第5話 捕捉

1時間は歩いただろうか。腕時計を見ると深夜の1時を回っていた。寒気はより一層強まり、おそらく氷点下10度を下回っていると思われた。加えて、さきほどよりちらちらと小雪が舞い始め、それが次第に激しさを増し始めている。前方を歩いている妻の足取りはかなりおぼつかなくなってきている。幸いなことに背負われている息子は、気持ちよさそうにすやすやと眠っている。たいしたものだと感心しながらも、そのフードの上の降りつもり始めた白い雪を見て、これはもうそろそろ限界だなと思った。ちょうど一山超えたところだった。見通しのきく尾根の部分に出てきたので、妻に少し休むように伝え、私は道をはずれ周囲を歩き回った。おそらくこの登山道の休憩場所だろう、少し開けた場所がすぐ近くに見つかった。ほとんど長期にわたって整備されていないためかかなり荒れてはいたが、ビバークには最適の場所だった。除草剤でもまいたのだろう、下草は刈られてからあまり伸びておらず、両サイドは山肌におおわれて、風もかなり押さえられていた。なによりも好都合なのはちょうど前方下方に視界が開けていたことだった。ちょうど我々が今たどってきた登山道がきれいに見渡せた。つづら折りに、かなりの急傾斜地を登ってきたのがよくわかった。その道の下のほうにちいさな光がゆらゆらと揺らめいていた。2時間もたつのにまだめらめらと燃えている。2台の車がやはり黒こげの半壊状態で放置されていた。だが気になっていた3台目はどこにも見あたらなかった。追跡をあきらめたのか。そうであってほしかった。もしかして仲間を引き連れに戻ったのだろうか。しかしこれ以上の前進は妻がすでに疲労の限界にいるため到底無理だった。私は悩んだあげく吹雪き始めた周囲をみながらここで野営することに決めた。かりにやつらがまた戻ってきたとしても、追跡を始めるのは夜が明けてからだろう。私は急いで妻のところにもどり、ビバークの準備をした。

「だいじょうぶ。山育ちだから全然平気。それよりもこの子はだいじょうぶかしら。もう四時間以上もミルクをあげていないの。」私はうなずき、私はザックから粉ミルクとミネラルウォータ、そしてガスコンロを出し手早く湯を沸かして暖かいミルクをつくった。ついでに残った湯で二人分のココアをつくり、ひとつを妻に渡しながら、子どもにミルクを飲ませた。息子は元気にあっというまに200ccほどのミルクをすべて飲み干した。私もつづいて、ココアを飲んだ。体が芯から温まるのがわかった。私はザックから地図とコンパスを出して現在位置を確認した。偶然にも目的地の妻の里の北側の山の斜面にでる登山道を歩いていることがわかった。まさに幸運だった。ざっとみて10キロ、山岳路の10キロは平地でいえばその倍の20キロ近くを走破するのに匹敵するが一日出歩けない距離ではなかった。明日にはなんとかたどりつけそうだ。風が吹きかなり冷え込み始めた。おそらく氷点下10度前後にはなっているだろう。私は手早く簡易テントを組み立て、中に照明と暖房をかねてガスライトをともした。ガスコンロと暖房と照明をかねている小型のトーチだったので、すぐにはテント内は暖かくはならなかったが、ガスの炎の揺らめきはそれだけで不思議と心をなごませてくれた。防寒着を着込んだまま、小型のシュラフにくるまり狭いテントの中に横たわった。子どもは妻のふところに入りうずくまるようにして寝た。口や鼻からはきだされる白い息はテントの内側に張り付きあっという間にバリバリと凍った。私は妻にきづかれないように脇にそっと拳銃を置いた。ナイトビジョンも警報装置ももはやなかった。私は夜明けまで起きていることにした。一日くらい眠らなくても残り20キロくらいなら走破できる自身が十分あった。

念のために30分おきにセットしたアラームを止めるたびに、うつろな目をこすりながらテントの端をめくりあげて下を確認した。少しずつ揺らめく炎の大きさが小さくなっているほかは、何も変わったことはなかった。ついつい気がゆるんだのか、次のアラームの設定を忘れたまま寝込んでしまった。私は悪夢にうなされた。この3日間に私たち家族におこったことが何の脈絡もなく頭の中に渦のように再現され、消えていった。遠く、国道上で繰り広げられていた惨劇。真夜中に暴徒に奴隷のように引きづり回されていた人々。ゆれる車上での銃撃戦。耳を聾するような爆発音。悲鳴、閃光、怒声。そしてやつらが大声をあげながらすぐ後ろを銃片手に怒濤のように追いかけて来る。狂ったような叫び声を上げながら。その狂人の発するような獣じみた怒声がどんどん頭の中で反響し、共鳴し大きくなっていった。



はっとして目を覚ました。気づくと首筋から背中にかけてぐっしょりと汗をかいていた。全身に力がはいっていたのか、肩も首も背中も体中すべての箇所が、がちがちにこわばっている。夢のなかでの怒鳴り声がまだ耳の奥できこえているような感じがした。まわりはすでに明るかった。寝過ごしてしまったことにはっとして気づき、あわてて飛び起きた。妻もその気配にきづいたのか、シュラフから上半身を起こしこちらをびっくりしたように見つめた。まだ耳鳴りがしていた。いやまてよ。私はもう一度手で顔をこすり、耳を澄ました。幻聴ではなかった。それは確かに聞こえていた。私はテントの裾をめくり外を見た。すでに日は完全にのぼり、雪面に照り返すまぶしいほどの日の光に一瞬目がくらんだ。ゆっくりと目を慣らしながら、うなり声のする谷のほうを見下ろした。かすんだ視野が次第に焦点を合わせ始めた。はっとして思わず表に飛び出した。まぎれもなく、人影だった。まさに私たちが車を破壊して乗り捨てたところだった。道路沿いに見えるだけでも10名ほどの人影が確認できた。目をこらすと、なにやら人影の半分以下くらいの小さなものが地面をはうようにちょろちょろしているのが見えた。それが、うなり声の発信源だった。犬である。それはけっして彼らの愛玩犬ではなかった。胴の長さや毛色、しっぽのたち具合から、シェパードであることがほぼ判別できた。おそらく警察犬として使用されていたのだろう。しかしどうしてそんな犬を彼らは持っているのか。今までも、彼らがとうてい所持しているはずとは思われない警察仕様のマシンガンを乱射してきた。おそらくこの犬たちも元は警察の暴動鎮圧部隊が使用していた警察犬なのだろう。犬にとって主人は人間でありさえすればよく、その善悪までは判断できない。これはやっかいなことになった。犬のするどい嗅覚はすぐに私たちの残した臭いを追跡しはじめるだろう。そしてひとつも迷うことなくここまで一直線に彼らを引き連れてくるに違いない。考えている余裕はなかった。すぐにここを引き払い逃げなければならない。私はいそいでテントにもどり、まだうとうとしている妻をゆりおこした。「起きて、すぐにここを発つんだ。追手が下にきている。犬も引き連れている。急いで。」妻は驚いたが、すぐに私の言っていることを理解し、急いで立ち上がり身支度をし始めた。その様子を見てわたしはおやとおもった。なんだか少し片足をひきずっているようにみえたからである。「足をどうかしたのか」わたしは妻に尋ねた「いいえだいじょうぶ。なんでもないわ」しかし、その妻の言葉とは裏腹に、立ち座りしながら子供の身の回りのものをかたづけている妻は右足を明らかに引きずっていた。「隠さないで話しなさい。どうしたんだその右足は」「ごめんなさい。夕べ夜中登ってきたときに少しくじいただけ、心配しなしいで。ちゃんと歩けるから。だいじょうぶ。それより早くここを発ちましょう」私は夕べはただはやく現場から距離をとりたいという思いだけで先を急いでいた。まったく妻のほうに気を配らなかった自分を恥じた。「ちょっとみせてみなさい」わたしは妻の靴を脱がし、靴下をとって足首を見た。大きくくるぶし部分が腫れあがり、熱を持っていた。ザックから非常用の救急箱を取り出し、なかをかき回した。たいしたものは入っていなかったが、湿布薬と弾力包帯があったので、患部にシップ薬をはり、その上から足首を固定するように弾力包帯をぐるぐると巻き付けた。妻は「ごめんなさい、ごめんなさい」と泣きながら謝っていたが、謝るべきはわたしのほうだった暗闇とはいえ、前方を歩いている妻が片足を引きずっていることに気づかなかった私の落ち度だった。彼女は迷惑をかけまいと痛みを我慢して歩き続けたに違いない。無理をしてくじいた足で歩き続けたため、ここまで悪化させてしまったのだ。「泣くことはない。悪いのは私だ。もっとはやく気づいてあげれば良かったんだ。申し訳ない」彼女は私に抱きつき大声をあげて泣き始めた。「だいじょうぶ。歩けるから。今出発すれば逃げ切れる。だいじょうぶ。だいじょうぶ。私はだいじょうぶ・・・・。」後は声にならなかった。私は妻の肩をしっかりとだきよせた。「だいじょうぶ。心配しなくていいよ。私に考えがあるから。まかせなさい。とりあえず出発の準備は私がするから、息子の身の回りのものだけ整えてくれ」妻は泣きはらした顔をあげ私の目を見つめ返した後、大きくうなずいた。

私はあるプランを実行に移すことを決意した。これは夕べ歩きながら、最悪の状況を想定して頭の中で大まかにくみあげたファイナルオプションだった。これが本当に実行しなければならなくなるとは、考えている最中は思いもよらなかった。最悪の状況にたいする方策をただ漠然と頭の中だけで組み上げただけなので、本当にこのプランが成功するかどうか自信はなかった。しかし、状況は切迫している。やつらはもう間もなく追跡を開始するだろう。犬をつれていれば、迷うことなくここまで1時間もしないうちに到達するに違いない。残された時間はわずかだ。実行あるのみだ。私はふところのずっしりと重い拳銃を右手でしっかりとにぎりしめ、決心した。

とりあえず、まず私はあるものを作り始めた。テントのアルミニウムの支柱を1本抜き取り、それを腰上くらいのところで切断した。非常用の道具箱から取り出したワイヤーソーは細いワイヤーにダイヤモンドの粉が付着しており、その両端に指をかけられる丸いリングがついている。そんな簡単なものだったが、アルミ合金の棒を簡単に切断することができた。切断した片方の先端に、テントを張るときに使用したペグを差し込んだ。上から簡易ハンマーで何度もたたき、アルミのパイプの先端をつぶして、ペグが脱落しないようにしっかりと固定した。反対側には残っていた弾力包帯をぐるぐるとまいて、滑り止めのグリップ部分をつくった。できあがったのは、即席の杖だった。よく登山者が使用するちょうどスキーのストックのようなものだった。それを2本つくり、妻に渡した。妻はそれを受け取り笑みを返した。「いいか良く聞くんだ」妻は私の目をじっと見つめた「やつらがすでに追跡を始めている。しつこいやつらだ。しかもやっかいなことに犬を連れている。警察から奪った良く訓練された犬だろう。つまり、やつらは一直線でここまでやってくることが出来ると言うことだ。」そこまで話して、妻の目を見た。身じろぎもせず、わたしをしっかりと見つめ、口は堅く結ばれている。続けて言った。「おまえは子供を連れて先にいってくれ。私はやつらをここで足止めしてから、後を追っていく。いいかわかったな」妻はだまって私の目を見つめていた。その目が次第に潤んでくるのが分かった。「おまえのいいたいことはよく分かっている。だがそれは言うな。息子を頼む。必ず後を追う。それは約束する。」妻が背負っていた息子をおろし、私のほうに差し出した。私は彼を強くだきしめ、ほおずりし、そして耳元でささやいた。「ママをたのむよ。強くやさしい子に育ってね」しばらく抱きしめ、息子のぬくもりを胸に感じながら、ぜったいにここでやつらをくいとめると自らに強く言い聞かせた。妻は息子を抱きしめている私の背中から覆い被さり、泣きながら私にほおずりをした。私は必死で涙をこらえ、彼女を抱きしめた。私は永遠の時としてこの瞬間を脳裏に刻み込んだ。妻に息子を毅然とした態度でもどし、すぐに出発するように伝えた。彼女はしきりにほかに方法はないのと繰り替え尋ねたが、私はこれしか方法はないと何度も答えた。実際、今の私にはこの方法しか思い浮かばなかった。ほかに手だてが絶対ないとはいえなかったが、一番確実な方法は自らの手で追手と対決することだった。私は彼女を追い出すように出発させた。彼女はなんどもなんども振り返りながら、峠を下っていった。彼女にはこれからのルートと距離を伝えておいた。まだ20キロはあるがほとんど下りの一本道で、けがをした足でもなんとか日暮れまでには目的地に着けるはずだ。つまり、その半日をここで稼げばいいわけだ。できることなら生きてその時間を稼ぐことだ。生きて。彼女がみえなくなるまで私は手を振った。妻もふりかえりふりかえり手を振り続けた。しばらく私はそこに立ちつくした。今生の別れとなるかも知れなかった。再び私は我にかえり、対決のための準備にとりかかった。すでに残っている武器は拳銃1丁だけだった。弾薬もカートリッジ5本。つまり、現在装填されている15と併せて全弾90発だけ。これだけでは、彼らを足止めさせるには不十分だった。手持ちの装備で使えそうな物を並べて見た。マグライト、乾電池、ザイル、コンロ用のガスカートリッジ3つ、補助燃料のホワイトガソリン500cc、耐水マッチ1箱、イマージェンシー用のアルミホイル製ブランケット、小型マホービン、その他ガムテープ、などなどだった。しばらくその前で腕を組んで考えた。そのうちふとあるアイディアが浮かんだ。果たしてできるかどうか。しかし、もしできあがればかなりの効果が期待できるしろものだった。考えている時間的余裕はない。私は早速製作に取りかかった。まず、弾倉から弾丸を3個ほど取り出し、慎重に金槌で薬莢を弾頭部分からとりはずした。薬莢の中の火薬をこぼさないようにして、弾頭をとりはずした弾丸を前に3つ並べた。つづいてマグライト2本から本体のミニ電球2個と予備球1個をとりだし、そのガラス部分を割ってとりはずし、中のフィラメントをむきだしにした。並べておいた火薬入りの薬莢の今まで弾丸がはまっていたところに、フィラメントをむきだしにした電球を頭から埋め込むように差し込んだ。ガムテープを取り出し、細く縦に切り裂いたものを10センチの長さで3本用意し、その1本で回りを丁寧に固定し、ずれたり、中に水が入ったりしないよう密閉させた。次にガスカートリッジを3本とテント補修用の瞬間接着剤とペグを取り出した。ガスカートリッジを裏側にむけ、ペグをおもいきりそこに突き刺した。ペグは貫通し、ガス缶に約1センチほどの穴をあけて止まった。急いで、先ほど作った電球フィラメント付きの薬莢の周りの部分にゼリー状の瞬間接着剤をたっぷりと塗った。ガス缶につきさしたペグをすばやく抜いてそこにその接着剤の塗布した薬莢を埋め込んだ。計算通りほぼぴったりと穴は薬莢でふさがり、わずかな隙間はゼリー状の瞬間接着剤で瞬時に埋まった。念のため、ローソクに火をつけ、そのたれたろうで隙間を再度しっかりと埋めた。ガス缶の裏にちいさな豆電球のソケット部分が1センチほどのぞいているものが3つできたわけだ。次に魔法瓶を用意し、その中に補助燃料用のホワイトガソリンをたっぷり注ぎ込んだ。非常用マッチの火薬部分をちぎってひとまとめにし、ナイフで注意深く刻んで粉末状にした。それを長さ15センチほどのストローに注ぎこみ、一方の端の部分にだけ弾丸からとりだした火薬を入れて、点火薬とした。その後両サイドをロウで密閉しすることにより簡易の導火線ができあがった。魔法瓶のキャップにバーナーで熱した針金で穴をあけ、そこにこのストローを差し込み、隙間をろうで密閉し中のガソリンが漏れないようにした。できあがったのは3つのガス爆弾と一つのガソリン爆弾だった。うまく機能することを祈りながらナップザックにいれ、小道を50メートルほど下った。そこには例の車の残骸があった。ちょうど我々が乗っていた車両のエンジンの部品の一部と思われた。発電機の一部だろう、アルミ合金製のケースがぱっくりと割れ、中から鉄心に幾重にも巻かれた絶縁コイルがまるで獣の内臓のように垂れ下がりはみ出していた。私はそのケースから絶縁コイルを鉄心ごと取り出し、テントまで持ち帰った。手作りの電気信管に接続するワイヤーがこれで手に入った。頭部装着用のヘッドライトから電池パック部分をとりはずし、並列接続となっているのを改造して直列接続に切り替え、単一4本で約6ボルトの電圧を確保した。これで30メートルほどのワイヤーを接続しても、豆球のフィラメントを白熱させるだけのパワーがあるだろう。発電機の残骸からワイヤーをくりだし、アルミの棒にまきとりながら、ほかに準備すべきものはないか考えた。できるだけやつらをひきつけて、いっきに手製爆弾でかたづける。もしやりそこねたやつがいた場合はこの拳銃で始末する。これが作戦のすべてだった。単純なプランだがこんな時は単純な作戦のほうが失敗が少ない。ただ、やり損ねた場合は拳銃で始末しなければならない。それでもだめなら、こいつで戦うしかない。腰のベルトに挟んだ軍用ナイフに手をおいた。覚悟は出来ていた。考えているヒマない。いや考えてもしかたがない。実行あるのみだ。

 


それから30分ほどかけて爆弾を設置し、ワイヤーを接続し、その先に乾電池でつくった点火装置をつないだ。やつらをテントの方向におびき出すように小道にしっかりと足跡を残した。ガス爆弾をテントの中に一個とその周囲の雪の下に2個うめ、30メートルほど離れた山腹までワイヤーをひっぱりそこの岩陰に隠れ待機した。すでにさきほどから犬の鳴き声がすぐそこまで近づいていた。かじかむ手で安全装置として乾電池の接点にはさんでいたボール紙を引き抜いた。これでこのトグルスイッチを押せば一気に3発のガスタンクのカートリッジが破裂し、金属片と火炎でやつらを包み込むというわけだ。準備を終え気分を落ち着かせるために、一服しようとしたそのときだった。すぐ下のクマザサの茂みががさがさと音がして大きく左右にゆれ、その茂みのゆれが急速にこちらに向かって近づいてきた。私は大きく動揺した。私は固定観念に支配されていた。やつらは小道を通って目の前のテントまでおびき出される。そのはずだった。複数の犬のうなり声が聞こえた。崖を登ってくるなど想定外だった。犬には道など関係なかった。ターゲットを確認すれば一直線にそこに向かう。山肌を駆け上がるだけだった。一気に心臓が高鳴った。ナイフか銃か。やっかいなことに目の前5メートルほどまではびっしりとクマザサにおおわれ、犬たちがその姿を現したときはすぐ目の前とういことになる。組み付かれる前なら銃でしとめられるが、襲いかかってきた場合はナイフでしか防戦できない。最後まで迷ったが、軍用犬をナイフでしとめる自信はなかった。懐から銃を取り出し、念のため一発目を手動で排莢させた。不発が恐かった。確認できるだけで2頭ほどがクマザサをゆらしながらこちらに急速に近づいていた。残り10メートルとなったそのときだった。クマザサの間からほぼ同時にふたつ真っ黒いものがにょきと顔をのぞかせた。私はとっさに構えていた銃の引き金をつづけざまに引き絞った。夢中だった。熱くやけた薬莢が頬にあたりジュという肉の焦げる音をたててころがった。なぜか熱さは感じなかった。引き金を引き続けた。煙硝で視界がかすんだ。「カチャカチャカチャ」、最後の弾丸がうちつくされレシーバーが後座した。むき出しのバレルからかげろうがたっていた。グリップを握りしめていた両手は硬直していた。再び静寂が訪れた。なんとか2頭とも仕留めたようだ。急いで弾倉を交換した。再び静寂が破られた。下のほうでいっせいに犬がわめき始めた。と同時にその中に人の声も混じって聞こえ始めた。私は再び銃を構え直し、身を草むらに沈めテントの方をじっと伺った。視界にやつらの影が映った。彼らは犬の綱を握って、犬たちに探索の誘導させていた。これは幸いだった。犬を放たれ、同時に四方から飛びかかられるのが一番やっかいだった。総勢10人ほどだった。もちろん見えている数がそれだけだったということで、ほかにも後続がいないとはいえなかった。予想より多い人数だった。車3台としても犬をつれているから1台2人で計6人くらいと見積もっていたのだが。10人のうち銃らしきものを持っているのは二人だけだった。最初の追跡隊がもっていた重火器がおそらくかれらの手持ちのすべてだったのだろう。ただ所持しているのは警察の特殊部隊が使用する高性能なサブマシンガンだった。射程こそ拳銃と変わらないが、その速射能力はすさまじいものがある。なんとしてもあの二人だけは先に倒したかった。行幸は訪れた。都合のいいことに二人は先頭に立っていた。次第にテントに銃を構えながら近づいていった。後ろでは犬がすさまじくほえたてていた。風は正面から吹いていた。まだ犬にはこちらを気づかれてはいないらしかった。犬はテントにむかってほえ続けている。もう少しだ。もう少しテントに近づけ。その二人は警戒しながらも、次第にテントの方に近づいていった。後10メールというところで、犬たちがこちらにむかって突然ほえ始めた。風向きが変わったのだ。しまった。先頭の銃を持った二人は同時にこちらに向かって銃を構えた。私はとっさに茂みに身を伏せ、一瞬ためらったが、起爆スイッチを親指で力一杯押した。「パンー」先日の爆発音とは比較にならないほどのあっけない音だった。失敗だったか。私は急いで、身を起こし、テントの方を見下ろした。テントはめらめらと燃え上がっていた。その周りに人が4,5人うずくまり、のたうちまわっている。ガスタンクの周りにテープで貼り付けておいた発電機からとりはずしたベアリングの球が四散し、やつらに命中したのだ。さっきまでこちらにむかって吠えたてていた犬たちは、あたりには見あたらなかった。爆発音におどろき逃げてしまったのだろうか。残った数人は木の幹に隠れながら、あたりをきょろきょろと見回していた。半数をやっつけた。大成功だ。よし、後はここから一刻も早く脱出するだけだ。そう考えながら、念のためもう一度やつらの動向を確認しようと斜面の下のほうをのぞいたときだった。山の斜面に群生しているクマザサがまるで嵐にでもふかれているようにざわざわと大きく揺れていた。それも一カ所だけではなく、何カ所も、いや斜面全体がゆれているといってもよかった。いやな予感がした。風のせいではなかった。急いで拳銃を構えたが、すぐにおろし、背中のナップザックから魔法瓶をとりだした。ライターに火をつけ、先端の導火線に点火しようした。ついにやつらのうなり声が聞こえ始めた。どう猛な獣のうなり声だった。犬たちは逃げたのではなかった。爆破の衝撃をものともせず、その瞬間からこちらむかって突進していたのだ。しかも人間の血を見たが為よりどう猛な闘犬と化し、うなり声をあげて駆け上ってきたのだ。私は導火線を根本からちぎり、そのわずかに残った先にライターで着火し投げた。1秒あるかないかだった。伏せる間もなかった。犬たちの頭上でガソリンに点火した。「ボン」という低い爆発音とともに閃光と熱風が体中をおそった。目の前は一面の火の海となった。「キャンキャン」という犬の悲鳴が響き渡った。空中で爆発したためガソリンが四方に飛び散り、まるでナパームのように斜面に火炎をまき散らしたのだ。わたしは銃を構え、熱風に顔を焼かれながらも周囲を警戒した。その時だった。「タタタタタ」という連射音とともに、すぐ脇の杉の木の梢がこなごなに砕け散った。私は驚いて身を伏せ、音の聞こえた方向を頭のなかで反芻した。確かに後方から聞こえてきた。しまった。追跡隊はまだ別にいたのだ。最初からテントに近寄ってきた10人だけと決めつけたのが誤りだった。さきほどからの射撃音や犬のほえる声にむかって、密かに接近してきていたのだ。「タタタタ」今度はすぐ目の前の地面に続けざまに十数発着弾し、土塊が四方に飛び散った。やつらは急速に接近してきた。2回目の射撃は正確性を増していた。頭のなかでカウントした。三二一、左に回転しながら杉の木の根本まで移動し、幹を遮蔽物にしながらつづけざまに引きがねを引いた。「バンバンバン」やつらのサブマシンガンの弾幕とは比較にならなかった。人影がちらとみえた。さらに一連射した。カチ。レシーバーが後退したまま止まった。カートリッジを交換した。やつらはさらに接近した。笹のあいだから見えた。3、4、5、・・・ざっとかぞえて10人はいた。完全に別働隊がやはりいたのだ。万にひとつも生き残るチャンスはない・・・・。私は天を仰いだ。妻と子供の顔が頭をよぎった。まだ彼女たちが逃げ切るだけの十分な時間を稼いだとは言い難かった。どこまで持たせられるか。それが残された私の使命だった。

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