第12話
新聞の広告欄を読んでいると、ドアのベルが鳴った。鍵は開けているので、部屋に入れてやったら聞き覚えのある足音が聞こえた。昨夜のルークの使えない部下だ。相変わらず歯は黄ばんでいて汚かった。私はこういう人間と出会うたびに、無料で歯間ブラシをプレゼントしてあげたくなる。彼は自分の歯にヘドロが詰まっているのもわからないまま恥部を見せびらかしながら笑っていた。そんなことをされたら私の方が恥ずかしいのだが、忠告してやるような親切心も起きない。ソファに座らせてやる気も、愛想よく笑うことも出来そうになかった。ただ、この男だってソファに座る気も、愛想を振りまいてもらう必要もなかったはずだ。
男はにやにや笑いながら、私の方に歩み寄って、目の前で見下ろしながら足を止めた。そして歯の間からしゅうっという蛇のような音を出しながら、愉しそうにわたしに言った。
「なあ、あんた。おれがどうしてここに来たかわかる? 」
「さあねえ」と私は困ったように答えた。「歯医者ならここじゃないんだけど」
「歯医者? どうして歯医者の話になるんだよ? 」
「なんでもないよ。それよりキャンディー欲しくない? ちょうどミント味買ってきたんだ」
「いらない」
「だろうね。それで話って? 」
彼の顔はぽかんとしていた。きっと頭の中ではどこでやり方を間違えたのか考えているのだ。
「どうした? 」
「いや、別に」と彼は鼻の下を指で擦りながら言った。「俺はあんたが誰に雇われているのか聞きに来ただけだよ」
「言わなかったらどうなる? 」
「ここは誰もいない。俺とあんただけ。わかる、この意味? 」
「なるほど、わかったよ。素直になろう」
「話がはやいね」
「もう自分より大きなものに歯向かって殴られたり、傷ついたりするのは疲れたんだ。それに素直になって隠し事をやめる人生の方が楽だってようやく気づいた」
「で、誰が依頼人なんだよ? 」
「その前にせっかくだから一つだけ隠し事を言わせてくれ。せっかく素直になるって決めたんだから」
彼は退屈そうに言った。
「なんだよ? 」
「よお、歯グソ野郎」
もの凄く速い動作だったが、手筈どおりに物事は進んだ。まずは暗闇。それから衝撃と共に訪れる白色に近い閃光。次に瞼が開いたときには、絨毯の小さな糸の先まで目で確認できていた。最後に鼻を手で触って出血しているかたしかめる。オーケー、手は真っ赤だ。今日も相変わらず脆弱、問題なし。私はテーブルの端を掴んで立ち上がると、脳みそがぐらつくような感覚を我慢して歯グソ野郎を精一杯睨みつけた。奴はへらへら笑っている。顔は真っ赤に高揚していて、これまでにないくらい満足しているはずだ。
「どうだ、痛かっただろ? 」
「ああ、痛い。まじで痛いや」
「もう一発喰らいたいか? 」
「嫌だ」
「それなら話すんだ。依頼人は誰? 」
「ああ、頭がぼやけてきたよ」
奴は次を繰り出すためにまた構えた。さっきのより強いものが顔面に直撃するかもしれない。もう充分だ。私は左足を後方にずらしつつ、避ける準備を整えながら言った。
「オーケー、ちゃんと言うよ。ポール・ロッドハウスという男だ」
「誰だそれは? 」
「ほうら、最近ここらへんで通報があっただろ? えーと、たしかロイって奴が自分の家の屋上で一緒に話していた男を殴ったみたいじゃないか? その殴られた男がポールだよ」
「違う、そいつの名前はハン・インスだ。ロッドハウスなんて英国作家みたいな名前じゃない」
「でも住まいはテクシスだろ? 」
「場所じゃなくて名前を言えよ。小出しに出しても意味がねえんだ。まだ許してやるからさっさと名前をばらしちまえ! 」
「それは言えない」
「……わかった。もう終わりだ、お前」
男はそう言うと、チェスの駒を進めるみたいな正確な歩幅で二歩詰め寄った。それだけでわかる。しっかり基礎から学んだ格闘経験者だ。私みたいなストリート仕込の大げさな動き方はしない。もちろん繰り出された左ジャブは避けきれないし、正確な位置へと拳は向かってくる。乱れの無い、お手本のようなパンチだ。もしこれがフックだったら私はしっかり眠っていただろう。そうだったら良かったのにと思わずにはいられない。痛みを忘れて意識を飛ばせることは、苦痛に耐えながらのた打ち回るより幸せなことだ。
口内がずたずたに切れて、鉄の味が広がった。冗談じゃない、死にやがれ、くそったれめ。この三つの言葉が頭の中で何度も沸いては消える。傷のことを考えたら腰抜けになるのを知っていたからだ。それに泣き言を喚くなんてことは絶対にやりたくなかった。私は念じるように繰り返す。冗談じゃない、死にやがれ、くそったれめ。それにしても痛い。くそったれめ!
はやく、少しでも急いで起き上がらなければならないというのに、身体は意思どおりに動いてくれない。痙攣している。痛い。しかしこのまま無様にくたばっているわけにはいかない。少しのガッツが残っている限り、私はまだ立ち上がれるはずだ。
「もう帰れ」と私は振り絞った声で言った。「お前なんかくたばっちまえ! 」
そして瞑っていた目を見開いた。男はいない。あの汚い歯と共に奴はもう帰っていたのだ。もだえ苦しむ私を嘲笑いながら、意気揚々と去ったに違いない。惨めな気分だった。どうしようもないくらい惨め。恥ずかしくて、悔しくて、もうこのまま静かに死んでしまいたくなった。私は何とか立ち上がると、洗面台までとぼとぼ歩いた。鏡には血塗れのゾンビが立っている。ついさっき人間に噛み付いたせいで食べこぼしの血が顔のいたるところにへばりついているみたいだった。顔には痣が出来ていて、片目が酷く充血している。でも右目だ。元々、視力が弱い方なので大したことじゃない。(そう、こんなの屁じゃない)私はまだいける。(何が? )私はまだ闘える。(誰と? )
泣きたくなった。なんて無様な格好だ。鏡に涙目のゾンビがいる。もう誰か私を殺してくれ、という言葉が頭のなかで出てくる。あるいはあのクソ野郎を殺してやる。そう、私はゾンビだ。不死身で何度だって立ち上がる。歯はぎらぎらと尖っていて、いつも空腹。あの野郎の首なんて骨ごと胃に納めてやれるんだ。今度やってきたらぶっ殺してやる。そして首なし死体を犬にお裾分けしやるさ。(なぜ? )
「殺してやる」と私は鏡を見つめながら言った。「殺してやる、殺してやる。いますぐにだ。お前なら殺せる。迷うことは無い。奴に噛みつけ」
それから落ち着かせるように呟く。こんなのどうってことない、いつも通りさ。慌てるようなことじゃない。お前は上手くやったじゃないか? 見事にロイに殴られた男、ハン・インスの名前をあの馬鹿から抜き取り、その男が警察の捜査と関わりがあったことを悟られずに掴めたんだ。そのうえハンの住んでいる街まで暴いてやった。大したもんだよ。並大抵の根性じゃ出来ないさ。タフでハードでクール。(芋虫みたいに這い蹲ったのに? ) グッドでナイスさ。
次の日、私は目元まで帽子を被ると、顔の傷を隠せたか鏡でたしかめた。ばっちりだ。こんな死んだ顔を人様に見せるわけにはいかない。私は口笛をでたらめに吹きながら事務所を出た。
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