第2話

 こうしてトムの一軒家は主が不在のままだったが、三ヶ月前から新たな入居者がやって来た。若くて、髪が黒くて、ハンサムな男だ。礼儀正しくて、街の清掃活動にも積極的に参加しているらしい。おかげでたくさんの女性が彼に近寄ったが、それでいながらロイ・バースという男は誰に誘われても頑なに拒んで、休日は一人を好んで家に閉じこもっていた。トムとは正反対みたいだ、とバーのマスターが言っていたことを覚えている。だってトムは不細工だったけど、人が好きだったもの。


 噂では、ロイはトムが認知していない子供の孫らしい。あるいは甥っ子か隠し子、果ては別れた妻の子供という噂まで流れた。この街において、噂は生きるために欠かせないのだ。酒場でトムを知る者は、みんなこの新たな新参者の話をしたがる。とんでもないチンピラとか、過去に犯罪歴があるとか、実は親の遺産で食っている馬鹿息子とか。本当のところは、その馬鹿息子とやらに関わりたくて仕方ないのだ。誰もがトムの面影を期待していた。


 だが、今こうやって考えてみると、この噂好きたちの馬鹿話もあながち間違ってはいなかったように思える。それはロイ・バースが引っ越してから数ヶ月経った頃の話まで遡る。猫も鳴かない静かな夜、私はソファでぐっすり眠っていたら、彼の家から蝉のように煩い怒声が聞こえたのだ。聞き取れなかったが、ずっと同じ言葉を言っているようだった。その病的な声は同じリズムでありながら、声音だけがだんだん大きくなっていた。音程も狂いが無い。私はこっそり事務所の窓から覗くと、屋上にロイが立っていた。顔は暗くて表情が分からなかったが、あの小さな口からどうやってあんな声を出せるのか不思議だった。彼の隣には、暗闇で隠れてしまいそうな男がもう一人いて、彼もどう始末を付けていいのかわからないのか、私のように呆然と立っていた。やがて、ロイは喚き散らすのをぴたりとやめた。それから背を向けて歩いて部屋に戻ろうとしたが、途中で気が変わったのか同じ速さで元の位置に戻り、もう一人の男の目の前で時間が停止したように固まった。そうしていると思ったら、次の瞬間、ロイは握っている拳で彼の頬を思いっきり殴った。男は叫びながら倒れた。しかしロイは男に一瞥もくれず、何かを狂ったように怒鳴ったあと、一人ですたすたと部屋に戻った。殴られた男は痛かったのか、あるいは呆然としていたせいか、なかなか部屋に戻らなかった。のちに、近隣住人の誰かの通報によって警官が何人かやって来たが、ロイの冷静な受け答えに納得したのか、何事も無いまま帰ってしまったのだ。


 そこまで確認すると、他の住人に倣って私も窓のカーテンを閉めた。きっと明日はロイの話で持ちきりだろうと予測し、それは見事に的中した。殴られた男は誰か、ロイは何者か、あいつはどんな仕事をしているのか、そんなことをぶつぶつと酒場で話し合っていた。なかにはロイを擁護した者もいたが、ロイは狂乱男で精神的な錯乱を起こしたに違いないという噂が大半を支持させた。私も同意こそしなかったが、否定もしなかった。 


 残念ながらこの事件によって、ロイ・バースは好青年のレッテルを剥がされ、得体の知れない不気味な男になった。それでもロイは毎月の地域のボランティアに参加していたし、社交的に雑談もこなせたので、また徐々に信頼を取り戻せていた。きっとあの事件は酔っ払っていたことが原因なのだろう、という話が勝手に広がったのだ。しかし真相を聞いても本人は曖昧に笑うだけなので、いまいち納得できない者もいた。そもそも過去についても、彼は自分のことを何も話したりしなかったそうだ。これはトムに似ているね、とマスターは言っている。おそらくその通りだろう。

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