第15話 慢性硬膜下血腫3

 ローガン少年の頼みは即答してあげることはできなかったけども、ローガンの父親の許可とかがあればなんとかなるだろう。まずは見習いとして薬の扱いを覚えることと、病気の知識を蓄えることから始めさせなければならないけど。


「多分、ローガンが思っているよりも大変だぞ」

「か、覚悟はある!」


 日本の医学部は六年間学ぶのである。さらに研修医は二年間の研修が義務づけられていおり、それが終わって初めて戦力として認定される医者となるのだ。さらに専門医になるためには数年以上の仕事を兼ねた研修が必要である。ざっと、十年以上勉強して始めて医者というものは医者になれるのだ。その知識量というのは常人のものと比べられても困るほどのものであるにも関わらず、すべての分野に精通している医者なんてほとんどいないだろう。得意分野と苦手分野は必ずあり、全般的にできるという医者は専門的な知識に関しては心許ないはずである。


 だからこそ、薬師として学び始めるローガンも十年とは言わないけど、数年以上の勉学の後に初めて一人前と呼ばれるかどうかという道に進むという事を分かって欲しかった。そして、それを導くのは僕以外にはいないのである。


 ローガンだけじゃない。レナを始めとして病院で働いてくれる人には病気の知識というのが必要である。僕がなんとなくメモ書きとして書いていた本をレナは読みこんでくれているけど、もっと系統立てて、人に教えることを前提として本を書かねばならない。明日から、寝る前の一時間くらいは本を書く事に費やそうと思う。


「分かった、準備が必要だけど、まずは午前中は診療所の手伝い。主に薬の事を中心に仕事をしてもらおうかな。午後に時間があるときに薬のことを教えよう」

「やった! よろしくお願いします! 先生!」


 先生と呼ばれて、懐かしい気がした。日本にいた時にはよく先生と呼ばれていたものである。


「まずは魔法を使わずにできる薬とか生理食塩水とか消毒薬とか、その辺りの準備からやってもらおうかな」

 

 消毒の概念だとか教える事は山積みだけど、その内他にも従業員は増えるはずである。組織を管理するためには教育も必要なことだった。




「やっぱり、針糸はできなかったんだって」


 センリの所に道具を取りにいってくれたレナが帰ってきた。僕はローガンとサーシャさんに消毒の仕方というのを教えていたために一人で行ってもらったのだ。細菌という微生物がいるという事を示すために、顕微鏡を買わなければならない。こっちの世界にあるかどうかも分からないから、またセンリの工房で作ってもらうしかないだろう。顕微鏡のレンズの構造をうまく説明できるかどうかは自信がない。


「親方の調子が本当に悪いみたい。まるで人が変わってしまったみたいって近所の人も言ってたわ。工房の外まで出てきていたけど、たしかにぼーっとしていたもの。工房の親方って感じはしなかったわね」


 サントネ親方に会ったのだという。僕は行っておけば良かったなと後悔した。


「フラフラして、右に傾きながら歩くものだから、センリがずっと付きっきりだったのがちょっと可哀そうだったわね。あ、これ尿道バルーンって奴。注射器で空気とか水をいれるとここが膨らむってセンリが言ってたわよ。試しておいてね」


 レナは僕に尿道バルーンと気管挿管チューブなどを渡した。先端に風船がついていて、付属の管に注射器で空気を要れるとしっかりと膨らんだ。これで脇漏れも防ぐことができるし、固定もできる。


「ありがとう。問題なさそうだね」

「ええ、センリもこれはできたって言ってたわ」


 針糸はどうしても無理だったか。そのサントネ親方が回復してくれる可能性というのはあるのだろうか。しかし、認知症はなかなか改善しにくい病気である。ほとんどしないと言っていい。


 ………。


 しかし、ここで僕の頭の中に一つの病気の名前が浮かぶとともに、さっきレナが言った一言が気になった。


「ねえ、レナ」

「なに?」

「さっき、サントネ親方が右に傾くって、言った?」




 ***




「そういうわけで、センリが良かったら僕に親方の診察をさせてもらえないかな」


 夕方になってしまったけど、僕らはサントネの工房へと出向いた。レナとローガンを連れてである。ローガンに病気の事を教えるにあたって、実際の治療を見せるのが一番早い。それが薬が必要なものかどうかという判断もしなければならい状況だってあるし、逆に薬が効かない場合も多い。


「あ、ありがとうございます。何人か治癒師の人には見てもらったんですけど、全然良くならなくて」


 家族のいないサントネ親方にとってセンリは養女のようなものだったらしい。センリの方も両親は早くに他界しているから本当に親子のような付き合いなのだとか。もちろん工房の裏に二人で住んでいた。


 工房の奥に行くと、作業場に一人の老人が座っていた。その表情はどこか集中力がなく焦点もあわずに空中をただぼーっと眺めているようである。


「こんにちは、私はシュージといいます。この町の診療所で医者をしています」

「イシャ?」


 医者という聞きなれない単語を聞いてサントネは首を傾げた。しかし、自分から自己紹介をしようという気配はない。少しずつ質問とかをしていくが、聞かれたことを言葉少な目にこたえていくだけだった。


「長生きしてるとこんな風になっていく爺さん、多いよな」

「ローガン、この人はそうでもないんだよ」


 僕にはすでに分かっていた。それはサントネと出合った時点ですでに発動させていたアマンダ婆さん直伝の「心眼」である。直伝と言っても、「目に力をこめろ」以外は教わっていないのだが。

 ともかく僕はほぼ毎日この技術の訓練と実践を繰り返しており、アマンダ婆さんほどではないけどかなりの精度で魔力の流れが分かるようになっていた。それでサントネの頭部をくまなく観察したのだ。


「症状がひどくなってきたのはこの数日なんです。今日はまだこうやって工房に出入りできているんですが、ほとんど家で寝てることが多くなって」

「もしかして、二、三か月くらい前に頭をどこかにぶつけませんでしたか?」

「えっ? そういえばあまりにも忙しくて転んで怪我をしたことがあります。治癒師さんに来てもらうほどのものではなくて、親方も仕事があるからって何もしませんでしたし、そのまま治りましたが」


 やはりそうか。僕はサントネの手などの診察を行った。他にも病気が隠れているかもしれないと、画像の診断などで確定したあとでも色々と調べてしまうのは癖のようなものである。しかし、左側の筋力低下とか神経症状が軽くあるのは予想通りだった。



 病名は慢性硬膜下血腫まんせいこうまくかけっしゅである。


 一~数か月まえに頭部の外傷をしていることが多い。そこで損傷した血管から頭蓋骨と脳の間に何層かあるくうと呼ぶ空間のうち、硬膜とよばれる膜の下の硬膜下腔こうまくかくうに少しずつ血が貯まっていく病気である。脳を圧迫し始めるのに一、二か月以上かかるために表面の傷が癒えてから症状が出始める。

 認知症と間違われやすい病気であるが、認知症に比べて進行は早い。しかし認知機能がもともと落ちている人などにこれが起こると見極めが難しく、日本では頭部CTでもとらない限り診断はむずかしいだろう。そのために医者が診察したときに、どれだけ慢性硬膜下血腫を疑えるのかというのがポイントとなってくる。そうでなければ「数か月前に頭を怪我してないか?」なんて質問は自然とは出てこない。


 ともかく、サントネは右の硬膜下に大量の血がたまり、それが脳を圧迫していたからこんな症状が出ている。左半身に力が入らないことも右脳の圧迫所見だ。もう少し話を聞いていくと、やはり頭痛もしていたようである。まだ言葉が出てきやすかったのは左脳の症状が現れていなかったからだろう。言葉を司るのは左脳と言われている。


「センリ、落ち着いて聞いてくれ」


 僕はセンリの方を振り返ると、病気のこと、手術の事を詳しく説明した。




 ***




「つまり、そのシュジュツを受ければ親方は治るんですか?」

「絶対とは言わない。けれど、かなり可能性は高いと思う」


 相変わらず必要な器具は全くない。その準備に数日はかかるだろう。それまでに進行するとは思えない病気だから、手術をするのであればしっかりとした準備をしたいと思っている。そして、それはこの工房に頼むことになる。


「お願いします! まだ、私はまだ親方に教わってないことも多いし、それに……それに……」


 血がつながっていないとはいえ、センリにとってサントネ親方は父親だった。唯一と言ってもいい家族がいなくなることを考えるなんて辛い。それは、そのうち訪れてしまうことなのかもしれなかったけど、僕はできるだけそれを先延ばしにする手助けができたらいいと思っている。

 ローガンもいる。僕はできるだけ丁寧に病気の説明と手術のやり方を教えた。



 手術の方法は、「穿頭せんとう血腫けっしゅドレナージ」である。穿頭せんとうとは頭に穴をあけること。ドレナージとは中のものを吸い出すことだ。つまりは頭蓋骨に穴をあけて、硬膜に切り込みを入れて、中の血種を吸い出してくる。


「頭蓋骨に穴をあける道具が必要だ。このくらいの穴を、回りの組織を壊さないようにゆっくりと削る道具をお願いしたい」


 手回し式のドリルである。ゆっくりゆっくり頭蓋骨を削って穴をあける。勢いをつけて手元が狂ってしまうと脳に刺さる可能性もあるから、勢いがなくても硬い骨が削れるものじゃなければならない。


「次に、ちょっとした刺激に脳が反応するかもしれない。だから、昏睡コーマはかなり深めにかけてもらいたいし、他の薬も使おう」

「分かった」


 レナの役割も重要だった。今回は気管挿管した状態で手術を行うと決めた。脳がどんな反応をするか分からないからだ。日本では脳神経外科でなければ穿頭ドレナージなんてやらないし、見学以外で経験もない。手術の中では侵襲ダメージの少ない手技のはずだけど、慎重になったくらいがちょうどいいだろう。

 局所麻酔でできるような手術なのである。しかし、サントネ親方がずっと動かずに手術を受けてくれるかどうかが分からなかったし、何が起こるか分からない。こちらに局所麻酔として使うことのできる薬がまだ見つかってないのも大きな理由であるが。


 数種類、鎮痛薬とか神経抑制系の薬は手に入れてある。特に効果は軽度であるけど麻酔に近い効能をもつ薬草を手に入れていた。これも使ったほうが良さそうだ。


「気管挿管のチューブはこの前作ってもらった。それで手術中はレナに呼吸を任せるよ」


 頷くレナ。本当にレナには麻酔科の役割をやってもらうことになる。薬の投与とかもレナに任せてもいいかもしれない。


「最後に硬膜を切ったあとは、血を取り除いて管を入れて殺菌が終わった生理食塩水で中を洗うんだ。終わったら回復魔法で傷を閉じておしまいさ」


 口で説明すると簡単である。そして、説明している僕もそんなに難しいことはないなと思ってしまう。しかし、初めて聞くセンリやローガンはその手術内容にビビってしまっているようだった。頭の骨に穴をあけて、なんて何も知らない状態で聞いて大丈夫な人はそうそういないから。


「ドリルの作成にどのくらいかかる?」

「試作は一日あれば。改良を加えて数日で」

「そしたら、呼吸の管理専用にふいごを足で踏む方式で空気を送り込める装置ってお願いできるかな?」


 前回、ソアラの破傷風騒動の時には手でバッグをもんで空気を送り込んだ。あれだと、手が塞がってしまうし、なにより長時間は手がつらい。足で呼吸させることができる装置があればレナが色々な作業をすることができる。


「それは基本となる設計図がありますので、それを応用すれば……。機械部分は鍛冶職人にお願いしましょう」

「では、明日に試作を見に来るよ」

「はい、お願いします」


 他にも細々とした部分の打ち合わせを終えて、僕らは診療所へと帰った。

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