第10話
電灯に集まる種類もわからない蛾を窓から眺めつつ、そろそろ私も酒を飲んで、寝る用意をはじめる時間にしようかと考えた。それで、まずはカーテンを閉めようとしたところ、ロイの一軒家の周辺に二人の男の影が見えた。動く気配は無い。泥棒や強盗の類ではなさそうだった。どちらかといえば、私がしていることと似ているような気がする。彼らも静かな夜の観察者なのだ。瞳の大きな猛禽類さながら、獲物をじっと見つめていた。が、わたしの視線に気づいたようで、挑みかかるような目つきで眼光をこちらに向けると、さっと建物の影に隠れて闇と同化した。かなり手馴れたやり方だ。こういうやり方ができるのは限られている。私はあらかじめドアの鍵を開けて、ソファで座って神経を尖らせながら待った。
思った通り、すぐに事務所のドアのベルが鳴った。ゆっくりと返事をしてやると、足音が二つ聞こえた。一人は知らない男で、眉が太くて、歯が汚く、気が短そうなタイプに見えた。もう一人は知っていた。かつて私の依頼人が誤認逮捕されたとき、若手の刑事に手錠を掛けさせるように命令した刑事だ。私はすぐに弁護士を連れ添って争い、無事に依頼人は無罪放免となったが、この刑事のお咎めはなにもなくて、それなりに腹が立った思い出がある。まだ若いはずなのに氷を思わせるような白髪頭で、冷たい表情をけっして崩さない。彼はルーク警部補。最近まで、週刊誌で不祥事を働いて降格させられたことが取り上げられていたことで記憶に新しい。それまでの彼は、やくざ絡みの事件で見事に功績を残しながら順調に昇進しており、そのままいけば未来は約束されていたはずの優等生だった。組織を誰よりも理解し、同僚を蹴落として地位を獲得する方法を熟知しており、策略家としても才能があった。だが、結果を先走ったばかりに強引な捜査が世間の明るみに出てしまい、目を光らせた記者によって芋づる式に不祥事が暴かれてしまったのだ。もう彼のキャリアは閉ざされたも同然だろう。正直に言うと、ざまあみやがれって思っている。
彼らは居間にやって来ると、部屋の家具やらを慎重に見渡し、わたしの顔を捕食者の目で見た。私はソファを勧めると、ルークは音を出さずに座った。もう一人の男は立っていることを選んだようだ。
「これはこれは」と私は言った。「どうされました、
ルークは激しく私を睨んだ。今にも舌打ちしそうな勢いだ。彼は苛立ちながら咳払いをすると、射抜く視線を保たせながら言った。
「用件は簡単だ。なぜ、我々を見ていた? 」
「怪しい男が近所に二人いたので、警察に連絡をしようと思っていたんです、警部補」
「お前、さては誰かに雇われているな? 」
「どうかな、警部補? 」
「平和に終わらせたいなら」と彼は言った。「その警部補呼びをやめることだな」
「了解です」と私は答えた。「警部補」
ルークは舌打ちをした。すると彼の後ろにいる男が指をぽきぽきと鳴らし始めた。わかりやすい陳腐で滑稽な牽制だ。ルークは長いため息をついて、男にそんな馬鹿なことをやめさせるように命令した。男はその言葉に満足したのか、垢の詰まった歯を披露してほくそ笑んだ。ルークは怒鳴った。笑ってないでお前は出て行くんだよ、このぼんくら、と。男は目を大きく見開くと、通信が途絶えて宙を漂う人工衛星みたいに停止した。それから、ようやく通信が届いたのか、「どこで待機すればよろしいでしょうか? 」と彼は何かを期待するような声色で言った。が、ルークは何も聞こえなかったように無視した。愚問に答える気は無いのだ。男はどうしようもないので、私をじろじろと睨みながら不服そうに部屋から出て行った。ばたんとドアが閉まり、ルークはさらに長いため息をついた。
「前の部下のほうがまだ使えたな。最近はああいう馬鹿が多くなった気がする」
「違う、ああいう類の人間は昔からいた。君が同じラインに立っただけだ」
「相変わらず、ふざけた言葉を吐く口だよ。平和に終わらせたいなら二度と馬鹿なことを言うな。私もこれ以上警告する気は無いぞ? 」
「なぜ、ここに? 」
「ドラマみたいな台詞で悪いが、質問するのはこっちなんだよ。お前は誰に雇われている? 」
「さあねえ、警部補」
「そろそろお前を誰かに殴らせてやりたくなってきたよ」
「やってみたら? 」
「社会が変わり、私も変わらなければならない」
「いや、あんたらの社会は何にも変わってないよ。今より陰湿になるだけさ」
私はそう言うと、おおげさに肩をすくめた。ルークはそれを表情も変えずに黙って見ていた。
「全てはお前の返答次第だ。質問に答えろ」
「悪いが私は答えられない。職業倫理にも反するからね」
「そう言うと思ってたよ」とルークは静かに呟いた。「まあ、それならそれで構わない。方法を変えるだけだ」
「私を見張る気か? そうすると、いずれ依頼人が誰かわかるかもな」
「既に目星は着いてはいるんだ。いずれすぐにわかることさ」
「それはそれは」
ルークはため息をついた。もうこんなやり取りをするのは飽きてしまったみたいに。
「まあ、お前が頑なに口を閉ざしたところで、我々にはどうってことないんだよ。残念ながらシャーロック・ホームズに出てくるような無能な警察じゃないってことだ。個人より組織が勝るのが道理さ。だからこそ私は組織のなかで埋もれたとしても、そのなかで上を目指しているんだ」
「でもあんたよりレストレード警部の方が身分が高いし、身の振り方も弁えていそうだな」
「……言いたいことはそれで終わりか? 」
「いや、まだあるよ」
「言えよ? 」
彼はそう言うと、均等に整えられた眉を指で確かめるようになぞった。気が立っているのだ。人間の感情が高ぶるときの兆候は人それぞれだ。こういう癖をひとつでも見つけられると、そいつがどんなに権威的で未知数なことが多い人間であれ、相手も所詮わたしと変わらない生き物なのだと安堵できる。じっくりと思索を重ねながら、一つでも理解しようとすること、それが恐怖と向き合うことだ。
私は言った。
「まあ、依頼内容が暴かれたところで、それがどれだけの意味があるのか私にはわからないんだがね。でも、だからって、あんたらに私の依頼人を売るわけにはいかない。それは絶対にだ」
「そうやって正体のわからない奴を聖人みたいに守ってやれよ」
「それが私の役割なんだよ。あんたらと同じで全てがすっきり整理できる職業じゃない。時には、やりたくないことだってしなければならない選択に迫られる。だが、あんたらと違ってその裁量が私にある。これがあんたらと私の大きな違いだろうね」
「それで? 」
「いや、それだけだ。もう言うことはないし、何も言いたくない。じゃあ、そろそろ」と私は語気を強めて言った。「夜も遅いしあんたも帰りな? 」
ルークは眉を歪に曲げた。しかし何も言おうとはせず、素直に黙って立ち上がった。昔とは勝手が違うわけだ。それに少しは賢くなっていた。そのまま彼は玄関で待っている男を連れて、悲しいぐらいに暗い外に出た。必要に応じて、いつでも獲物を捕らえられるように静かな歩き方で。そうして彼らはその色と同化するのだ。
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