問題を論理や哲学で非難することは出来ても、きっとなにも変わらないでしょう。これは心の問題なのです。不条理で理不尽。そして時に残酷」


 「それって一般論? 」


 「さあ、わかりません。個人的な経験の結果から導きだした考えかもしれないし、ただ本から得た知識であるかもしれません。あるいはその両方かも。その総合的な情報が、今では私の思想とも繋がりつつあるのかもしれません」


 彼女は興味深そうにため息を吐いた。甘くて、柔らかくて、重い息だ。大抵の男はその行為に高い知性を見出だし、自分が相手をしている女がこの街で一番賢い相手だと勘違いしそうになるのかもしれない。


 「あなたってさぞ敷居の高い本を読んでいるんでしょうね」とリリー・フランクは囁くように言った。「大学はどこを出て、年齢はいくつなのかしら? あと、男と女どっち? 」


 私は黙った。相手を見据えるようにしながら、大きな置き時計のかちかちと鳴る音に耳を澄ませた。瞬きひとつしなかった。彼女は少しだけ口を開くと、また小さく微笑んだ。


 「ごめんなさいね、探偵さん。私、また馬鹿なこと言っちゃったみたい。あなたが別に異性愛者でも、レズビアンでも、ゲイでも構わないわ。これ、病気なの。本当に悪気はないのよ? 」


 「ええ、信じます」


 「そろそろ雨は止んだかしら? 」


 私は窓の外を見た。


 「いえ、まだ降っているみたいです」


 「残念ね。私、雨が嫌いなの。トムも嫌いだったわ」


 「トム・ホーガンのこと? 」


 「ええ、トム・ホーガン。私たちの救世主」


 彼女はそこまで言うと、眉を一瞬だけ寄せた。ああ、また馬鹿言っちゃったわね、という小さな呟きが聞こえた。


 「ねえ、今の聞こえなかったことにしてくれる? 」


 「いいですよ」


 「ありがとう。あなた、いい人ね」


 「紳士でしょう? 」


 彼女はにこりと笑った。


 「本当ね。凄くいい人」


 「それはそれは」   


 「じゃあ、紳士さん」と彼女は言ってドアに向かった。そしてくるりと私の方を向いて言った。「私はもう帰るわ」


 彼女は続けて言った。


 「ねえ、あなたの傘貸してくれない? 」


 「ええ、どうぞ」


 「ロイによろしくね」


 私は彼女にビニール傘を手渡した。別に怒りはなかった。呆れてもいないし、面倒にも思わなかった。不思議な感覚だ。彼女は傘をばっと開くと、もう私を見ることもなく、銃弾のように降り注ぐ雨のなかをすたすたと歩いて帰った。ばたんとドアが閉まり、リリー・フランクの痕跡は化粧の残り香だけになった。さよならの一つもない別れ方は久しぶりだ。いや、本当はよくあることなのかもしれない。

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