第9話
しばらく薄暗い余韻に浸りながら歩いていると、道の角に数十人ぐらいの人が群れていた。歓声や笑い声で盛り上がっている。私も電灯に集まる虫のようにそこへ引き寄らされ、群衆の中に入り込むと、群れの中心で手品を披露している若者がいた。ちょうど、箱に入れた人間を刃物で真っ二つにしている最中だった。どうやら手品師によって無作為で選ばれたらしい男は目を大きく見開いて、悲しいようで嬉しそうな悲鳴をあげいている。(きっとサクラだろう)手品師はにこにこ笑いながら、群集に合図をすると、男を真っ直ぐに切断し、そのあと三つカウントダウンをしてから見事に切り離された胴体をくっつけた。群集は拍手を彼に送った。しかし手品師は丁寧にお辞儀をすると、両手をばっと横に広げて言った。
「しかし、これではありきたりな手品でしかありません! 」と彼は叫んだ。「これからが本番です。さあ、みなさん、私の手をよく見て? 」
彼は右手をゆらゆらと動かすと、一瞬で指の間にカードを出現させた。私の隣からごくりと生唾を飲み込む音が聞こえた。そうなっても当然だろう。これには私も見入っていた。ちゃんと基本ができている手品師は、簡単な技でも相手をしっかり虜にできるものだ。
「さあ、これからこのカードを半分に破ります。するとその瞬間、私はこのたくさんいる人の中から砂煙のように消えてしまうのです。誰かカードを破りたい方はいませんか! 」
手品師を最前列で取り囲んでいる者たちがすぐに手を挙げた。そのあと、後方でも手が挙がり、手品師は群集をじらしたあと、一番小さな子供を選んだ。そして彼は子供を自分の隣まで呼び寄せ、ゆっくりとカードを手渡しながら子供と同じ背の高さまでしゃがんだ。
「いいかい、坊や。これから手品を成功させるために二つの約束を守って欲しいんだ。できるかな? 」
「わかった」と子供は言った。すこし緊張しているみたいだった。
「まず一つ目は僕が合図を言うまでこのカードを破ってはいけないこと」
「いいよ」と子供は言った。
「もう一つは破ったらすぐにカードを手放すこと。できれば空に捨てて欲しいんだ。この約束は守れるかな? 」
「守れる」
手品師は微笑んだ。そして自分を取り囲んだ者たちを横目に見やりながら、巧妙に群集の猜疑心を煽ると、周りから笑い声が聞こえた。と同時にさらなる期待も生まれたはずだ。手品師はそのいちばん高揚しているタイミングを見逃すことなく、周りからの注目を集めた後、すぐに子供にカードを破らせる許可を与えた。が、カードは切れ目さえ入らなかった。子供が指にぐっと力を入れても破れる気配は一向に無い。ついには子供も涙目になってしまい、手品師に残念そうに返した。彼も困ったように受け取ると、仕方なく自分でも破ろうとしてみたが、カードがかなり丈夫なせいか大人の力でも破れなかった。
「皆様、本当にもうしわけない! 」と彼は言った。「どうやらトークの切れに反しまして、カードの切れが悪いみたいです。ごめんよ、坊やも。タフなカードを掴ませちゃって。よし、じゃあこんなジョーカーは天の神に委ねちまおう! 」
彼はそう叫ぶと、空に向けてカードを投げた。すると何人かが空を見上げて、口をぽかんとしながら開けた。それにつられて他の者も見上げ、全員が上を向いて唖然とした。群集の頭の上から雨のような数のカードが舞い落ちたのだ。地面に落ちたカードを拾ってみると、全て半分に破れている。そして私を含む全員が視線をあるべき場所に戻し、やってしまったと思った。手品師は公言したとおり群衆の中から忽然と消えてしまっていたのだ。
「ブラボー! 」と我々の背後で声が聞こえた。「成功しました! 」
すぐに振り向くと、手品師が拍手をしながらこちらに歩み寄っていた。そしてどよめく群集の中に戻ると、少年の背に手をおいて彼は言った。
「やあ、みなさま御機嫌よう。少年の一生懸命さに神様も笑顔で答えてくれたみたいですね。カードも無事に半分になり、それどころかおまけのカードも天からたくさんもらえました。おかげで私の魔法もちゃんと成功しましたよ。でも、私の奇跡なんてこの少年と比べたら微々たるものでしょう。……だから皆さま、私の拍手は求めません。でも、どうかこの優しい少年には温かい拍手をお願いします! 」
屈託の無い拍手と共に、大きな歓声が轟いた。少年も先ほどと打って変わって笑顔になった。手品師は周囲を見回しながら、群集のお喋りが落ち着くのを待った。やがて静かになると、一転して神妙な態度を演じ、帽子を頭からはずして膝を地面に着けた。おかげで彼はすぐに注目の的として復活した。
「しかしながら、みなさま! 」と手品師は悲痛そうに叫んで、物乞いのように両手を組んだ。「知っていてほしいのですが、最近の手品師は殆どが売れてないのが現状です。この私めも例外なくそんな貧乏手品師でございます。そこで皆さまの拍手はいらないのですが、少しだけこの帽子にお気持ちという奴をいただけたりなんて……いえ、別に、財布を逆さにするまでは望んではいませんよ? しかしながら、アトランの親切なみなさま。その優しいお気持ちで、この貧乏な夢追い人に少しだけご協力していただけませんか? 」
再び笑いで包まれた。と共に、多くの者が彼の帽子に硬貨を投げ入れた。手品師はそのひとりひとりに感謝の言葉を述べ、熱い握手を交わした。なかには紙幣を入れて、熱心に応援する者もいた。手品師は頭を深々と下げた。こうして彼のショーは成功したのだ。
私もいくらか手品師に協力して、群集の中から抜け出た。その途中で見慣れた背中を見つけた。ロイだ。彼は早足で道を歩いていた。追いかけるのにささやかな運動を労し、私は彼に声をかけた。
「奇遇ですね、ロイさん。これからお戻りで? 」
彼は不機嫌そうに振り返ったが、私を認めるとにっこりと笑った。
「ええ、そうなんです。戻るのが遅くなってすみませんね」
「いえいえ、それぐらい、なにも問題ありませんよ。あなたも手品を見ていたのですか? 」
「ええ」と彼はばつが悪そうに言った。「でも見なけりゃよかった」
「それは、なぜ? 」
「僕はああいう人間が好きになれないんです。笑いやお金のために子供を利用したり、乞食みたいな真似をする人がね。見ていて腹が立つし悲しくなる。でも、手品は面白かったです」
「あれは、ああいう商売ですよ。何世紀も前から変わってない」
「わかってます。ただ、僕は嫌いなだけ。もちろんショーは見てしまったので、ちゃんと帽子にお金も入れました。今日はもうあなたも家に帰るのですか? 」
「そうですね。事務所に戻って、あなたの家を見張り、そのあとささやかな一時間を酒と共に過ごす予定です」
「酒は何を? 」
「今日はウィスキー」
「僕はテキーラが好きです」
「あれも楽しい酒ですよね」
「ショットで五杯飲んだら簡単に酔えますからね。レモンなんて齧る暇もなく、すぐに飲み続けるのがコツです」
「ためになる話ですな。それにタフな飲み方だ」
ははは、と彼は皮肉っぽく笑った。そして嘲笑的に言った。
「……やれやれ、それに見合った生き方ができればよかったんですがね」
このあと我々はそれぞれの帰路に着いた。私は部屋に入ると、まず窓を覗いて彼の家を観察した。いつもと同じように外は日が沈み、代わりに月が出ている。たまに道路に車が走る。なかにはガルシアが現れることもある。この車を見た日はちょっとだけ特別な気分だ。彼の家の明かりは、いつも時計の針が十一時を教えてくれるまで消えない。太陽が沈むのと一緒だ。この日もちゃんとスケジュール通りに消灯した。わたしは灯りが消えた家を見つめながら、この一日の出来事を三つのキーワードにして振り返ってみた。パン屋の主人が愚痴る、駆け出しの手品師が成功する、ロイがそれに憤りながらも見物してしまう。どれも偶然の出来事で、共通点はなさそうだったが、なんらかの形で密接に繋がっていそうだった。それからわたしはロイの最後の言葉が何だったのか考えてみたが、その日もどんな味だったかも覚えていない強烈な酒によって忘れてしまうだろうと思い、すぐに無駄な思索をやめた。だが、いつも思うのだが、本当に辞めるべきなのはいつだって酒のほうなのだ。酒を飲み始めてから、わたしは不自由になって馬鹿にもなりつつある。
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