淀電伝典(5)

 天井も床も壁もなく、ただただ白い空間に筆木は放り出されている。床がないが落下しているわけではない。バランスを取ることはできた。身体は転倒も回転もしていない。筆木はまっすぐ前を見据えている。

 白い猫が歩いてくる。

 白猫の足元をよく見るとその歩みに合わせてフロアが生成されている。方眼紙のように直線が交差するフロアだった。白猫は筆木の横を通り過ぎていく。

 波のように広がっていったフロアは底面から空間全体に派生し、周囲の輪郭を徐々に形成し始める。壁が生まれ天井が設定され階段がつくられた。生成は全方位で行われ、筆木はいつの間にか白い部屋の中に立っている。雲津の姿はない。

 足裏にはフロアと接地した感触がある。筆木はその場で足踏みをしてみる。いつの間にか履いたこともない茶色の靴を履いていた。服装も霙町のときとは違ったものだ。

 仮定空間に入るということは自分の現実を中断することを意味する。霙町は余所に保留され、筆木の意識は飛ばされた先の擬似的な空間に吸着する。そんなトリップについて筆木に驚きはない。何度も経験したことだった。

 ズボンのポケットから小型の録音機を取り出して紐で首からかける。録音ボタンを押して録音を開始する。名枕の仮定空間に入ったときには音声記録をつけることにしていた。

 「始まったらしい」筆木は録音機に声を吹き込む。

 フロアに出口はない。進むことができるのは隅にある階段だけだ。筆木は階段を上がることにする。

 「とりあえず最初の場所を離れる。コンクリートの階段だ。天井が低い。明かりがない。くらい。階段の先は外に繋がっているようだ。明るい。なにか音がしている」

 雨の音だった。

 登った先の庇の下に傘立てが置いてあり傘が一本入れられている。そこは市街地だった。

 一本の大きな道路を挟んで一軒家が平行に並んでいる。一軒家の外観は霙町のものとは異なる。全体的にカラフルだ。しかし、雨の勢いが強いために市街地全体は灰色にくすんで見えている。

 「街のようだ。暗い。人の姿はない。どこに向かえばいいのか分からない。雨が降っているから、できれば歩きたくない」

 雨は止みそうになかった。筆木は仕方なく傘立てから傘を取り出して路上に出た。雨は霙町で降る雨と変わらない。傘に当たる雨音が聞こえる。

 しばらく道路を直進すると、遠くのほうに海が見えた。

 市街地が終わる。

 歩いてきた道路は、どうやらそのまま橋へとつながっているようだ。

 橋に近づくにつれてその全体像が明らかになる。橋の入り口に立ったとき、筆木は思わず笑ってしまった。

 永遠に続いているような橋だった。

 橋の終着地点は見えず、遥か彼方まで連なっている。雨粒が降り注ぐ視界には、橋と海と空しか存在しない。灰色の空から巨大な橋に細かな雨が降り続いている。

 海に架かった石造りの橋。海面から突き出た柱の表面は太く硬質で、見るからに頑強そうだ。橋の両サイドのスロープから下を見下ろすと、時間をかけてゆっくりと波打つ海面が見えた。あちらこちらで白く泡立った海面は全体として大きな模様を形成していて、一刻一刻とうごめいていた。雨粒が吸い込まれるように海に落ちていく。

 「これ、渡れるのか」筆木は反射的に言葉を漏らした。

 筆木は橋の上に踏み出す前に、少し立ち止まって辺りを見渡した。あたりにはなにもない。振り返ってみても、これまで歩いてきた一本の道路が続いているだけだ。

 筆木は橋を渡ることに決めた。最初の一歩を踏み出して橋の上を歩き始める。

 「市街地を抜けて橋に出た。一辺倒の巨大な橋だ。依然として誰にも遭遇しない。雨脚は強いが寒くはない。しばらくは歩くことにする」

 それから筆木は淡々と橋の上を歩き続けた。特になにも考えなかった。考えなければならないこともない。

 いつこの橋は終わるのかとか、雲津も同じように歩いているのだろうかとか、それくらいのことは考えたが、他には特になにも考えなかった。考えつかなかった。なにかを思うということも同様になかった。思うことなんてなにもなかった。なんでこんなことをしているのかとか、歩き疲れたなとかその程度のことは頭によぎったが、特別なにかを思うということはなかった。

 なにを考えて、なにを思えばいいのかも分からない。

 風景はまったく変わらない。

 雨は止まず、橋は終わらず、海面は揺らぎ続けていた。

 筆木は歩きながら何度か歌を口ずさんだ。既存の歌ではなく即興で生まれた歌だった。橋が終わらないというストレートな歌詞だった。

 一日近くは経ったというのが筆木の体感だ。

 すでに市街地はまったく見えず、かといって橋の終着地点が見えるということもない。結局、どこにもたどり着かなかった。おそらくこのまま歩き続けたところで特に変化はないだろう。筆木はそう判断する。しかし、市街地に引き返すのもめんどうだ。

 「歩き続けてみたが変化がない。どうしたものか」

 筆木はその場に立ち止まってどうするべきかを考えた。

 名枕のつくる仮定空間に目的が設定されているということはない。仮定空間はただの空間であり、入れ物であり、その中でなにが起ころうとなにが起こらなかろと変わりはない。

 「歩くのをやめることにする」

 筆木は録音機に声を吹き込んでから、橋の端のスロープの上によじ登った。

 「恐らくこの橋は永遠に続く。市街地に戻ったとしても進むことのできる場所はないだろう。したがって海に落ちることにする」

 スロープの上から覗く海面は遠い。

 海に落ちたことはないなと筆木は内心思う。傘をたたみ、脇にしっかりと抱える。

 そして海へと身を投げた。

 身体は落下していく。

 海面が近づき橋は遠のく。

 滞空時間は思っていたよりも長い。だが、永遠でもない。

 筆木の身体はあっけなく海に入水する。海中に沈んで白く泡立った世界が一瞬だけ見える。

 同時に海は消滅する。

 予想していた海中の冷たさも水中の息苦しさもない。そういえばこの世界には雨つぶの感触もなかったなということに筆木は気がつく。

 まっさらな空間に舞い戻っている。

 白い猫がふたたび遠くから歩いてくる。筆木の横を通り過ぎて世界の輪郭は再生成される。白い部屋が形成され階段が形成され、そして雨と市街地と橋がつくられる。筆木はまた階段を登っていく。

 結局、筆木はこの市街地と橋の世界を何往復もした。市街地でずっと雨に降られたり、橋を渡る前にすぐに海に飛び込んだりもした。だが、その大半は橋を渡ろうと試みることに時間を費やした。毎回、途中で飽き飽きして海に飛び込むことになった。

 往復を重ねるうちに、橋が終わらないというストレートな歌は何種類もできあがった。筆木は録音機に言葉を吹き込み続けた。


 数日後、仮定空間から戻って霙町に帰った。雲津はすでに霙町に戻っていた。

 雲津は仮定空間にいるあいだ、橋を歩き続けたらしい。海に飛び込むことはしなかったようだ。二人は冬眠から目を覚ました動物のように、いそいそと霙町の日々に戻る準備を始めた。

 巨大倉庫から出る直前に窓の外がやけに暗いことに筆木は気がついた。いや、「赤い」ことに気がついた。様子がおかしいと思って巨大倉庫から出ようとしたが、扉が開かなかった。雲津の知るすべての扉を試したがどれも開かない。

 仕方がないので屋上に出た。その時には既に何が起こっているのか把握していた。筆木と雲津は屋上から霙町を一望する。

 霙町は紅葉したカエデの葉の海に沈んでいた。

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