第8話

 エレナと別れて事務所に戻ると、まず始めに窓のカーテンを開けた。ロイはまだ帰ってきていないようだ。部屋の灯りが消えていて、車庫から車もなくなっている。夜まで待ってみたら、十時前に彼から電話が掛かってきた。


 彼は丁寧に挨拶をし、少し近況報告をしてからわたしに言った。


 「今日は早く寝てくれても構いませんよ。少し仕事で遅くなります」


 「それはそれは。今日は日曜日ですのに、お疲れ様です」


 左耳から小さな笑い声が聞こえた。私は無視して続けた。癖は壁の染みと同じで、なかなか取り除けない。


 「それで、明日は何時にお戻りで? 」


 「朝の八時には戻る予定です。それまで自由にしていられてください」


 「了解しました」


 「今日の清掃活動はどうでした? 」


 「しっかり街を綺麗にしてきましたよ」


 「助かります。あなたがいてくれて本当に助かりました」


 「たいしたことじゃありませんよ。それに、エレナとも久しぶりに出会えましたし」


 「ああ、あの女の子」


 「あなたのこと、優しい方だと言っていました」


 「そうなんですね」と彼は嬉しそうに言った。「子供は苦手なのですが、彼女とは気が合うんです」


 「子供が苦手? 」


 「ええ、どう接したらいいのかわからないので。あんまり関わらないようにしているんです」


 「なるほど」と私は言った。


 「まあ、とはいえ、そういう点でもエレナは大人びた子だから困りません。ああいう賢い子は大人でもなかなかいないし」


 「そうでしょうね」


 「僕が子供の頃に彼女が友人としていたら有意義な時間をもっと送れたかもしれません。本当、幼少期からこれまで、僕は短絡的で思慮が浅かった気がする」彼はそう言うと、一つ咳払いをした。「……ああ、申し訳ない。変な話をしてしまいましたね。今日はちょっと忙しいので、ここら辺で受話器を置かせてもらいます。では、明日はよろしくお願いしますね? 」


 「ええ、承りました」


 「では、また明日」


 「ええ、また明日」


 片方の耳から、がちゃんという音が聞こえた。私も受話器を元の位置に戻すと、明日のために眠る準備を始めた。それにしても私の勘違いだったかもしれないが、この日のロイはどこかいつものような冷静さを感じなかった。どこか違和感があったのだ。はたして、いつもと何が違ったのだろうか。しかし五杯目の酒を飲むと、そんなことはどうだってよくなった。これがアルコールの恐ろしいところだ。それから何杯飲んだかわからない。


 朝になってもロイは戻ってこなかった。酔い覚ましもかねて冷水を飲みながら十一時まで待ってみたが、やはり戻らなかった。その気配もなし。彼が何の仕事をしているのかわからないが、考えたって仕方がない。余計な詮索も必要なし。それより私は腹が減ったので外に出かけた。そろそろ木苺のクリームパンとフランスパンを胃に納める必要があったのだ。


 パン屋に行くと、その日も主人が店番をやっていた。黙ったまま、無愛想な態度で。だが、本人は露ともそんな態度をしているなんて思っていないだろう。それにしても大きなウインナーみたいな指で小銭を取り出したり、店名のロゴ入りの可愛いピンク色のエプロンを着ている姿は主人の雰囲気から乖離していた。彼も相変わらずやりにくそうだ。パン生地の相手で精一杯なのかもしれない。会計をするとき、我慢できなくなり、ついつい私は彼の妻について訊いてみた。


 主人はそれに対して大きな身体を静止させると、太い眉をぎゅっと寄せた。そのまましばらく黙り、少し考えてから震える声で言った。


 「か、家内は入院中です」


 「……それはなんと言えばいいか」


 正直、ぎくりとした。


 しかし主人は私の前で片手を横に振ると、焦ったように眉を動かした。


 「あ、いや、そうじゃなくて子供が産まれるんです! 」


 「それはそれは! 」と私も声を大きくした。「おめでとうございます」


 「ああ、その、ありがとうございます。すいやせん、人様に説明するのは家内に任せていたせいか、どうにも俺は苦手でして……」


 「いえいえ。お子さん、楽しみだ。将来はパン屋さんかな? 」


 「それなら教えることができるのですが、他のことになると、俺はパンしか触ってこなかった男なんで何も教えられませんや」


 主人はそう言うと、恥ずかしそうに咳払いをしてから唇の端をにっと上げた。そしてまた恥ずかしくなったのか、もう一回咳払いをし、慣れない手つきでありながらも黙々とパンの会計を済ませた。


 「は、はい、これがお釣りとレシートです。次のご来店、お待ちしております」


 「ありがとう。それでは、お子さん、元気に産まれるといいですね」


 「そうですね」と主人は少しだけ明るく返事をしたが、何かに考え込むようにこくりと頷いた。それから一度は唇を開けないように我慢したが、そうしていることに堪えきれなかったようで、声を震わせながら言った。「でも、家内は昔から病弱なもので少し不安なんです。子供の頃から喘息持ちで、お、お医者さんが言うには身体に免疫がなくて病気にも掛かりやすいみたいで、ちょっとしたことですぐ寝込んじまいます」


 「彼女が? とてもそうは見えませんでした。いつも明るくて、溌剌としている印象があったので」


 「産まれる子供も家内も心配です。家内はどうしても子供を産んでやりたいと言ってます。でも俺は家内が死んでしまうくらいなら……」


 主人はそう言いかけて、はっと目を見開くと、静かに黙った。自分がこんなに熱くなって喋ってしまったことに驚いているのだ。だが、それが賢明な判断だろう。もう少し賢明であったなら、彼は私なんかにそんな重大なことを言うべきではなかったのだ。しかしながら、我々のような孤独な人間にどうやってそれが止められよう? 


 「二人が元気に帰ってくることを願ってます」と私は言った。「あまり助言になるようなことが言えなくて申し訳ない」


 「そ、そんなことないです、ありがとうございます。……こちらこそ申し訳ない、こんな話をしてしまって」


 「いえ、これぐらいどうってことないですよ。頑張ってください」


 そのあと、お辞儀をする彼に、わたしは小さく手を振って店を出た。どこかもやもやとした黒い霧が心の中で覆い始めていた。きっとそれは主人の闇がわたしのなかに入り込んだせいだろう。パンをもう一つお裾分けしてもらったような気分には到底なり得なかった。

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