第15話

 テクシスで人を見つけることはアトランよりは簡単だろう。まず街を五つのブロックで別けて考える。次に五つの家を適当に見つけてドアをノックしてみる。できれば子供がいる家庭を選んだ方がいいし、話すのはその母親がベストだ。それを何度も馬鹿みたいに繰り返すことで、パチンコと同じ確立で何らかの情報が得られるかもしれない。もちろん、こんなのは古典的なやり方だし、かなり無駄足を喰らう。それにハン・インスという名前の男がこの街に何人もいる可能性は充分にある。これじゃあ徒労で終わっても仕方が無いだろう。それに、たとえテクシスに100人のハン・インスがいたとして、それを全員見つけたとしても、誰が私の探しているハン・インスなのだろう? 


 ノープロブレム。


 どうせ、腹いせにやっていることだし、そんなこと嘆いても仕方ない。時間は有り余っているし、隈なく調べ尽くしてやる。ひとりひとり念入りに審査してやる。


 それにこんな面倒な捜査じゃなくても、もっと期待できそうな方法がある。外出中のロイがハンとまた接触することを考慮し、彼を尾行することだ。とにかく今は煮え滾る血をどこかに向けて静めなければならず、どんな方法でもハン・インスを見つけ出さないと気がすまなくなっていた。別にロイのためでも、正義感に目覚めたわけでもない。もっと個人的な感情のためでしかなかった。そのために無駄な行為であっても進んで取り組むのだ。私は燃え上がっていた。人間、退屈になると余計なことしかしないものらしい。だんだん頭の中で考えていることが目の前で起こっている現状と乖離してしまうのだ。少し腫れは引いていたが、頬の傷も疼いていた。そいつがわたしに道化にされたままでいいのか、と何度も訴えかけるのだ。くそったれだ。


 だが、私のそんな気持ちとは裏腹に、ハン・インスは簡単に見つかった。わざわざテクシスまで行くまでもない。彼の所在はその日の朝刊が教えてくれたのだ。


 10日午前、童話作家、ハン・インスさん(28)が自宅のアパートで息を引き取った、という切り口からそれは始まった。首吊り自殺だった。ドアの取っ手にロープを巻いて足を宙ぶらりんにしなくてもいいタイプの自殺方法だ。検死の結果、体内から基準値をはるかに超えるアルコールが検出され、泥酔状態で事に及んだと推測されている。一ヵ月後にはウンベルト出版社から新作『太陽とぼく』の発売を控えており、本人もそれを楽しみにしていたらしい。借金もなく、友好関係も良好だった。現段階で自殺の理由は見当たらない。遺書はなかった。なお、自殺で疑いはないが、アトラン警察所は第三者による自殺幇助の可能性があると見て捜査を進めている。週刊誌には二年前にハンが精神科に通っていたことがわかった。


 私は彼の自宅をパソコンで調べると、すぐに家を出て車を動かした。これといって特徴のない平凡なアパートだった。雑誌を読んでいる管理人に、知人だと言ったところ、部屋の番号を教えてもらえた。503号室。そこでハン・インスは死んだのだ。


 「最近」と管理人は言った。「警察がうるさくてこまったもんだよ。あんたも関係あんの? 」


 「ええ、実はね。口外はしないでくださいよ? 」


 管理人は周囲をさっと見渡し、親指を立てた。これは我々だけの秘密のやり取りみたいに。私もそれっぽいウインクをして、エレベーターの扉が閉じるまでそうしていた。それで面倒がひとつ解消するなら、これぐらいの行為なんてどうってことないのだ。


 503号室のドアの前に着くと、ノックを二回鳴らした。もちろん反応はなし。代わりに、隣の504号室の扉をノックしてみた。こっちは返事ありだ。赤ん坊を抱えた母親が出てきた。


 「なんでしょう? 」と彼女はじろじろとわたしを不審そうに見た。どこか敵意も感じた。


 私は軽く挨拶をして、胸ポケットから名刺を取り出すと、彼女に丁寧に手渡した。彼女は子供を右腕でしっかりと抱きなおして、左手を小さく前に出して名刺を受け取った。目元が歪み、それからため息をついて、納得したように頷いた。


 「少なくとも、記者や警察ではないみたいね。今度来たら追い返してやるつもりだったの」


 「少し訊きたいことがあるんです。五分ほど時間をもらえませんか? 」


 「お隣だったハン・インスさんのこと以外なら、何でも話してよろしくてよ? 」


 「それがハン・インスのことでしてね」


 私はそう言いながら、財布を鞄から出すと、五枚の紙幣を彼女に握らせてやった。自分でもいくらになるか数えてない。彼女はびっくりしたように目を輝かせた。


 「でも、刑事さんはこういうことはしないでしょう? 」


 「ええ、ええ」と彼女は強張った声で言った。「なかでお話しましょうか? 」


 「いや、ここで結構」


 「ええ、そう、わかったわ。そうね、それで何のお話を聞きたくて? 」


 「刑事にどんな質問をされました? 」


 「刑事ね、刑事。もうあんまり覚えてないけど。そうねえ。あなたが最後にハンさんを見たのはいつでしたかとか、ハンさんが死んだ日に何か隣から物音が聞こえませんでしたかとか、そんなことよ。でも、そんなの私が知るわけないじゃない? だって、わたし、彼とまともに話したのは引っ越しの挨拶ぐらいなのよ? 作家だっていうのも最近知ったんだから! それなのにあいつら何度も人を変えてはやってきて、同じ質問しかしないの。刑事がいなくなったら、記者。それからまた刑事。そしてまた別の会社の記者! 頭がどうにかなりそうよ」


 「そいつは面倒でしたね」


 「面倒なんてもんじゃないわよ。どうして私がそんなこと知らなくちゃいけないのかしら? 本当、嫌になるわ! 」


 私はため息をついた。


 「それであなたはどう答えましたか? 」


 「何にも知らないのに、何を答えるって言うのよ? 知らないの一点張りだったわ。ああ、でも彼のところに度々来る訪問者については知っていたわね」


 「訪問者? 名前は? 」


 女は受け取った金を懐に入れて、けらけら笑った。


 「あんたもばかねえ。そんなの知るもんですか」 


 「それならロイ・バースという名前に記憶はありますか? 」


 「誰それ? その男の名前? 」 


 「オーケー。それなら外見は覚えてないですか? 」


 「髪の色は黒で、なかなか整った顔をしてたわねえ、あ、瞳が藍色だったわ。わたし、昔はああいった色の宝石を指輪にしてたのよ? でも、もう質屋に入れちゃったんだけどね。全く、男ってどうして猿みたいなのかしらね? 」


 「ハン・インスについて警察から他に聞いたことは? 」


 「ねえ、何度も言ってるでしょう? わ、た、し、は、し、ら、な、い、の! あんた、耳付いてるの? 」


 もう少しわたしが若造だったならば、目の前の女をぶん殴っているところだった。もう充分だ、と私は自分に言い聞かせた。これ以上付き合う必要はない。ロイはここに来たのだ。それだけで充分。


 「本当、あなたもお金をくれること以外、あの馬鹿な人たちと同じね!」と女は喚いた。「なにも知らないって言ってるのに、同じ質問しかしないんだから。もう馬鹿なこと言うのやめてくれない? 」


 やれやれ。私は心の中で毒づいた。それから捲くし立てる女をどうにか落ち着かせて、こっちも落ち込んだ気分で事務所に戻った。部屋に戻ると、台所の側の壁を一発殴った。やっぱりあの女を殴っとけばよかったかもしれない、と後悔もした。でもその度に赤ん坊のふっくらした顔を思い出した。それに考えてみたら、女の言うこともけっして間違っているわけでもないのだ。わたしとルークには決定的に違うところはあるけれども、それ以外ではそんなに変わらないのだから。……いったい、私はどうしちまったんだろう。さっきまであんなにハン・インスについて熱心になっていたのに、今ではもうやるせない気分で滅入っていた。そして時間が進むに連れて、あの歯の汚い男のこともどうだってよくなった。何も考えないでいた頃の生活が恋しくなった。




 私は熱くなった頭を冷やすためにソファで横になって一時間ぐらい眠った。もう煩わしい記憶に悩まされたくなかった。絶対的に孤独な世界で一人きりになっていたかった。そうして数字を頭のなかで数えながら、31から先を数えたかどうか怪しくなったところでわたしは目の前の世界から意識を手放した。


 夢の中で私は野球ドームの観客席にいた。デリッツは今年も調子が良かった。投手に恵まれていて、打者も右肩上がりの成績を残してきた者たちばかりだ。相手は聞いたことも、見たこともないチームで、6回裏で五点も差をつけられていた。安心して見れる試合だ。私は観客席に落ちる球を見つめながらコーラを飲んだ。


 9回裏になったところで、これまで見たこともない男がわたしの横に座った。よれよれのシャツに、ジーパン、靴はサンダルを履いていた。まだ若いのだが、年齢以上に老けていそうな雰囲気があった。彼はわたしに挨拶をすると、握手をして、それからポップコーンが山盛りになっている箱を差し出した。


 「ほら、これあげるよ」

 

 私は礼を言って、一つもらった。彼はにこりと微笑んだ。


 「どこかでお会いしましたっけ? 」と私は言った。


 「いや、我々はこれが初対面だよ」と彼は答えた。「でもデリッツのファンならみんな仲間だ。そうだろ? 」


 彼はそう言うと、リュックからプラスチック製の応援バットを取り出し、それを両手に持って振り回した。ほかにもリュックのなかにはメガホンやジェットバルーンなんてものが一通り揃えてあった。全部デリッツのシンボルマーク付きだ。

 

 試合は好調だった。シリウス・ストーンが敬遠されたことを除けば、今年のデリッツは持てる力の全てを出したと言っても過言じゃないかもしれない。打って、走って、捕れる選手ばかりだ。いつも足が遅いラッドもこの試合だけはなんと二塁まで走れた。勝てる試合。これがまさしくそうだった。そして、そう思うと退屈な試合でもあったのだが、隣の男は熱狂的に声が枯れるぐらい叫びながら応援し続けた。やがて六点も差をつけてデリッツは勝利した。隣の男は嬉々として拍手を送り、わたしの方をちらりと見て言った。


 「君はもうハンを探さなくていいの? 」


 私はどきりとしたが、もうどうだって構わない、と言った。面倒なのはこりごりでね。


 「まあ、そうあるべきだろうね。何でもかんでも首を突っ込むわけにはいかない」


 私はそれに何も答えなかった。彼はそれを知ると、もの悲しそうに言った。


 「僕がハン・インスだ。君が探していた男だよ」


 目が覚めた。


 私はゆっくりと起き上がると、眉間を三秒間つまんだ。疲労感で身体が重く感じた。ため息をつき、吐いた息と同じ量の空気を肺に取り込んだ。


 「いや」と私は呟いた。「もう探していない。私はこんなことをやっていられないのだから。もうお前に興味はないんだ」

 

 それから私は洗面台で顔を洗った。どうしてあんな変な夢を見たのか不思議だった。私の想像するハン・インスと夢のハン・インスはその性格がかけ離れているように思えた。少なくともデリッツの熱心なファンというイメージはなかった。しかし、と私はこうも考えた。私の想像するハン・インスだって夢と同じくらいあやふやなものかもしれない。だが、もうこんなことに関わる必要はないのだ。その点では夢の中のハンとわたしは同意見だったはずだ。



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