第11話
私はすぐにドアの鍵を閉め、その夜はなるべく寝ないで過ごした。朝になると、すぐにロイに連絡した。時計の針はまだ六時を示したばかりだったが、彼は寝ぼけてなかった。私の話している内容に驚く様子も無い。彼は私の言葉のひとつひとつを間違いなく聞き取り、正確な情報として精巧に自分のなかに取り入れていた。
「なるほど」と彼は聞き終えたあと、神妙に言った。「警察が僕の家にですか……」
「彼らに目を付けられるような心当たりでもありますか? 」
「ないです」
「申し上げにくいのですが、前も警察が来たことがありましたよね? あれが問題になっていたりとかは? 」
彼は黙った。
「基本的に、刑事が考えなしに人の家の周りを捜索はしません。彼らは既にあなたの情報をいくらか掴んでいるだろうし、少なくとも、もうあなたが私の依頼人であることは気づいているはずです。そこで提案なのですが、もし隠していることがあったら教えていただきたい。何らかの助言はできるかもしれません」
「僕は潔白です。少なくとも刑事が僕を捕まえることなんてできっこない」
「少し訊ね方を変えましょう。あなたが家にいる間、私がここから見張らなければならないこともこれと関係がありますか? 」
「それは訊かない約束です。たとえ、あなたが拳銃を持ち出そうが、法を盾にして脅そうと言う気はありません」
それはそれなりの決意を込めて言っているようだった。私は熟考し、唆すような、諭すような口調に変えて言った。彼がわたしのことをもっと信用していた方が都合が良かった。
「拳銃で脅しても私が牢屋に入るだけです。法を持ち出す気もありませんし、私はこの契約内容で納得しました。それが契約と言うに相応しいか、法律上の何かに抵触していようが、私はこの仕事を続けるだけだし、これ以上問い質すこともありません。これまでだってその手の仕事を請け負ってきたし、正しくないこともやってきました。これで私は飯を食ってきたのです。ただ、それでもあなたに対してこの質問をしてしまったのは、事前にこちらの対策を把握しておきたいからです。次の手をどう打つべきか我々は知っておいたほうが賢明でしょう」
ロイは最初から決めていたみたいに言った。この男をどうにかするなんて無理な話だったのだ。
「ありがとう。僕から言うことは何もありません。まだ言えないし、これからもこの見張りにどんな意味があるのか言えないかもしれません」
私はふうと心のなかでため息をついた。
「……あなたは正直な人ですね。だいたいの依頼人は、こういうときに勝手な物語を作るものです。ストーカーに悩まされているから自宅を見張っていてくれ、とか」
「嘘は人からの信頼をなくします。僕はそれを知っている」
「それに吐き通さなければなりません」
「その通り。嘘はよくない。誰でも知っている。だが、それをやり抜くのはとても難しい。僕は自分で意識している範囲では正直でいます」
「信じましょう。というより、私にはその他にありませんからね」
「他に何か報告することはありますか? 」
「いえ、何もありません。あなたはいつも通りでした」
そう、彼は変わらない。朝に起きて、昼にいなくなり、夜に寝るだけ。おかげで私も規則正しい一日を過ごしている。事務所の窓から彼の一軒家の窓を覗くとき、私が焦点を定めなければならないのは彼なのか、その家なのかわからなくなる時がある。そして本当のところ、私がロイ・バースを見張っているのではなく、ロイ・バースが私を見張っているのではないかと錯覚してしていた。あの赤いカーテンで閉じられた窓の隙間から無数の人影が見えるような気がするのだ。一人ではなく、二人。いや、意識すればするほど三人、四人、五人と増えてしまう。ロイ・バースの周りでは陰謀や後ろめたい雰囲気を感じる。いったい、誰が腹を空かした蜘蛛で、誰が巣に引っ掛っている小蝿なのだろう。私か、ロイ・バースか、ルーク警部補か、あるいは……いや、これ以上はわからない。(少なくとも、あの歯の汚い男はこの舞台では役がないはずだ)確かなのは、私の日常はロイ・バースに操られていること。自由になるために稼いでいるのに、こんなのどうかしていると思う。その点では私もルークと何も変わらないのだ。かつての私は地図も持たない旅人を夢見ていたというのに。
★
昼になり、ロイが外出をすると、私もパン屋に出かけたが、この日は店が開いてなかった。しばらく休みます、とだけ書かれた張り紙が扉にあった。何があったかはわからない。閉じられたシャッターを眺めながら、少しだけ悲しくなったことを覚えている。次の日も、そのまた次の日も寄ってみたが開いてなくて、今ではもう彼ら三人が帰ってくることを望むこともなくなった。
木苺のクリームパンとフランスパンは諦め、代わりに近くの店でクロワッサンを二個買って、帰りは手品師がいたルートで事務所に歩を進めた。その日も彼は人を真っ二つにしている最中だった。だが、観客は前の時よりも明らかに少なくなり、彼もそろそろ潮時なのを悟ったのか、早めにショーを切り上げた。私は拍手をし、少しだけ協力してやった。彼は小さくお辞儀をし、嬉しそうに言った。
「お客さん、前も観に来てましたよね? 」
「うん、帰り道なんだ。観てて楽しかったよ」
「ありがとうございます。だけど、そろそろこの街から撤退する時期ですね。もっと稼げるところに移ります」
「ここでもう少し粘ってみないの? まだ足を止めてくれる観客は結構いるわけだし」
「いえ、それも悪くないのですが、その日暮らしの稼ぎで満足しているわけじゃないんです。もっと有名にならなくっちゃ」
「へえ」と私は言った。「なんだか残念だね」
「僕はもう少しで三十路なんです。あまり悠長には構えていられませんよ。全く、時が経つのは速すぎる。今頃僕はテレビのスターになっている予定だったんです」
「そうだったんだ。まだ若く見えるけどね」
彼は目を大きく見開いて、少年らしい笑顔で喜んだ。
「……ああ、なんだか久しぶりに愉快な気持ちになりました。その台詞、親父にもよく言われていたんですよ。勉強の出来ない僕をよく怒鳴る男で、何を言おうが頷かない頑固者でしたが、僕の容姿だけは手放しで褒めてくれたんです。多分、死んだ母に似たおかげでしょうね。元気にしているかなあ? 」
「帰ってあげないの? 」
「ええ、帰るわけにいかないんです。成功すると誓って家を出たので、それまでは顔を合わせれません。僕は今よりもっと稼いでテレビに出たいから」彼はそこまで言うと、顔を赤らめながら帽子を掴んで少し上げた。「それではお客さん、またどこかで会うことがあったら僕を応援してください」
「ああ」と私は言った。「次はテレビの向こう側で会えることを願ってるよ」
我々は握手をした。だが、それからも彼をテレビで観ることはなかったので、その顔はもう覚えていない。それに別れたあと、次に会うことも無いだろうと私は予感していた。あの手品師だってそう思っていたかもしれない。まだ彼が手品師かわからないが、そうだったら良いなと思っている。そして彼の父親と会えたならなおさら良いかもしれない。三十代。それがどういう基準なのかわからないが、ある一つの指針にはなっているのかもしれない。でも、四十代になったら、また別の考え方をしているのだろう。まだ私には近いようで遠い話だ。
それから事務所に戻り、メルデーの短い方を二本吸いながらコーヒーを飲んだ。時々、クロワッサンを齧って、どうせ買うならチョコ入りを買っとくべきだったと後悔した。だが、ここ数日で私の体重は二キロも増加したのだから、これ以上太るわけにもいかなかった。全く、このままだと豚になりそうだ。あまりに退屈だから、ついつい間食をしすぎてしまうせいだろう。娯楽が食事だけなんて家畜みたいだった。
私はその日も新聞のクロスワードパズルを五分で終わらせると、一時間ぐらい昼寝をした。コーヒーを飲みすぎたせいか、意識がはっきりしていていて寝付けなかった。途中で睡眠を諦めると、なにか暇つぶしにやってみようと思い、何年か前に闇市場で買ったノートが机のなかにあるのを思い出した。なんの変哲もないノートだったが、表紙の暗い青色とざらざらとした手触りが気に入ったのだ。だが、買ってから使う理由もなく、これまでその存在を忘れかけていた。
せっかくだから何か書いてみたくなった。いや、汚してみたくなっただけかもしれない。私は机の抽斗から青いノートを取り出すと、適当なページを開いて、左側の最上列にペンで順番にこう書いていった。
1.パン屋が不在
2.手品師が移動
3.仕事が退屈
そこでペンを止めて、じっとこの1から3の相関関係を考えてみながら眺めた。1と2は関連がありそうで、3が少しずれていそうだ。いや、よくよく考えてみたら全部ずれているかもしれない。ただ頭の中で思いついた文に過ぎない。なんでこんなものを書いちまったんだろう? いずれにせよ、わざわざこの青いノートにこんな文を書くような価値はないはずだ。私はペンを机の上に置くと、ノートをぱたんと閉じた。無意味。全てに対してそう思えた。なにか意味を感じていたい。このノートにもそれをあげたくなったのだ。でもこんな文を書くよりももっと意味のあるものを書いてやりたかった。(あるいは、私が気づいてないだけで意味はあるのか? )
安い煙草を吸ってるから、頭のなかまで煙が充満して脳が充分に働いてない気がする。煙草なんて今すぐやめるべきなのだ。こんなもの吸ったって身体に悪いし、周りも煙たがるし、考えが散漫的になって、そのうえ馬鹿みたいに高い税金だって取られちまう。それにパッケージを見てみろ、ちゃんと『煙草はあなたの肺気腫を悪化させる危険性があります』って書いてるじゃないか。厚生労働省のホームページにもそう紹介されてある。
おい、じゃあ、なんでこんな馬鹿みたいなもの売ってんだ?
ロイはまだ帰ってきてないようだ。仕事に励んでいるのか、遊んでいるのか、社会貢献に費やしているのかはわからない。(そもそも彼はどんな仕事をしているのだろう? )どうでもいいが、退屈な仕事だ。こんなことを長くやっていると、ただでさえ小さい脳みそがさらに小さくなりそうだ。他の仕事に励んだほうがマシな気さえしてくる。
……時々、あまりに毎日に刺激が無いものだから、本当にどうでもいい考えが離れなくなる。ある時なんて、彼の家を眺めながら実はロイ・バースはテロリストで、自宅にロケットランチャーを隠しているから私を雇っているという妄想が頭から離れなかった。既にアトランは彼のほかにも多くのテロリストが潜んでおり、この前ロイが殴った男もその一人なのだ。しかしその男は臆病風に吹かれてしまい、脱退しようとロイに相談したが、熱狂的までに高ぶっているロイは怒鳴り散らして彼をぶん殴ってしまった。これに警察が動き出し、一時はロイの弁が立つので追い返せたが、慎重なロイ・バースは二度と失態をしないと心に決めて私を監視役として抜擢させた。そのうえ、地域のボランティアに参加し、幼いエレナとも仲良くすることで市民イメージの向上を企み、それは見事に成功したのだ。おかげで彼らの計画は順調に進んでいる。アトランの崩壊まであと24時間! 悪しきロイのスケジュールは時間通り進行中。ちくたくちくたく、ばーん! ……なんて馬鹿な妄想なんだろう? はやいところ、こんな仕事やめちまったほうが得策かもしれない。私は狂いつつある。
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