第11話 破傷風3
冒険者の名前はソアラというらしい。新人の斥候の冒険者である。
「さすがに二時間も空気を送り込みつづけると疲れたよ」
「でも、この後世界樹の雫を採りにいくのよね?」
「そうだね、それにソアラの呼吸を担当する人も必要だよ」
現在、ソアラは気管切開した部分に入ったチューブと、送気した空気が逆流しない弁が取り付けられた大きな風船を揉むことで、肺に空気を送り込んでいる。肺から吐き出された空気は弁によって風船には逆流せず、風船の後ろの部分につけられた新鮮な空気を送り込むようにできている道具である。
気管切開せずに口の周りにつけるマスクにそれを取り付ければ「バックバルブマスク」と呼ばれるものになるのであるが、人工呼吸器には取り付けずに呼吸をさせたいときに使う道具である。酸素ボンベにつなぐことのできない風船の部分は、中にバネを仕込むことによって自分で膨らんでくれるように設計しており、その強度や大きさなどを改良してもらっていた。
難しく説明してしまったが、空気を送り込む風船をずっと揉んでいる必要がある状態ということだった。
ノイマンが代わりにやってくれている。
「他にも下剤の調合に、尿道に管を入れて尿がしっかり出るようにしたり……」
破傷風の症状の根幹は神経毒である。本来だったら、温度変化とか衝撃だとか、体の動きに反応して血圧を安定化させたり、体温を維持したりする神経が完全にやられている。
この状態の破傷風患者を揺さぶったり、大きな音を出したり、急激な温度変化などを加えると心臓が止まるかもしれない。そんな状態だと思ってもらえればだいたい間違ってない。
食事も自分でとれるわけではない。それどころか、消化管の動きがほとんどなくなるし、尿を出す事もなくなるから
僕はたまたまこの前購入していたソベン草から下剤を製薬するために二階に上がった。ついでに鼻と尿管に入れる管も作る。先を瓶につなげられるようにして、ベッドの下に固定しよう。
ソアラはすでに病室へと移動させられていた。ベッドの上で、固定のために針と糸を使った痛々しい見た目の点滴と、気管挿管されたチューブに繋がれたバッグがあり、それをノイマンがゆっくりと呼吸させるように揉んでいる。
僕は手袋を取り出すと、ソアラのズボンを脱がせて滑りやすくするために軟膏を塗りこんだ尿道から管をつっこんだ。管の先には側溝がついていて、詰まりにくくなっている。尿が出てきたところでもう一個の管と接続して、ベッドの下の瓶に流れるように固定した。
それを見ていた女性陣はちょっと照れていたようだ。アマンダ婆さんだけが嬉しそうである。
「さて、固定をどうするかな」
テープもなければ、現代日本で使われている管の先の固定用
次にまたしてもチューブを取り出して、鼻から突っ込んだ。コツがいるけど、それを食道まで入れて、さらにはその先の胃まで到達させる。ガラスでしか作ることができていない注射器で胃酸がかえってくるのを確認んしたあとに、そこに調合した下剤をいれた。逆流してこないようにして、これも顔のところに針と糸で固定した。本当に見た目はかなり痛そうである。さらにテープを開発することが必要になった。
「よし、交代で呼吸の管理をよろしく頼む。自分が呼吸するくらいの量を呼吸するよりも少し早めで入れてくれ」
設備が整っていれば、血液内の酸素濃度を測る機械だとか、バックに酸素を送り込むボンベだとかも必要だった。しかし、こんな所にそんなものはない。
「何もかもが足りないな」
やれることが本当に少ない。そのぶん、魔法で何か補えないかと思うけど、できることとできないことがある。
「ソアラの仲間たちも呼んできます。交代で、ずっとやる必要があるのでしょう?」
ミリヤが言った。その通りだった。この人数でずっとソアラの呼吸の管理ができるわけもない。尿と便の世話も必要だった。さすがにアマンダ婆さんやノイマンやミリヤにそんなことを頼むわけにもいかない。それにこれから僕らは世界樹の雫を採りに行く必要があった。
「頼んだよ。じゃあ、僕らは出発しよう」
「シュージ、無理してない?」
レナがそう言った。止めろと言わないのは僕以外にはできない事があるのを知っているからだろう。
「大丈夫」
「……」
僕はソアラの痙攣が再発したらもう一度
***
「シュージが世界樹にいかなくても世界樹の雫が手に入るようにしないといけないわね」
レナが
遠くでグリフォンが墜落していく。他のグリフォンたちはそれを見て僕らから距離をとることにしたらしい。全く視界の中には見えなくなった。
「自分で言うのも何だけど、難しいんじゃないかな?」
「育てればいいのよ」
「うん、まあ、それならば……」
レナはロンさん同様に、根っこの上を行くルートをとると言った。できる限り早く帰った方がいいのではないかという意見だったけど、僕を気遣ってくれていることくらいすぐに分かった。そんな思いを無下にするわけない。僕はレナにありがとうと言った。
「だ、だってシュージは他にもやることが沢山あるでしょう」
一人で全てを行うことはできない。たしかにレナの言う通りだった。だからこそ僕は最初にソアラの状態をみて焦ったのかもしれない。僕一人では何もできないけど、他に医学的知識と技術をもっている人間はいなかったから。
でも実際は皆が手伝ってくれてなんとかなった。世界樹の雫が取れれば、僕も少し休むことができるかもしれない。数日間、ソアラは人工呼吸が必要になるだろう。それを凌げば彼は助かるはずだった。もう少しなのである。
この前世界樹に来た時に使った樹洞からは、まだ樹液が出ていた。僕らはその場で製薬魔法を使って世界樹の雫を精製すると、すぐに元来た道を引き返した。
***
「シュージがいなくなると、途端に不安になってきたんだが」
診療所ではノイマンがバッグを揉みながらアマンダに弱音を吐いていた。今、気管に入っているチューブが外れたらノイマンでは入れなおす自信がない。他にもいきなり痙攣が起こって対処できない状況になるかもしれない。考えたらきりがなかった。
「確かにそうさね。シュージ以外は誰もこの子を治すことができんさね」
アマンダは歴戦である。不安があったとしてもそれを外に出すことはない。しかし、とアマンダは思う。
こんな技術は聞いたことも見たこともない。たしかにシュージは西方都市レーヴァンテインで治癒師をしていたというが、いくらレーヴァンテインが遠くてもここまでの技術があれば噂くらいにはなっているはずであろう。レナほどの才能がある黒魔導士がいれば、といってもレナほどの才能のある魔導士なんてアマンダの知り合いにはいないが、現実的にはレナならその日のうちに
レナの事は同じ黒魔導士としてまだ理解できる。自分やロンよりもレナの方が魔導士としての格は上かもしれない。若さを考えるとどうしても勝てるとは思えないが。
そんなレナとパーティーを組んでいるシュージが並みの治癒師であるとは思えないが、それにしても規格外である。世界樹の雫というのは、いくらユグドラシルの町であってもこんなに簡単に手に入るものではないし、それを定期的に採りに行って常備しているなんていうのも聞いたことがない。製薬魔法は冒険者にとって必要なものではなく、それの習得も難しいはずなのだ。しかし、シュージはそれを手に入れていた。
ユグドラシルの町には世界樹の雫を精製できる薬師が数名いる。どうしても世界樹の雫が欲しい場合には、この薬師を同行させて世界樹を登るのであるが、薬師が他の冒険者のように動けるはずがない。必然的に大人数の護衛で世界樹を登る必要が出てきて、準備にも莫大な金がかかる。さらには世界樹の雫は使用できる期間が短いために、服用をする者がユグドラシルの町にまで来ていないといけない。この辺りも世界樹の雫が高価である原因だった。
どの薬師も世界樹の雫の製薬方法は一部の弟子にしか受け継がせないはずである。シュージにその経験があったのも驚きである。
「まあ考えていても仕方ないさね。ミリヤ、ソアラの仲間の他に身の回りの世話ができそうな人を雇ってきてくれんか。さすがに仲間に下の世話をさせるわけにはいかんさね」
ひっひーと下卑た笑いをしながらミリヤが赤くなるのを楽しむアマンダ。それでもミリヤはコクンと頷くと冒険者ギルドへと向かった。ソアラの仲間はそこで待機しているはずだったし、家政婦を雇うにしても冒険者ギルドからの伝手があると早いと思ったからである。
「しかし……」
ノイマンが呟いた。その手はソアラの呼吸を止めることはない。胸の動きをしっかりと観察して、十分に空気が入っているかどうかを確かめる、とシュージは言っていた。できていると思うが不安がなくなるわけではなかった。
「人を救うってのが、こんなに大変だったとは思わなかったよ」
回復魔法はあっという間に治る。怪我をしてもミリヤが治してくれると思ってきたが、どこか感覚が麻痺していたのかもしれないとノイマンは思った。
***
「よし、まだ生きてるな」
僕は診療所に帰るとそう言った。その言葉を聞いてノイマンが今にも死にそうな顔をする。かなり不安だったのだろう。僕も、帰ったら気管に入れていたチューブが外れてもうどうしようもなくなっていたとかいう状況を想定しなかったわけではない。
「えらく時間が長く感じられたよ」
「悪い、ノイマン。助かった……ついでにもうちょっとやっててくれ」
すでに数時間バッグを揉み続けているノイマンは精神的に限界が近いだろう。だけど、僕も帰ってきたばかりでもやることがあるし、レナは帰りにグリフォンたちをけん制するためにかなりの魔力を消耗していた。
「ああ、さっき数十分だけアマンダさんに代わってもらったから大丈夫だ」
「ひっひー、このくらいなら手伝うさね」
「代わるわ」
レナがアマンダにそう言った。強がっていても、アマンダは冒険者の現役を引退するくらいには歳をとっている。体力も精神力も現役の頃に比べると落ちているはずだった。
「僕は世界樹の雫を精製しなおしてくるよ。濃度がイマイチなんだ。それにソアラの食事とかも作らなきゃいけないから……とりあえずはギルドの酒場にお願いしようか」
「もうすぐミリヤが家政婦をやってくれる人をつれて戻ってくるはずだ。さっき一旦戻ってきて、なんとか人を雇えそうだと言っていた」
「それは助かる。治療ばかりに気が向いてたけど、体を拭いたりとか看護の事があるからね」
看護師の役割をする人というのは重要である。患者は生きているのだ。飯を食って出す物も出さなければ生きていけない。治療に専念する方は、その事をおろそかにしがちなわけではないが頭が回らないというのが現実だった。
僕が薬を作り上げると、ソアラの冒険者仲間たちがノイマンの代わりに呼吸の管理を行うことになり、雇われた家政婦の人がやってきた。
「サーシャと言います」
来たのは四十代の女性である。すでに子供は独立していて、主人は他界しているのだとか。昔は家政婦などをしていたこともあって、患者の身の回りの世話を頼むにはうってつけの人材だった。あまり、詳しい説明をされていなかったのか、ソアラの状態を見てビックリしている。
僕は簡単にこの状況を説明した。ゴブリンの毒で呪いにかかったこと、その呪いは実は毒が原因で治すことが可能であるが非常に難しいということ、現在はまだ治るかどうかは分からないけども皆で全力を尽くしていることだ。
「私の子供たちと同年代なんです」
サーシャの息子も冒険者になったとか。主人も冒険者で、依頼中に命を落としているらしい。そんな経歴をもつサーシャはソアラを救うという事をきいて全力を尽くしてくれると言った。ありがたい。
「アマンダさん、レナ、先に休んでくれ」
「シュージの方が疲れてるじゃない」
「僕は後から休むよ。この治療は一日や二日じゃ終わらない。順番に休憩を取らないと」
「わ、分かったわ」
僕は限界に近づいていたアマンダ婆さんを帰らせると、レナを二階に追いやった。スタッフの休憩室を作っておいてある。ベッドである程度寝れば、レナも回復するだろうし痙攣が起こったら申し訳ないけど起こしに行くと言うと、レナは素直にベッドにもぐりこんだ。
「ごめん、でもレナを頼りにしているんだ」
「こんな事で謝るんじゃないわよ」
休憩室の扉を閉めると、僕は階下へと降りた。その手に、ある瓶を握って。
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