淀電伝典(2)
筆木は空き地のベンチに腰掛けていた。夕方が近づく澄んだ夏の青空には微かに薄いピンク色が混ざっていた。顔を上げると異様な光景が目に飛び込んできた。
住宅街に並んだ一戸建ての屋根の遥か上空で、大量の花びらの影が空に向かって舞い踊っていた。クジラが潮を吹いたのと同じくらいの勢いだった。
筆木は車に戻って異変が発生している地点に向かった。南東の方角に数分ほど走って到着したのは海辺の公園だった。
問題の噴水は海辺の公園内の一区画につくられた広場の中央にあった。舞い上がっていたのは花びらではなく紅葉だった。紅葉したカエデの葉だ。まるで晩秋の風景だと広場の周辺に散らかった大量の紅葉を踏みながら筆木は思った。
広場に到着したときには紅葉の噴射は収まっていて噴水は音もなく停止しており、空に舞い上がっていたすべての紅葉は地に落ちていた。散らかった紅葉を足で踏んづけるとカサカサと音を立てた。
後日、筆木は雲津と二人で紅葉の清掃をした。ビニール袋にまとめてそのいくつかを保存し、あとはすべて砂浜で燃やした。そのときの噴水は噴水として正しく水を噴射していた。
「落ち葉拾いには時期が早い」筆木は噴水に向かって文句を言った。
「噴き出したのが紅葉なだけマシだ」雲津が無感情に言う。
どんぐりが落ちて来たら痛いだろうな、と筆木は考える。
「蜻蛉とか蟋蟀が湧き出てきたら対処できない」雲津は顔をしかめて言った。
「考えたくないな」
大量の紅葉を何時間かかけて二人で片付ける。
それからしばらくのあいだは公園の噴水から紅葉したカエデの葉が噴き出すことはなかった。こういうことは稀にある。こういったこと。つまり、明らかな間違いが眼前に現出するということ。非日常的なこと。それらを不吉だとか幸運だとか、そんなものの前兆だと捉えることもできたが筆木と雲津はそうはしなかった。淡々と後片付けに勤しむのが常だった。
何事も淡々と処理する。目を疑うようなとんでもない出来事が起こっても感動などない。
霙町で過ごす時間が長いからだろう。有り体に表現すれば自分は無感動な人間になった。それは筆木も自覚している。
フィクションはつまらない。
例えば、筆木は雨のように降ってくる文庫本を開いて読んでみることがあったが最後まで読み終えることができない。最初からそうだったわけではない。フィクションにのめり込んだ時期もあった。
しかし、ごく自然にフィクションは色あせた。噛んでも噛んでも味のしないガムをずっと口に入れ続けているのと同じようになった。今ではもう虚構に触れることはほとんどない。
カエデの葉を掃除し終えた日の夜、筆木は自宅に戻った。
筆木の家は山際に建っている。近くに流れる川は坂の急斜面に沿って下り、霙町を縦断して最終的には海に繋がっている。
三階建ての木造住宅の三階の一室を筆木は使用している。机とコンピュータ以外になにもない簡素な部屋だった。
筆木はパソコンの前に座り、テキストエディタを開いてキーボードを叩いて日記をつける。日記をつけることは義務ではない。筆木は日々の出来事を箇条書きで記すだけではなく、ありもしないことも混ぜて書いていた。一種の創作だった。
日記は惰性で続けているが楽しみでもある。バランスを調整しながら積み上げてきた文章のかたまりが後付けで付け加えられた短いセンテンスによってあっけなくひっくり返ってしまう。そんな構造の脆さ、あるいはバカバカしさが筆木にはおもしろかった。
その日は寝る間際まで日記を書き続けた。
噴水からまた紅葉が噴き出ていると雲津から連絡が入る。最初に目撃した日から三日も経っていなかった。
海辺の公園に駆けつけてみると雲津はカエデの葉を前にひとり立ち尽くしていた。紅葉の量は前回よりも増えていた。
「名枕に報告しよう」掃除をしながら筆木が言った。
異常事態を報告する。それは霙町の製作者、名枕との約束である。
「一緒に行こうか?」雲津が尋ねた。
「いいよ、一人で行く」
掃除をしている雲津を残して筆木は車に乗り込んだ。
霙町をはなれて都市部に向かう。名前のない都市だ。都市の横断歩道の一つは名枕の引きこもる世界に繋がっている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます