第136話 急性大動脈解離14

「これは、どういった状況だい?」


 急いで診療所に帰るとそこにはすでに多くの人がいた。なんでも小屋にいなかった僕を探すためにいろんな人を呼んで協力してもらっていたらしい。詳しい状況をローガンから聞いた僕は、時間停止ストップという魔法がかけられているレグスを心眼で診察した。


「たしかに……急性大動脈解離きゅうせいだいどうみゃくかいりだね。しかも外傷性3BRのStanford A型か……厄介だな」


 急性大動脈解離きゅうせいだいどうみゃくかいりとは、心臓から出た大きな血管である大動脈の壁が裂ける病気である。裂けるといっても完全に縦に裂けるわけではない。

 動脈の壁というのは三層の構造で成り立っている。それぞれ、内膜、中膜、外膜という名称がついている。このうち内膜が破れ、中膜との間に血液が流れ込むことによって裂ける。広範囲になればなるほどに外膜まで破れて大出血する可能性や、心臓や頭部に流れる血管の付近まで流れて血管を閉塞させてしまうなどの現象が起きる。どれもあっという間に命が失われてしまう現象だ。


 その中でもStanford分類という急性大動脈解離の状態を分類するものがある。心臓から出てくる上行大動脈への解離があるかどうかがこの分類の基本的な考え方で、上行大動脈の解離は心臓周囲へ出血で心臓が圧迫されて心停止を起こす心タンポナーデと呼ばれる現象や、心臓へ流れる冠動脈が閉塞して心筋梗塞を起こしてしまうという現象など、とにかく死に直結するものが多い。そのためにStanford分類のAに該当していれば、つまりは上行大動脈に解離があれば緊急手術を行わない限り、多くの場合は死んでしまうというものだった。

 ちなみに他にもDeBakey分類というものがあり、これは解離が始まった部分による分類法で1~3型に分かれる。その中の3型で逆行して上行大動脈まで避けたものを3BRという俗称で読んでいた。たしかこれは正式な分類名ではないのだが、専門医の間では状況がとても伝わりやすく使われているということだった。


「今、サントネ親方に急いで来てもらえるように……」

「そうか、分かったよ、ローガン。それでいい」


 必要なのは人工血管だけだった。それもサントネ親方がやってきて、打ち合わせ通りに作ることができれば十分なものが出来上がるだろう。人工心肺もある程度の準備は終わっていた。やってみなければ分からない部分も多いが、それでもなにも準備していなかったわけではない。


「そうか、あとは僕の心の準備だけなんだな」


 準備はそれなりにやってきており、この手術の想定はしてきていた。それであるにもかかわらず、これまでと比較して桁違いに難易度の高い手術を緊急で行うということに、僕の心拍数は跳ね上がっていた。


「シュージ……レグスを、……レグスを頼む」


 魔力を使い切る直前まで回復ヒールを唱えたのだろう。ベルホルトは僕が知っているような余裕のある顔ではなく、必死の形相でそう言った。僕は頷き返す。


「ロンドルさん。本当に一日はそのままでいることができるのでしょうか?」

「ええ、おそらくは。正直なところ、魔力よりも体力の方が心配ですが」

「有難うございます。そして申し訳ありません。数時間ほどお待ちください」

「分かりました。命にかえても勇者殿の時を止めておくと誓いましょう」

「僕は……誰かを救うために自分の命をかけることはしない主義です。でも、全力を尽くします」


 僕はロンドルさんへと頭を下げると振り返って言った。


「さあ、皆の力をかしてくれ」




 ***




「まず、すっきりさせておきたいことがあるだろうから報告からかな」


 サントネ親方がやってくるまでに情報の整理が必要だと思った。時間はロンドルさんが稼いでくれているためにそこまで心配することはなさそうである。よく寝たからか、森の往復をしただけでは体力的にも何も問題はなかった。


「コクは死んだよ。僕が確認した」


 そう言って僕はコクがつけていたピアスを取り出してヴェールに渡した。


「ええ、あの子の……コクの、いえ、オリバーの物に間違いないわ」

「コクの本名はオリバーと言うんだね。彼は最後にヴェールというのは偽名ではなくて本当の名前だと僕に言ったよ」

「そう……」

「残念ながら、何を伝えたいのかは僕には半分も分からなかったけどヴェールには分かるんじゃないかな?」

「……さあ、ね」


 そう言った彼女の顔は複雑なものだったけど、少なくとも悪いものではなかったと思う。前に進むことのできる人だと思ったからこの時点で言うことにしたのだし、それにヴェールは応えてくれた。


「少なくとも竜人ドラゴニュートに対する警戒はいらないから、緊急手術の方に全力を尽くそう」


 一応は騎士団と領主館の方にも連絡を入れてもらうことにした。治療に加わる人は優先的にこちらに来てもらうようにする。


 まずは魔力を回復させるポーションが必要である。保管してある世界樹の雫では足りなくなる可能性があるから追加で採りに行ってもらうことにした。これはローガンの父親に頼み、護衛はジャックとシグルドに依頼した。後から聞いたらシルクも一緒について行ったらしい。手術が開始するまでには間に合わなかったけど、精製された世界樹の雫が手術の終盤で役立つことになった。


 次にサントネ親方とセンリがやってきて詳細な打ち合わせが始まった。現代日本では製品化された人工血管を使っていたのであるが、ここでは全てがオーダーメイドである。心眼を使用してレグスの大動脈の大きさを確認し、それに合った大きさと構造を指定して設計図に書き込んでいく。こちらの要望とサントネ親方の意見がすり合わされた後に設計図を持ってサントネ親方とセンリは工房へと走って戻っていった。これから数時間で人工血管を作り上げるのだ。


 ルコルとメルジュもやってきて、手術室の中に人工心肺を設置していく。まだ血液の流れる量を測定する魔道具ができていないために、メルジュが魔力の流れを読み取る係を行うのだ。ルコルはその補助のつもりでやってきたらしいが、メルジュによると完全に訓練の一環らしい。ヴェールが人工心肺を使用している間は魔道具の管理なども並行して行ってくれる予定である。



 様々な人たちが協力してくれている。


 僕がユグドラシルにやってくる前から支えてくれていたレナを始めとして、後からいろんな事があって協力してくれるようになった人もいる。

 誰一人としていなかったならばここまでの手術をやろうとは思わなかっただろう。医学は完璧ではないために、どうしても限界というものがある。この世界にきて回復魔法というものが加わったけど、それでもできない事は多い。

 現代日本ですら、緊急で急性大動脈解離の手術を行うというのは大変なことである。ましてや設備の整っていない異世界でそれを行おうと思う人がいるだろうか。



 おそらく、これは僕がこの世界でできる最も困難な手術となるだろう。だからこそこの緊急手術を想定して準備を進めてきたのだ。


「シュージ、大丈夫?」


 手が、震えていた。麻酔の準備をしていたレナが僕の手の震えに気付いたらしい。


「大丈夫、たぶん武者震いってやつだ」

「そんな強がりを言わなくてもいいの」

「うん、ありがとう。でも、ここは恰好をつけさせてくれよ」


 よし、やろう。

 この手術が成功したならば、僕のやりたかった医療というものの完成形が出来上がると思った。

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