淀電伝典(3)

 名枕の引きこもる都市には夜しかない。

 この夜の世界には妙な快活さがある。ぱたりと死んでしまったような、あるいは、いちど死んでしまったことでかえって活き活きと蘇ったような快活さだ。筆木は名枕の都市を訪れるたびにそんな生命力を感じる。誰もが眠った後にひとり眠らず、これまで誰も見たこともないような万能感に満ち満ちた「夢」を楽しむ。そんな余裕さ、孤独さ、孤高さがこの都市にはある。

 都市の機能は停止していて通りには風に吹かれた枯葉が溜まっている。建物には染みができていたり標識は歪んでいたりする。都市は長いあいだ放置されている。

 摩天楼が存在している。周囲のビルよりも飛び抜けて背の高い摩天楼だ。

 摩天楼の先端は雲を突き抜けていてよく見えない。超高層ビルではあるが塔と表現したほうがしっくりくる。地底から勢いよく突き刺し、なにかを貫いたペン先のように塔の先端は鋭い。

 塔はほとんどの階に明かりがついている。その三十階に名枕史絵は暮らしている。

 筆木は摩天楼の最下部の入り口から内部に入る。

 エントランス全体は白く明るい。入ってすぐにエレベーターがある。三十階までボタンが用意されている。エレベーターは一階で停止していた。内部に装飾はなく、無機質で白い。三十階のボタンを押すとエレベーターは上昇を始める。

 名枕が筆木や雲津とは一線を画した存在であることは間違いない。筆木たちとは立場も思考様式も完全に異なっている。

 エレベーターは三十階で停止して扉が開く。筆木は正方形の狭い部屋に足を踏み入れる。床に敷かれた絨毯の色はラベンダで天井のライトに照らされている。

 筆木は正面の扉を開く。

 一転して真っ白な空間に出る。さきほどの部屋とは対照的に空間は一気に広がって視界が開ける。ここは本当に建物の中なのかと疑いたくなるほど広大なスペースがある。すべては白く明るく、その明るさのために建物の境界は掴みにくかった。

 靴箱とスリッパが用意されている。筆木はスリッパに履き替えた。

 床はつるっとしていて滑りやすい。白い空間の遠くのほうに木造のデスクがあって、そのデスクの奥の白い椅子に名枕は腰掛けている。デスクには一台のコンピュータだけが置かれており、名枕は両手を頭の後ろで組んでぼーっとしている。名枕はイヤフォンを外して筆木を見た。

 メガネをかけている。目つきはどちらかといえば鋭いほう。ブラウンの髪色に、少しグレーが入っている。

 「久しぶり」名枕がぽつりと言った。

 「どうも」筆木は頭を下げる。

 前回ここを訪れたのはいつだったかなと筆木は思い出そうとしたが、すぐにやめた。

 「なにかあった?」名枕が尋ねる。

 「噴水から紅葉が出てる」筆木は目撃した異常を報告した。

 「噴水から? 紅葉?」名枕は言葉を反復して黙る。なにか思い当たる節があるか考えているようだ。

 「そう。海辺の公園に円形の広場がある。あそこの噴水」

 「ああ、あれか。どれくらいの量?」

 「合計したらプール一杯分にはなる」

 「いつごろの話?」

 「この七日間に二回出た。少なくともその二回は目撃した。噴き出した量は二回とも同じくらいだった」

 「わかった。あとで調べてみる。それで、その紅葉はどうしたの?」

 「大半は燃やした。二袋分くらいは冷凍保存してる。なにかに使えるかもしれないから」

 筆木はそう答えてズボンの後ろポケットから紅葉したカエデの葉を取り出す。拾っておいたものだった。名枕に差し出す。

 「噴水からカエデの葉が噴き出す心当たりがある?」

 「検討もつかない」名枕はそう言って微笑んだ。

 「実害はないけど、掃除するのに手間がかかる」

 「すぐ直すよ」

 名枕はそう言って頬杖をついてまた黙った。なにかを思い出そうとしているようだった。

 筆木は名枕の居住スペースをあらためて見渡す。彼女がなにをしているのか、筆木はほとんど知らない。寝室が奥の扉の向こうにあるらしいが、筆木は中を見たことがなかった。おそらくベッド以外になにもないだろう。

 「そうだ。少しまえに新作が完成したんだった」

 名枕が思い出したように言った。

 「君たちの倉庫のコンピュータからも飛べるようにしている」

 名枕史絵は霙町以外にも空間をつくっている。なにかを設計するのが趣味なのだろう、新作の空間を次々につくっている。名枕の製作した空間は霙町のとある場所に設置されたコンピュータから接続することができる。実機能のない形だけの空間。仮定された空間。

 空間は誰かに体験されることで新しい知見が得られるらしい。筆木と雲津は名枕が新しく仮定空間を作るたびにそれを体験することにしていた。

 「帰ったら遊んでみる」筆木は答える。

 「感想、待ってるよ」名枕は淡々と言った。それからまた異変があったら報告してほしいと付け加える。

 「分かった。それじゃあ」

 「うん。それじゃあ」名枕はそう言って座ったまま片手を振った。

 筆木も小さく手を振り返して名枕の部屋を後にする。背後からはキーボードを叩く音が聞こえてくる。

 名枕の部屋を出て、ふたたびエレベータを待つ。エレベーターは下から上がってくる。筆木が名枕と会っている最中に下の階でだれかが呼んだのだ。

 この巨大な建物には名枕以外にも暮らすものがいる。ここを訪れるたびに気配だけは感じる。

 筆木はエレベーターに乗る。ボタンを押すとエレベーターはエントランスへと下降していく。途中、各階のロビーの様子が少しだけ垣間見える。人の姿はない、が、廊下の端には部屋の明かりが溢れていて、その光の中に部屋の中で動いているなにかの影だけが見えている。

 影の本体を見たことはない。

 筆木は名枕の都市を後にする。

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