第6話 再び、扉をくぐって

 わたしの家まで半分くらいの所まで来たとき、ユウくんの足が止まった。


「ごめんな、驚かせて。少し前から、たまに母さんがやって来るようになったんだ」

「ユウくんの、お母さん?」


 それを聞いても、わたしには顔を思い浮かべる事ができなかった。一度も会ったことがないから当然だ。ユウくんのお父さんにしたって、ほとんど顔を見たことがない。


 ただ、ユウくんのお母さんは、何年も前にあの家から出ていった事は知っていた。お父さんだって、いつも帰って来るのは夜遅く。

 だからユウくんは、毎日晩御飯をうちで食べるようになっていた。


「いったい、何があったの?」


 訪ねた声は、自分でもビックリするくらい震えていた。


「母さん、再婚相手と別れたらしくて、俺を引き取りたいんだって。養育費込みで。で、父さんは金はやれないって言って揉めてる。それだけだよ」

「引き取るって……」

「大丈夫だよ。裁判になれば母さんに勝ち目はないし、できることと言ったら、ああして時々文句を言いにくるくらいだから」


 淡々と、まるで他人事みたいに話すユウくん。その声が、なぜか遠くに聞こえるような気がした。



 今ユウくんが言った事は、わたしにとって全部初めて聞くものだった。今まで一度だって、そんな話聞いた事がない。


(これって、この世界だけの話?)


 一瞬そんな考えが頭を過って、すぐにそれは違うと思う。わたしが高校生になった以外、ここは元いた世界と何も変わらなかった。きっと元の世界でも、ユウくんは、同じ目にあっていたんだろう。

 それを、わたしが何も知らなかっただけ。


 だけど、話してくれないのも当然だ。こんな話、本当は小学四年生だったわたしには、難しすぎて全然分からない。ユウくんに何て声をかけたらいいか、ちっとも分からない。


 声が出てこない代わりに、気がつけば目から涙が溢れていた。


「ごめん。嫌な話聞かせたな」


 ユウくんは申し訳無さそうにわたしの涙を拭うと、落ち着かせるようにそっと肩を抱き、背中を叩く。

 わたしが泣いたり落ち込んだりしている時に、いつもやってくれた事だった。


 わたしを気づかってくれる、優しいユウくん。だけど今は、それが苦しく思えた。


 ふと、放課後に聞いた、ユウくんと友達との会話を思い出す。

 そこでユウくんは言っていた。今は、恋愛なんて考える余裕なんてないと。そりゃそうだ。恋愛どころか、心が折れないようにするだけで精一杯だ。


「わたし、知らなかった。ユウくんのこと、何も知らなかった……」


 ユウくんは、いつもわたしに優しくしてくれた。わたしはそれに甘えるばかりで、見えないところで、こんなことになってるなんて、思ってもみなかった。


 わたしに向けてくれた笑顔の裏で、どれだけ苦しく思いをしたんだろう。


「藍が気にすることじゃないよ。それに、俺は大丈夫だから。両親の不仲なんていつものことだし、もうとっくに慣れたよ」

「うそ!」


 慰めるように言った言葉を断ち切るように、わたしは叫んだ。

 だって、それがうそだと分かっているから。お父さんとお母さんがあんなことになって、何とも思わないはずがない。


 平気なら、肩を抱いてる手がこんなに震えたりしない。わたしを見る目が、そんなに悲しそうに揺れたりはしない。

 わたしを気づかって、平気なふりをしているだけだ。


「ごめんな、心配かけて」


 ユウくんはまた、わたしを気づかう言葉をかけてくる。だけどわたしがほしいのは、そんな言葉じゃない。わたしがユウくんに慰められるんじゃなくて、わたしがユウくんに元気をあげたかった。


 なのにちっとも言葉が出てこなくて、歯痒さだけが募っていく。


 歳の差さえ無ければ、ユウくんの隣に立てると思ってた。同じ目線で話せると思ってた。

 だけど、わたしは今も慰めてもらうばっかりで、ユウくんにしてあげられる事なんて何もない。甘えてばかりだった妹の頃と、何も変わってない。それがとても、悔しくて悲しかった。


「────っ!」


 いつの間にか、わたしはユウくんの手を振り払っていた。そして気がついた時には、背を向けて走りだしていた。


「藍!」


 背中から、ユウくんの呼ぶ声が聞こえてくる。だけどわたしは止まらない。だって、行くべき場所があるんだから。


 息を切らせてたどり着いたのは、近所にある空き家。わたしがこの世界にやって来た場所だ。家の周りを三周してから、中に入る扉に手をかける。ここを開けば、またこことは違う、願いが叶う世界にいけるはずだ。


「ユウくんが、悲しい思いをしなくてすむようにしてください」


 わたしじゃ、ユウくんの痛みを何とかするなんてできない。だけどこの扉をくぐれば、願いが叶う世界に行けば、きっとユウくんだって悲しい思いをしなくてすむ。


 この世界に来た時よりも、ずっとずっと祈りを込めて、開いた扉をくぐった。

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