第3話
私とロイのはじめての出会いは、彼が屋上で男を殴った次の日だった。ちょうど、私が事務所で昼食のハンバーガーを食べ終え、包み紙をゴミ箱に捨てた時だった。頭のなかでは相変わらず電話も鳴らないし、依頼人もこないから酒でも飲もうかと、机の抽斗に手を伸ばすか悩んでいたところだった。彼はそのタイミングにやって来たのだ。正直、気分が悪くなったし、やる気も起きなかった。あまり嬉しそうな顔も出来なかった気がするが、それでも最初にやるべきことはやった。ドアを開けて、挨拶をして、ソファに座らせて、コーヒーをもう一杯作ることだ。ロイはコーヒーを少しだけ飲むと、にっこりと紳士的に微笑んだ。
「これはエスプレッソですか? 」
「いえ」と私は答えた。「ただのアメリカンです。砂糖を出しましょうか? 」
「ありがとう」
私は頷くと、台所に行って砂糖をさがした。戸棚を開けている間、トムはいつだってコーヒーはブラックだったのにな、と考えていた。顔も似てなければ、雰囲気も違うし、コーヒーの好みも一緒じゃない。これは本当にトムとは関係ない他人かもしれない。噂はやっぱり嘘だろう。
砂糖を入れていた容器の中が空っぽだった。代わりに蜂蜜で代替してくれるように提案してみたら、二つ返事で了承をもらえた。こうして私はテーブルに蜂蜜の瓶を置いた。
彼は蜂蜜をスプーン三杯分ぐらい入れると、丁寧に匙で掻き混ぜ、一口飲んでから言った。
「すみませんね。昔から苦いものは身体が受け付けないんです」
「そうなんですね。私はコーヒーは苦くないと飲めないんですよ」
「美味しいですか? 」
「少しだけね。それで用件は何でしょう? 」
「その前に」と彼は言った。「ここから僕の家は見えますか? 」
私はカーテンで閉じられた窓の方を向いてから、こくりと頷いた。
「ええ、庭までそっくり見えますよ」
「屋上も? 」
「見えたとして、それがどうかしました? 」
「結論から言うと、ここから僕の家を見張ってもらいたいのです。そのような種類の仕事もしていられると聞いたのですが、やってくれますか? 」
「ええ、それも私の仕事の一部です。人を探したり、見張ったたり、誘導したり、色々なことをこの事務所で請け負っています。時にはチラシだって配ります。……しかしどういう理由があるのか、お聞かせいただいても? 」
「申し訳ないが」と彼は言った。「それは言えません。あなたには何も知らないまま、この仕事を遂行してもらいたいのです」
彼は申し訳なさそうに首を振った。それから持ってきた革の鞄から札束を三つ取り出すと、テーブルの上に重ねて置いた。まるで分厚いステーキみたいだった。全く、輝いて見えるじゃないか。
「これは? 」と私は訊ねた。
彼は甘いコーヒーを飲み終えると、静かに落ち着いた口調で言った。
「聞かないことが条件で、これが一か月分の金額です。結構な金額だと思いますが、どうでしょう? 」
「ええ、すごい札束だ。私みたいな野良にはもったいないほどにね。失礼かもしれないが、こんな大金をひょいひょい出しても構わないんですか? 」
「はい」と彼は頷いた。「全く構いません」
「正直、驚きますね。とても裕福な暮らしをしているのでしょう」
「いや、そんなことはありませんよ。僕の財産といったら、あの家ぐらいのものなので。このお金は僕が銀行に預けていた全てと言っても過言じゃないです」
「つまり、そうまでしてでも理由を話したくないし、それでもって私に依頼を受けて欲しいのですね? ……失礼な言い方になるかもしれないが、なんだか胡散臭い話に思えますね。いや、まあいいでしょう。問題は金です」
「これでも足りないということなら、残りのわずかな預金もあなたに渡しますし、今持っている家具も質屋に入れましょう。僕にはそうしなければならない理由があるんです。その代わり、あなたは僕の要望どおりに契約を交わして欲しい」
「どうにも賢明な判断とは思えませんね」
「僕は正気です」
私は首を横に振った。ロイは顔をしかめると、何か次の策を考えるかのように細い顎を左手で包んだ。
「……どうしたらこの条件であなたは契約を飲んでくれるのでしょう? 」
「それは簡単です」と私は言った。それから極めて事務的な声色で話した。「そのまえに私とあなたの仕事上での関係をいくつか話させていただきますね。といっても、たった二つだけです。まず一つ目、あなたが質問に答えてくれないのならそれまでの話なんです。私は金を受け取ったなら、黙って仕事をするだけ。ちゃんとあなたの言った条件も守ります。そして二つ目、料金はこっちの提示する金額で構いません。なぜなら、私の事務所のクリーンな印象を落とすわけにはいかないからです。つまりですね、喉から手が出るくらい欲しくても、こんな大金は受け取れないということなんですよ」
私はそう言うと、札束の一つをぱらぱらと数え、それが終わると、とんとんとテーブルの上で整えた。そして表から一枚ずつ数えながら指で紙幣を挟んで引き抜き、残りの札束を彼の方に寄せるように置いた。こうして、わたしの方には元の十分の一さえあるかも怪しい金額が残った。
「……それで依頼を受けてくれるのですか? 」
彼の表情にあからさまな変化は見えなかったが、それでも藍色の瞳が少しだけ丸くなっていたことは傍目から見てもわかった。
「ええ、しょっぱい業界でしょう? 」
私はそう言って、自分でも情けなく思えてくすくす笑った。ロイも頷きはしないものの、瞳では同意を示していた。
「でも一日中、あなたの家を監視することはできませんよ。私も寝たり、風呂に入ったりしなければならないのでね」
「それなら僕の生活リズムに合わせてはくれませんか? と言っても、夜には寝るし、朝にはちゃんと起きます。それにあなたは僕が家にいる間だけ見張ってくれたらそれで構いません」
「つまり、あなたが寝ている間は私も眠っていいと? 」
「そうです。そして僕の外出中は昼でも見張らなくて結構です。最近は外に出ることが多いので、実質見張りをするのは一日に4時間もないかもしれません。正直なところ、見張りというより、あなたがここで居座ってくれていることの方が大切なんです。だから見張るときも、お手洗いに行きたくなったら用を足して構わないし、ちょっとだけ横になっていても構いません。だけど、僕から連絡があったり、何かあったらすぐに家を見てください」
「了解しました。それで問題ありません」
「眠るときは家の明かりを全て消します。それを確認できたらあなたも眠って構いません。だいたい夜の十一時には眠ることが多いですけれど、この時間帯で問題ありますか? 」
「私はいつも十二時まで起きています。他に注意事項はありますか?」
「朝は六時に目覚めます」
「私はいつも七時に目覚めます。でも、金のためなら問題ありません」
彼は顎に手をやって、私を検査するように眺めた。おかげで、どこか不具合がないか調べられている不良品の気持ちにさせられた。
「今度、僕の主な一日のスケジュールを紙に書いてポストに投書しておきます」と彼は言った。「もちろん、全てこの通りでないし、例外もありますが……」
「一日ぐらいなら徹夜も構いませんよ。どうせ私も外に出る用事なんて限られてますから」
「それなら問題ありませんね」
「ええ、そのようです」
ロイは唇の端を上げると、札束を鞄に戻して私に握手を求めた。意外だったが、なかなか大きな手だ。そしてお互いに握り合った両手を何度か揺すってから、私は彼を玄関まで見送った。
この日の夜、ロイ・バースの家はきっちり十一時に家の明かりが消えた。何も起きない静かな夜で、もちろん煩い怒声も聞こえなかった。奇妙な依頼だったが、この分だと楽に終えれそうだと思った。それに仕事を選り好みできる余裕もなかった。彼がどんな理由で私にこんなことをさせるのかは分からないが、これで生活の足しになるなら喜んで受け入れよう。
私はさっそくカーテンを閉めて、目覚まし時計を六時にセットし、余分な一時間を酒を飲んで楽しんだ。そして平和な気持ちのまま、時計の針が十二時を指すのを待った。ちくたく、ちくたく。
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