第83話 Leriche症候群7

 ヘパリンという薬がある。これは血液が固まるのを阻止する薬であるが、もちろん毒として使うこともできた。この世界で血を固めなくする作用を治療として使うことのできる人間は僕くらいなので存在しないかと思っていたら、ほとんど同じ成分のものが毒として存在したのだ。

 血管を遮断した際に、血液の固まる力を落としておかないと血流が滞っている場所で血の塊ができてしまう。それは血流再開時にどこかに流れて狭い部分で詰まってしまい、結局その先に血液がいかなくなって臓器が壊死してしまうことがある。臓器に血が流れず壊死することを梗塞こうそく、血液の塊が流れて行って梗塞が起こることを塞栓症そくせんしょうと呼ぶ。


 塞栓症そくせんしょうを阻止するために毎日血液をサラサラにする薬を飲んでいる人は、現代日本にはかなり多い。それは心筋梗塞の予防であったり、脳梗塞の予防であったりする。もちろん手術の時には血が流れやすくなってしまい、止血が困難となる。ほとんどの手術の時には血を固めにくくする薬は中止することが一般的だけど、心臓のステント治療などを受けたあとでは中止ができない場合だってある。


 ただし、心臓や血管の手術の場合は話が別だった。一時的にも血流を遮断しなければならないために、むしろ血が固まらない状態で手術をするのである。これは、あり得ないほどに手術の難易度が上がると考えたらいい。


「腹部大動脈の遮断、続いて両側の総腸骨動脈を遮断するよ」


 僕は腹部大動脈にかかっているテーピングを少し持ち上げながら、この日のために特注した大動脈遮断鉗子を使って腹部大動脈を完全に遮断した。カチカチと遮断鉗子を固定する部分の音が手術室に響く。


「少し血圧が上がったわ」

「少しだけなら大丈夫。そのまま異常がないかどうかを見ていてくれ」

「分かった」


 下半身への血流が完全になくなった。とはいっても、もともとシングの下半身にはお腹周辺だとか他の部分を通してのみ血液が流れているのである。ここを遮断したからといって、大幅な血流の低下があるわけではない。問題は血流再開の時だった。

 続いて総腸骨動脈を遮断するために親指程度の大きさのクリップ型の血管遮断鉗子を使う。

 三か所の血流の遮断ができていることを確認して、僕は腹部大動脈にメスを入れた。


「思った通りに血管の中はだいぶ動脈硬化が進んでいるね」

「こ、これを縫うんですか?」

「仕方ないよ。頑張ろう」


 石灰化がかなりきついシングの大動脈は切る際にバキンと音がするほどだった。それでも柔らかい部分は少しだけ残っている。腹部大動脈に切れ込みを入れると、そこから血液が湧き出てきた。

 腎動脈よりも足側の腹部大動脈から別れる枝というのは何か所かある。大きなものは下腸間膜動脈かちょうかんまくどうみゃくであり、僕はこれにテーピングをしていた。逆流が認められたために、再建は可能であると判断して、この動脈もクリップで遮断する。

 他には腰動脈ようどうみゃくと呼ばれる細い枝が何本かある。シングは血管の中が詰まっているために、この腰動脈も何本か閉塞していたのだが、それでもまだ開通していたものはあった。


 腹部大動脈を完全に切ったのちに、縦に切り開く。中から器質化といって組織に吸収される手前の状態で固まった血の塊が出てきた。これは血の塊であるが、意外にも時間が経っていると白色をしていたりする。新しいものは黒色で徐々に色が抜けていく。その汚らしいという表現が合う血液の塊をすべて取り除くと、腰動脈から逆流してくる血液がそれなりにあった。全てミリヤが足踏み吸引で吸い取って清潔な瓶に集めていた。吸い取ることで逆流してくる場所がはっきり分かるようになって手術が可能となる。その間に針糸を使って閉鎖していった。

 両側の総腸骨動脈も同じように切り離す。すべての逆流してくる枝を封鎖した後に、サントネ親方が作り上げた人工血管を取り出した。


「まずは中枢側を吻合する」


 かなり大きな血管である、直径は約三センチメートルというところだろうか。それを太目の針糸を用いて縫っていく。ところどころ石灰化していて針が通らない場所があるが、それでも細かく塗っていくのだ。途中で針の切れ味が落ちる。新しい針糸と結んで次を縫っていく。まだ針の作りが甘いためにすぐに切れ味が落ちる気がするが、仕方ない。四本ほどの針糸を用いて、腹部大動脈と人工血管を吻合した。


「出血を確認するのと、血管の中の血栓と空気を流すよ」


 盆に厚手のガーゼを敷き、大動脈遮断鉗子をゆっくりと外した。二股に分かれた人工血管の先から血液がどばっと盆の中に流れる。小さめの血管遮断鉗子を使って両方とも遮断した。こうすることで血栓という血の塊と空気を抜くことができる。


「盆に出た血液は吸っておいてくれ」

「分かりました」


 血は足踏み吸引で回収してもらった。出血の総量はまだそこまでではないけど、あまり血を出しすぎると貧血が進んでしまう。回収した先の清潔な瓶には血を固まらなくする薬が入っている。

 人工血管を吻合した部分からはある程度の出血が認められた。そこに細かく回復ヒールをかけて止血を行う。ここの吻合部から出血がなくなったことを確認して、人工血管の長さを調節して適切なところで切った。長すぎても曲がってつぶれてしまうこともあるし、短いとそもそもつなげられない。


「次は総腸骨動脈だ。左からいくよ」

「はい」


 次は先ほどよりも少し細めの針糸を使う。この部分の血管もかなり動脈硬化が進んでおり縫うのは大変だったが、何とか吻合することができた。糸を結ぶ前に血管遮断鉗子を緩めて空気を抜く。しっかりと結び合わせると、遮断鉗子を外した。


「左足に血液が通るよ」

「分かったわ」


 いままで全く流れていなかった左足への血流が再開した。この時点で心臓への負担が増える。心眼で見ていた限りはシングの心臓は特に問題なさそうだったけど、どうなるかは分からない。


「血圧はどう?」

「ちょっと、下がっているわね」

「点滴を増やして。あと、あれをしよう」

「あれね」


 レナが点滴の量を増やした。これで一時的に血圧は上がりやすくなる。しかし、血液がかなり薄まってしまう可能性もあった。


「レナ、できそう?」

「ちょっと待っててね……」


 レナは先ほどから足踏み吸引で集められていた血液を取り出した。薬が入っているから、固まっていない。他にも生理食塩水などを少し加えて混ぜた後に魔法をかけた。


水操作ウォーターコントロール……浄化ウォッシュ……」


 出来上がった液体を点滴として入れてもらう。あまり量は多くはなかったが、それでもないよりはずいぶんとマシだろうし、出血が少なかったことを示しているのでよい事なのだろう。


「先生、それは何?」

「ああ、ローガンにはまだ説明してなかったな。これは回収式自己血輸血だよ」

「回収式?」


 地球では、吸引で吸い取った血液を一旦洗浄して血球成分だけを抽出して再度輸血するという方法がある。僕はそれが魔法でできるのではないかと思っていたために、レナに挑戦してもらったのだ。水魔法と生成魔法と、それに浄化ウォッシュを組み合わせたかなり難易度の高い魔法なのだけど、レナはあっという間にものにした。いつの間に生成魔法もある程度できるようになっていたのだろうか。


「よし、これで血圧は大丈夫そうだ。もう片方を縫っていくよ」

「はい!」


 こうして僕は右総腸骨動脈の吻合も終わらせた。最後に人工血管の前面に特殊な形状の血管遮断鉗子を使って下腸間膜動脈を吻合すると、ミリヤと一緒にたくさん回復ヒールをかけた。それまではいたるところからじわじわと出血が認められていたけど、回復ヒールをかけるたびに出血は少なくなっていった。足踏み吸引はその後も出血を全て吸い尽くし、ある程度溜まったらレナが魔法をかけて輸血をするということを全部で三回ほど繰り返した。


「よし、後はお腹を閉めるだけだ! ミリヤとローガンでやってみて」

「えええええぇぇぇ!?」

「大丈夫大丈夫、僕も見てるから」



 シングのLeriche症候群の手術はこうして終わった。僕は人工血管の出来栄えに満足し、そしてこんな大きな血管の吻合ができるほどに設備と薬と皆の習熟度が上がったことを喜んだ。

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