枯れていく言葉

 僕は仕事で毎日6000~7000文字程度を書いている。それだけの文章を書くために、十数件または数十件の記事を漁る。もちろん全文を読んでいるわけではないが、僕が読み書きしている文字量は1日に数万文字にはなっているだろう。自分で書いた記事だって、推敲のために何度も読み返さないといけないことだし。

 しかも、最近の僕は小説も毎日執筆している。仕事が終わるのは早くても夜の20時くらいだ。それから買い出しなんかをして勉強をして、小説を書く。だいたい1時間あれば小説も1500文字程度は進んでいる。


 これだけ大量の文章や言葉と対峙していると、途端に自分の中の言葉が枯れていくような感覚に陥ることがある。捻り出した言葉、自分の中から自然と出てきた言葉。それらが枯れ葉となって手のひらの上で干からびていくような。その感覚に抱かれると、途端に書くことが恐ろしくなる。

 これは僕が常日頃から言っていることだが、書くというのは孤独な作業だ。読者の需要・読者の潜在的な感情などを掘り起こそうとしているのに、目の前に読者はいない。自分ひとりで読者のことを調べる。自分ひとりで読者の立場になる。自分ひとりでコンテンツをひねりだす。そうして書いた文章を自分自身が読み、粗探しをしたりより良くなるように頭を悩ませたりする。

 言葉というのは本来誰かに何かを伝えるためにある。だから、伝わっていることがわかると安心する。

 だけど、直接読者に届けて感想をもらうのでなければ、言葉が誰かに伝わったかどうかなんてわからない。ネットに自分の書いた記事があって、検索結果トップになっていたとしても誰かに言葉が伝わったという確証は得られない。

 言葉の本来の目的を達成できたかがわからないから、言葉が干からびていく気がするのではないだろうか。


 それでも、ライターという生き物は難儀なもので言葉が枯れていく感覚に陥ったとしても書かなければならない。文章が金になるのだ。文字通り「書かなければ生きていけない」のである。


 言葉が枯れていく感覚に立ち向かわないといけない。言葉が枯れていく感覚に陥ったとき、僕はよく心の中でこう唱える。「夜に送り出した言葉は何かしらの形で誰かの目に触れ、確実に届く。たとえ反応が無かったとしても届いているに違いないのだ」と。

 その自己暗示がきかないときは、一時的に文章と距離を置く。倦怠期のカップルのように「距離を置きましょう」と宣言し、文章を書かず読まずの生活を数日間送るのだ。そうすると自然とまた言葉は潤いを手にし、言葉を紡ぎたいという感覚に襲われる。

 こうして考えると、我ながら「アホだな」と思う。

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