淀電伝典(4)
冬眠に備えるリスのように筆木と雲津はルーチンワークを前倒しでこなした。名枕のつくった仮定空間に没頭するためだっだ。邪魔されずに仮定空間に集中できる時間をつくる。そんな「安眠」のために二人は無心で働いた。
霙町の東に建造された巨大倉庫内にあるコンピュータから名枕の仮定空間に接続することができる。
巨大倉庫は霙町という町にとって手帳の上に横向きに寝かされた消しゴムくらいの存在感がある。
霙町に太陽が昇れば巨大倉庫はいくつかの住宅をまるごと覆ってしまうほど大きな影をつくる。影は太陽の位置によって向きを変え、一日を通してゆっくりと大きく手を振るように弧を描く。巨大倉庫がつくった影の領域に足を踏み入れると、まるでトンネルに入ったような暗がりが続く。
巨大倉庫の内部は長方形のコンテナによって仕切られている。天井までコンテナが積み上がっているところもあれば、なにもない空間の中央に斜めにコンテナが配置されているところもある。天井は高く、天井付近は大量の配線がむき出しになっている。ところどころで太いパイプが連結している。地面からそれらを見上げれば枝葉が密集して空を覆う深い森の中にいるような気分になる。
巨大倉庫にはいくつか入り口があったが、筆木はそのうちの一つの北側の隅にある扉しか使っていない。その扉からの経路しか記憶していないからだ。ほかの入り口を使って一度でも迷ってしまうと下手をすれば何時間も倉庫から出られなくなる恐れがあった。
雲津正午は巨大倉庫で暮らしている。だだっ広い空間に敷布団を敷いて、そこで寝泊まりしている。そのため、雲津は巨大倉庫の内部構造に詳しい。
「倉庫というよりも、本質的には通信施設だ」
雲津がそう話すように、巨大倉庫には確かに通信機能が備わっている。筆木も雲津も霙町の外部と通信して情報の交換を試みている。ただし、その性能はとても低く、深海の中でジェスチャだけを頼りにメッセージを送りあっているようなものだった。
準備を終えた翌朝早く、筆木は自宅を出た。自動車で巨大倉庫まで向かう。まだ夜は明けていなかった。
筆木は巨大倉庫の外壁の隅にある小さな鉄の扉から倉庫内に足を踏み入れた。
一本の細い通路が続いている。通路の先に蝋燭の火で照らされたように、またもう一つの扉が見えている。壁や床は何本もの赤や緑のケーブルで覆われており、ゴムチューブに包まれたケーブルは触るとぐにゃりとしなった。
筆木は通路を進んで奥の扉を開ける。ひらけた場所に出た。
天井の板が外れた正方形のスペースから青白い月の光が地面に向けて一直線に光の筋をつくっている。壁には大きな窓がいくつかあって破れたカーテンが風に揺られていた。空気は冷たい。
遠くのほうにオレンジの明かりが見えた。明かりの近くに雲津が立っている。
「おはよう。寒いね」
筆木は雲津に近づいて話しかけた。
「おはよう」雲津は筆木を一瞥して言った。すぐに小さなノートパソコンに視線を戻す。
筆木も雲津の操作するノートパソコンのディスプレイを覗き込む。ディスプレイには文字列が並んでいる。この倉庫内のシステムの管理画面だった。
「エネルギーの配分を変えた?」筆木は尋ねる。
「変えた」雲津が答える。
「周辺の感知はどうなるの?」
「いちいち細かいものを感知し続けていたら没頭できないだろ」雲津が当然だろ、という顔で言った。
「ま、それもそうか」筆木は小さく頷く。
「通信も切っている。前回よりも快適に接続できる」
「だいぶ削ったな」
「いや、それほどでもない」
「まだ削れるところがある?」筆木は通信関連の詳細には疎かった。
「山ほどある」雲津は嬉しそうに言った。
「へえ」
削れるところがあることがそんなに嬉しいのか思いながら、筆木は適当に相槌を打つ。
「準備はできてる」
雲津が言って歩き出す。筆木は後をついていく。
いくつかの通路を抜けて、また広い空間に出る。
無数のコンテナが無造作に積み上げられて渓谷の崖のような壁をつくっている。今にもそのコンテナでできた壁の影から巨大な生物が顔を覗き込んできそうに思えるほどだ。
空間の壁に一枚の巨大なモニタが埋まっている。
モニタの前には煤けた赤色のソファが置いてある。筆木と雲津が用意したものだった。四方に拡張された映画館のようなこの場所を筆木と雲津はコンピュータルームと呼んでいる。壁に埋まっているモニタは霙町の中で最大サイズだった。
筆木はソファに腰掛けて雲津はソファの足元に座った。雲津はコンピュータを操作するコントローラを手に握っている。ディスプレイには白い文字が並んでいる。
「一人用だな」雲津がコントローラを操作しながら呟く。
「それじゃあ、また会おう」筆木は言う。
雲津がコントローラのボタンを押した。
ノイズもラグもなくシームレスに世界は変化する。まるで安物の包装材を剥がすみたいにあっけなく霙町は消滅する。
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