淀電伝典(でんでんでんでん)
淀之直
淀電伝典(1)
夏の快晴の空で雲が太陽に向かって虹のような曲線を描いている。昼の時間帯に入って日射しが強まり、物の陰影はずいぶんと明確になった。
筆木と雲津は住宅街の路地にいた。道路はコンクリートで舗装されており道路脇にはブロック塀が並んでいる。筆木たちがやってきた道には白のワゴン車が停車してある。ワゴン車のトランクは開けっ放しになっていて、中にはかなり大きめの水色のクーラーボックスが入っていた。
霙町には筆木と雲津以外に存在しない。建ち並んだ一戸建てに居住者はおらず、辺りは極端に静かだ。
路地は、しかし、お祭りの翌朝の塵で溢れかえった河川敷のように散らかっていた。路地に散乱しているものは手のひらサイズの長方形の物体である。筆木は右手に持った塵取りバサミでその一つをすくって手に取った。
文庫本。その表紙には本のタイトルとイラストが描かれている。すこしめくってみればなんらかの物語がその幕を開けただろう。
筆木は文庫本をめくるはおろか一瞥すらしなかった。文庫本を手に持ったままワゴン車の後方に回り込み、トランクの中のクーラーボックスの蓋を開けてその中に文庫本を放り込む。クーラーボックスの中にはすでに数冊の文庫本が入っていて、その表面は冷気によって霜に覆われている。
筆木の隣に文庫本の山を両手に抱えた雲津が立った。筆木は雲津の抱えた文庫本の山の頂上から一冊ずつ手に取ってクーラーボックスに放ってやる。
「今日はいつもよりも多いな」筆木が呟く。
「三割は多い」雲津が答えた。
筆木と雲津は一時間かけて路地の文庫本を回収した。クーラーボックスには大量の文庫本が収納され冷やされている。回収中に「溶けて」消えてしまった文庫本も多かった。
筆木はワゴン車を運転して場所を移動する。住宅街を抜けて十五分程度の走行だった。走行中は二人とも無言だった。
別の住宅街の一角で筆木はワゴン車を停車した。車窓から住宅の外観とは異なる無機質な印象の建造物が見えている。
空き地に施設が建造されている。周辺の一戸建てより頭ひとつ分は背が高く、その外観の無機質さはどう見ても住宅街にそぐわなかった。しかし、筆木にとっては見慣れた、どちらかといえば馴染みのある施設だった。
筆木と雲津はワゴン車から黙って降りてトランクからクーラーボックスを取り出した。用意していた台車にクーラーボックスを載せる。
「いつもよりも重い」筆木は愚痴を零す。
「三割分は重たい」雲津が低い声で答えた。
筆木と雲津はクーラーボックスを載せた台車を押して施設内に入っていく。施設内に一歩踏み入れると身体は冷気に包まれた。施設はすべての部屋に冷房の風が行き届いている。
「さむい」筆木が台車を押しながら言う。
「いつも通りだ」後ろから雲津の答える声がする。
「いつも通り、さむい」
筆木は小さく呟く。
館内は天井の照明で明るい。筆木と雲津は入ってすぐを右手に進み、次の角を左に曲がった。つきあたりまで直進すると扉がある。扉の小さな窓ガラスからはブルーの光が漏れ出ている。雲津が扉を開き、筆木は台車を押して部屋の中に入った。
途端に空間が開けて筆木は自分が小さくなったように感じる。
モノクロだった色調は一転して澄んだ海のような青に変わる。部屋には城壁のような高さの水槽が四台設置されている。部屋全体が青く見えるのはコバルトブルーに塗装された水槽の壁が天井のライトに照らされて空間全域に反射しているからだった。
左右に水槽が二台ずつ並んだ隙間に一人分の幅の細長い通路が続いている。
筆木が前を歩いた。水槽の間を台車を押しながら黙々と進んでいく。
水槽の中には人間のようでいて人間ではないなにかが泳ぎ回っている。そのなにかが遊泳する影が水槽に浮かび上がっていた。
人間のようでいて人間ではないなにかは水中にいるために喋りこそしないが、こちらから呼びかければ言葉に反応して寄ってくる。そんな習性があることを筆木は知っている。けれど、そのなにかが果たしてなにものなのかということは知らなかったし、どうして水槽の中で泳ぎ回っているのかということも知らなかった。それがなんなのかを教えてくれる人は霙町に一人もおらず、調べるための手がかりもない。調べる気も毛頭なかった。
水槽の中のそれらを筆木たちは人魚と呼んでいた。人魚は何体もいるようだったが、その数を数えたことはない。
通路のつきあたりに扉がある。両脇の水槽の巨大さに比べると人間用のその扉は一際小さく見えた。
後ろを歩いていた雲津が筆木の前に出て、ポケットから取り出した鍵で扉を開ける。筆木は雲津が扉を開けているあいだのわずかな時間に水槽へと視線を泳がせた。
人魚と目が合う。
目が合った人魚は成年の女性によく似た容貌をしている。人魚の形は人間そのもので裸だった。微笑みを浮かべている。筆木は目を逸らす。恥ずかしく、すこし恐ろしかった。
次の部屋に入るとさらに室温は下がった。身体は小さく震え出した。
水槽のある部屋から一転して空間は小さくなった。部屋全体にはライトブルーの光が反射している。長方形の部屋の一面がガラス張りになっていて、その向こうに卵型のカプセルが等間隔に並んでいる。人間が一人ちょうど収まる程度の大きさのカプセルで、最前列に七つ並び、奥に二十以上は続いていた。
虚構冷凍室。この部屋のことを筆木と雲津はそう呼んだ。
ガラス張りの壁の反対側には壁一面に本棚が設置されている。本棚には間隔を詰めて本が収納されていたが、ところどころに空きもあった。本棚の空隙の位置は虫食いに食われたあとのように脈略がない。
筆木は台車に載せていたクーラーボックスの蓋を開けて中から凍った文庫本を何冊か取り出し、本棚の空いたスペースを埋めるように一冊ずつ入れていった。雲津も同じ作業をする。
「本当に美味しいのかな」文庫本を詰めながら筆木が言った。
「食べてみたら分かる」雲津が答える。
「噛みきれないだろ」
「舐めたらいい」
「舌が凍る」筆木は舌を出して答えた。
筆木は冷凍された文庫本を舐めてみたことがあった。舌は凍らないし美味しくもなかった。
クーラーボックスの中の全ての文庫本を本棚に詰め終えると、ガラスの向こうの部屋に入った。ライトブルーの照明が眩しい。カプセルの並んだ領域に足を踏み入れた。
カプセルにはその腹のあたりで小さなランプが点灯している。ランプは全部で三つあって、左から順に緑赤白で並んでいる。それぞれ異常なし異常あり応答なしの三つの状態を示した。
二手に分かれてカプセルの状態を確認した。異常はなかった。
再び雲津と合流する。雲津は大きく伸びをして肩を回している。
「作業終了、帰ろう」筆木が言った。
雲津は頷き扉を開けてくれる。
部屋を出る前にカプセルのほうを振り返った。カプセルには丸い窓がある。しかし、窓から覗いたカプセルの中には暗闇しか見えない。カプセルの中には生き物が眠っているらしいことを筆木は知ってたが、それがどんな姿をしているのかは知らなかった。
カプセルの生き物たちは冷凍された文庫本を食べる。文庫本だけではない。漫画本や雑誌、映画などを記録した記憶媒体も食べる。
筆木は再び台車を押して部屋を出た。
施設を出ると、再び、夏の太陽に照らされる。
筆木がワゴン車の扉を開けて雲津が助手席に乗り込む。そして静かな住宅街を走り抜けていく。霙町の夏の日々はこのように過ぎていく。
時折、霙町には虚構の雨が降る。それは文庫本であったり単行本であったり、漫画本だったりする。あるいは映画や演劇などの映像データが入った小型の記憶装置の雨だったりする。それらのうちの大半は雨粒が地面に染みて消えるようにすぐに消滅するが、冷凍してやれば保存できる。筆木たちは降ってきたものをクーラーボックスで回収して冷凍室の本棚に格納する。
カプセルの中の生き物たちの食料を絶やさないこと。それが筆木と雲津がこの町で暮らす上で課せられた義務だった。義務を課したのは、この町の製作者である名枕史絵である。それほど過酷な義務ではない。筆木と雲津はこの作業をルーチンワーク化して淡々とこなしている。
それが霙町の日常だった。
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