第1話
半年前、近隣の爺さんが死んだ。私のチェス仲間の一人で、いつも酔っ払っているのにゲームが一番強くて、おかげで負ける度によく飲み代を奢らされていた。その日の飲み代よりも、彼から負けた額の方が多い者もいたらしい。名前はトム・ホーガン。髭を剃ったサンタクロースみたいな風貌でありながら、野良猫のように痩せている男だった。その最期は孤独のなかで幕を閉じた。赤い屋根の下で誰にも知られることもなく、ひっそりと我々にお別れしたのだ。
葬儀には私を含むチェス仲間とバーのマスターだけが参列した。トムの遺言により、宗教上の理由で土葬に決められていた。貯金も、金を出してくれる家族もいないのだが、本人は最期まで何とかなると思っていたのだろう。バーで仲間たちに、「埋葬しないと化けて出てきてやる」とよく脅していたことを覚えている。みんなこの面白い爺さんの戯言を冗談半分で聞いて茶化していたが、もしかするとトムは本気だったかもしれない、と彼が死んでから思うようになった。トムはいつも楽しい冗談を言ったが、いつだって本気で話しているのを、我々はうっすらと感じ取っていたのだ。とういうわけで安価なものだが、棺桶も牧師も仲間内で全て負担したわけだ。それはトムに対する敬意と一種のユーモアが秘められた行為だったかもしれない。……自分が死ぬまで死んだトムと出会うことがありませんように、と我々は祈り、また念じていた。
そのあとチェス仲間と一杯飲みながら、トムの思い出話を肴にした。彼の死を悲しむことはもう終わってしまったみたいに、次々とジョークや皮肉を言い合った。それはぽっかりと空いた穴を土で埋める作業に似ているかもしれない。我々は色々な話をした。俺はあいつに金を貸していたとか、トムは実は既婚者だったとか、あいつはチェスで卑怯な手を使っていたとか、とんでもないケチな爺さんだったとか、埋葬じゃなくて宇宙葬にしとけば良かったとか。最後の話は全員が笑って頷いた。大気圏を抜ければ、さすがに戻っては来れまい。トムよ、さようなら!
「そういえば、トムの奴はなんの仕事をしてたんだろうな」とチェス仲間の誰かが言った。みんなでウイスキーのおかわりをしたところだった。
さあ、わからない、と私を含めた残りの者はそう言って首を振った。しかしその疑問は場の雰囲気を変える力があり、それによって気味の悪い気分を味わうことになった。一瞬、我々の間で何かが通りすぎたみたいだった。それは何かを囁く幽霊みたいなもので、そいつはふっと現れたと思ったら、次の瞬間には塵のように消えてしまった。だが、その痕跡は静かに残っていた。それが具体的にどんな異物なのかわからないが、それは確かに存在していたのだ。
「あの爺さんの家はどうなるんだろう? 」と再びそいつが言った。
これもわからない。もうこの話をするのはやめた方がいい、と誰もが思っていたはずだ。が、それはできなかった。もう川の流れを塞き止めていた石は砕けてしまい、あとは流れに進むしか方法はないみたいだった。
「国庫に行っちまうんじゃねえか? 」と誰かが答えた。
多分そうだろう。だが定かじゃない。
「その金で墓を立てりゃあ、もうちょっとマシなもんができたろうにな」
「いや、噂じゃあ、相続人がいるみたいだよ」
「あいつに家族はいないのに? 」
「なあ、そろそろやめろよ。俺たちが金を出すから意味があるんだよ。そうだろ、みんな? 」
「そりゃそうだ」と私は言った。「ケンの言うとおりだ」
「ああ、少なくともトムはいい奴だったよ」
「ケチだったけどな」
「それを差し引いてもさ」
「だが、俺たちは」と誰かがぽつりと呟いた。「トムについて知っていることは好きな酒の種類とチェスの強さぐらいのものだな。彼を物語るうえで重要な部分はまるでわかってない」
それで店のなかはしんと静かになった。重い石が気化してしまい、それが我々の肩に乗っているかのようだった。マスターはその気配をいち早く悟ったのか、つまらない冗談を口にした。それは一つも面白くない話だったのだが、我々はそれに乗じて、さも愉快であるかのように笑った。そしてその雰囲気のまま、最後に誰かが人数分のテキーラを頼み、「あの世のトムに! 」と言ってからぐっと飲み干してお開きになった。
それにしても、今思えばトムについてろくに知らないくせに、よくあそこまで我々は大金を出せたものだ。だけど、それほどトム・ホーガンは我々にとって大切な存在だったのだろうか? もしそうならなぜ我々は彼に対して無知であったのだろうか? 逆にどれぐらいトムのことを知っていたのだろうか? わからないことばかりだ。たしかに我々はトムが好きだったが、同時に全くの無関心でいたのかもしれない。
少なくともトムとのお別れは、このメンバーの別れも意味していたらしい。トムの葬式が終わってから、私を除いて誰も店にはやって来なくなったのだ。それからチェス仲間とは会っていない。
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