01-02 汝、隣人を愛せよ

「はじめまして、遅くなってしまい申し訳ありません。わたくし、エクソシスムを専門に行います、神父のTと申します」

 朗々とそう告げる英語は、イタリア語の訛りがあるものの耳触りがよく、容姿と相まって無条件で人を信じされるような力があった。

 アーネストが渋々ながらもチェーンを外すと、彼は家に入ってきてにこやかな笑みを浮かべたまま、胸ポケットから名刺入れを取りだした。彼が差しだした名刺には、金色の箔押しの文字で、


『エクソシスム専門 神父   T』


 と書かれている。

 リサの台詞を思いだしつつ、アーネストは数度名刺と男を見比べる。

 電灯のしたで見ると男の肌は日に焼けており、ブラウンだと思った目はグレーで、オパールのように角度によって深い藍色や日に輝くオレンジが走っていた。

「も~、なんですかうるさ……うわっ! イケメンがいる……」

 目を擦りながら階段をおりてきたリサが、Tを見て目を丸くし立ち止まる。甘い顔立ちに柔らかな笑みを浮かべ、Tはリサにも名刺を一枚差しだした。

「えっ! ほ、ほんものですか?」

 目を白黒させながらリサは上目遣いで神父を見やると、彼は不思議そうに小首を傾げてみせた。ウェーブがかった髪がわずかに揺れ、偽物のような長く黒い睫毛を動かしまたたく。歳はアーネストより下、リサより上の二十代後半ぐらいだろう。

「オレは心霊現象研究家のアーネスト・ホワイト。こっちは助手のリサ・クラークだ」

「お話はうかがっております。デイブ・キーティングさんはいらっしゃらないんですよね?」

 話はそれなりに聞いているのだろう、彼は確認するような口調で問いかけた。それに応えたのはリサで、彼女は慌てた様子で乱れた髪を手櫛で整えている。

「デイヴさんは明日の夕方まで戻ってきません」

「なるほど。それではゆっくり仕事をさせてもらいましょう」

 上等そうな黒い鞄を机のうえに置くと、彼はなかから五〇〇ミリリットルのペットボトルと十字架、マリア像を取りだす。透明なペットボトルに目線をやっているアーネストに気がつき、Tは白い歯をみせて微笑んだ。

「聖水です。自分でつくれるんですよ」

「へぇ、ペットボトルに聖水なんてはじめてみたわ」

 アーネストの嫌味が含まれた言葉を理解していないのだろう、Tはリサに向けるのと同じさわやかな笑みを浮かべる。先ほどまで重苦しい闇があったとは思えないほど、彼が存在するだけですべてがキラキラと輝いて見えた。

 アーネストは眉間に深いしわを寄せ、頭を乱暴に掻く。

 少女たちの霊はどこにもおらず、アーネスト自身は夢を見たのだと割り切ることにした。

「ここはずいぶん寒いですね。外より寒いかも」

 口から白い靄を出しながら、Tは苦笑して暖炉のなかに勝手に薪を放りこむ。数分置いてから、部屋はほんのりと温かさを取り戻す。

「……わたしは一人で調べますので、お二人はどうぞお休みなってください」

 不思議そうにアーネストとリサが見つめていることに気がつき、Tはさわやかに言った。それと同時に深夜二時を伝える柱時計の音が遠慮がちに響き、リサは小さく飛び跳ねてアーネストのそばに駆け寄る。

「いや、オレの受けた仕事でもあるから、見学させてもらう。リサは部屋で休んでろ」

「いいえ、わたしも見たいです」

 アーネストは見張るつもりで言ったけれど、リサは純粋の興味から言ったらしく、ブラウンの目を光らせている。Tは無言で、けれど優しい笑みを浮かべてただ頷いた。

 彼は長い足でまっすぐ台所へ向かうと、躊躇することなく三人分の紅茶をすぐにつくり、ひとりひとり丁寧な動作でマグカップを手渡す。

「随分遅かったな。もう二時だぞ」

「わたしの出身地はすごく小さな……町でしたので、こんな大きな街にでるちどうしても道に迷ってしまいまして」

「アイルランドにそんな大きな町はそうないぞ」

 紅茶をのみながら、ゆっくりと三人は家のなかを歩きはじめる。大人三人の重さは古い家屋の床を軋ませ、会話の声以外にもたくさんの音が響いていた。

 アーネストの耳には、時折女の子が笑う声や小さな走る足音を耳にしている。階段にのぼりながら、二階の暗がりに駆けていく足がちらりと見えたため、リサとTを見やるが彼らには見えていないのか和やかに会話を交わしていた。

 やはりTにも力などないのか、それとも幻覚を見ているのか、アーネスト自身にもわからない。幼いころから度々目撃する『彼ら』が、現実かどうかを確認することは科学ではできなかった。

「これは……家族写真ですかね」

 階段の途中に飾られた二枚だけの写真に、Tは足を止めて目を細めた。アーネストは考えるのをやめてそちらを見やれば、エマが小さな男の子と手をつないでいる随分古い写真がある。

 もう一枚はその男の子が、海辺でただ一人突っ立っている写真だ。顔は不服そうで、

「ああ、奥さんだな。孫がいるとか言ってたしな」

 アーネストは胸ポケットから煙草を一本取りだし咥え、慣れた手つきで火をつけた。体内ニコチンが流れ込むと安堵を覚え、肺の底にまで煙を流し込む。

 しかし夜中に聞いた、なにかをひっかく音がまた聞こえてきたため、顔をしかめ携帯灰皿で煙草の火を押し消した。今度もリサとTの二人には聞こえていないと思っていたが、不意にTは一度鷹揚にまばたきしてから口を開く。

「なにか……したから音がしませんか?」

「そうですか? 所長はなにか聞こえますか?」

「いいや……なにも」

 アーネストは口を歪めて無理矢理笑みを浮かべると、Tは意外そうに目を丸くさせた。どこか子供っぽいその表情から視線を逸らし、真っ暗な窓の外を見やる。いつのまに雨が降り出したのか、ガラスはうっすらと濡れていた。寒さは強まり、家のなかだというのに三人の吐く息は白い靄になって浮かぶ。

「すこし見てきますね」

 途中までのぼった階段を下りはじめるその姿に、リサとアーネストは目を合わせてからついていくことにした。合成の仕事はもうほとんど終わらせていたけれど、インチキの名残りが見つかるのを恐れたのだ。

 カリカリという音がますます大きくなるのを、アーネストは眉間に深いしわを寄せて聞いていた。T、アーネスト、リサと縦に並んで廊下を歩いていたときだ、突然床が軋んだかと思うとアーネストは傷んでいたらしい板を踏み抜き真っ暗闇に落ちていく。

 心臓が縮みあがるような恐怖を一瞬覚えたのち、床に背中を打ちつけた痛みで頭のなかが真っ白になった。一拍おいてから激しく咳き込み、ようやく自分が地下室まで落ちたのだと理解する。

「わわ、所長~! 大丈夫ですか?」

「わたしが下におります。リサさんは地下室の入り口をさがしてください」

 頭上から聞こえる声に反応できずにいると、うえから脚立もなしに誰かが下りてきた気配がする。真っ暗で自分の指先も見えず、頭上にあいた穴が仄かに明るいだけだというのに、目の前の男はやはり輝かんばかりの明るい気配をまとっていた。

「アーネストさん、大丈夫ですか? どこかお怪我は?」

 朗々としたTの言葉に応えるまえに、胸ポケットからライターを取りだし火をつける。パッとまわりが明るくなり、目の前にある美しいオパールのような虹彩が幾重もの色を反射させた。

「大丈夫だ……怪我もない」

 背中はまだ軋むけれど、結構な高さから落ちたのに骨にも異常はなさそうだった。

 Tは安堵の色を浮かべてから、あたりを見回して電灯へと手をのばす。剥き出しになった電球が、目に痛いほど真っ白な光を放ったのでアーネストは思わず目を強く瞑った。

 次にまぶたを開いた瞬間、ずっと聞こえていたひっかく音が真横から聞こえ、全身が強張り汗が噴き出す。カリカリカリカリと、それはあきらかに人間の爪が床を執拗に走る音としか思えなかった。

 眼球をゆっくりと動かし隣を見やると、金髪の少女がひとりうずくまって床を掻いている。一心不乱に床だけを見つめている少女から視線を逸らしTを見やると、彼の視線も少女に向けられてからアーネストに移動し、柔らかな笑みを浮かべてみせた。

「アーネストさんの英語、クイーンインズグリッシュですね。なぜアイルランドに?」

 不意にふってきた話題があまりにも場違いで、目を大きくさせただけで何も返せず呆然とする。しかし彼は気にする様子も見せず、そのまま言葉を継いだ。

「イギリスにいられなくなった理由はおばあさまですか?」

 Tの台詞に言葉が喉もとにつまり、顔に血がのぼっていくのを感じる。

 先ほどみた夢のなかで、アーネストの手を握った祖母の姿を思い出す。むかし、イギリスの邪悪な魔女と呼ばれた優しい祖母の姿を。

「わたし個人の見解ですが、おばあさまは本物です」

 Tはおもむろに少女が床を掻いていた場所にしゃがみこみ、床をてのひらで数度撫でた。板が一枚浮いているのを見つけたらしく、Tはそれを外してなかに手を入れた。

 何も言えずにかたまっているアーネストの前に、古く黄ばんだ麻布に包まれた何かを引っ張りだす。

「……なぜ知ってるんだ」

 Tはその質問に答えることはせず、柔和な笑みを浮かべたまま包みを開いていく。真っ白な光は白々しいほどに明るく、時折ちかちかとまたたいた。

 布のなかから現れたのは、黄ばみがあるもののさほど古くないだろう頭蓋骨だ。

「本物か?」

「ええ、恐らく。この大きさは少女ではないですね」

 成人のものだろう大きさで、まるで時折磨いているかのように見える。禍々しさを感じないのは、人工物のように感じているからだろう。

「……最初、家にいる女の子たちはここで殺されたのかと思っていた。でもそれはあり得ない」

 アーネストはTも同じ子供たちを見ていたと知り、いままで考えていたことをようやく口にする。Tは輝くような目をまたたき、まっすぐにアーネストを見やると先を続けるように頷く。

「彼女たちの服装があってないんだ。ヨーロッパでの子ども服は時代によってかなり違う。オレが見た少女たちは、少なくとも生きていた時代に数百年の開きがある」

 服だけ見ればな、とつけ加えてアーネストは口を閉じた。

 子どもを子どもと捉えていたのは、十八世紀後半からのことで、その前は小さな大人だと思われていた。そのため服装も、動きやすさなど度外視して大人と同じ形のものを着せていた。十八世紀後期から、ようやくシュミーズのような子どものためのドレスが出てきている。

 先ほどアーネストが見た少女たちは、子ども服の歴史を見るかのようだった。

「お詳しいんですね」

 Tは目を輝かせて、弾むようにそう笑って言った。気味悪がるわけではなく、疑うふうもなくただ爽やかな笑みを浮かべる。

「……書き物もしてるからな」

「なるほど。と、すると彼女たちはいったいなんなのでしょうか」

 バチン、と頭上で音が響いたかと思うと、あたりは一気に真っ暗になった。電気が消えたのだと理解が追い付かず、アーネストは自分たちが闇のなかに落とされたのかとさえ思った。

 胸ポケットからジッポを取りだし火をつけると、オパールの目は右側を睨むかのように見つめている。アーネストもそちらに視線をやるが、ただ先の見えない闇ばかりがずっと続くだけだった。

「……階段を探しましょう」

 Tが落ちついた声色でそう言った直後、生温かい人間の息としか思えない風がアーネストの背後から吹きジッポの火まで消える。真っ暗な世界に一瞬で鼓動が速まり、頭の回転がうまくまわらない。

 ジッポをつけようと指を忙しなく動かしている間に、アーネストの背後では深い闇のなかで男とも女ともつかないものが声を殺して笑っている気配がした。どこからともなく、うっすらとした腐肉の臭いが淀んだ地下室に漂っている。

「アーネストさん、落ち着いて」

 不意に力強い手がアーネストの肩を摑み、そこから無駄に入っていた力が抜けおちていくのを感じる。今度は容易についた弱々しい光のなかで、彼はチカチカと燃えるような目を細めて笑った。

「悪魔は弱った人間を襲い、さらに弱らせたところにつけいるものなのです」

「悪魔……?」

 Tに促されるまま立ち上がると、小さな手がアーネストのジャケットの裾を摑み引っ張っている。小さな手は子どものもので、手首から先は真っ暗な闇のなかで見ることはできない。ぎょっとしたものの、嫌な気はせずに素直に引かれるまま歩く。

 Tを振りかえったものの、彼も闇のなかにおり見ることができないがついてくる足音は聞こえる。

 手が裾を離してそのまま闇に紛れるのと同時に、目の前にようやくうっすらと階段の数段が見えた。頼りない火を頼りに木で作られた、半分腐ってそうな階段に足をかけて駆けのぼっていく。

 ようやく握ったドアノブはまわったものの、扉は微塵も動かなかった。

 鍵がかかっている感じではなく、誰かが向こう側で押さえているかのようだ。

「リサ! 聞こえるか!」

 扉を叩いて声をかけたあとに、『もし本当に扉の向こうに何かがいたら』と思い至り言葉を飲み込む。激しく動いたせいだろうジッポの灯りは消え、あたりはまったくの闇のなかにもどっている。

「アーネストさん」

 軽く肩を叩かれ、男の気配がアーネストの背後から身を乗りだしドアノブの手をかける。

 パチン、と弾ける音が部屋になかに弾けたかと思うと、錆ついて軋んだ音が聞こえドアが開いたのか空気の流れを感じた。

 カビ臭さは残っていたいたものの、ずっと感じていた息苦しさが和らぐ。

 地下室の扉は物置に繋がっていたらしく、掃除道具が置かれた隙間から驚いているリサの顔が見えた。差し込む光はわずかだったものの、それでも闇のなかから生還したばかりで痛いほどに眩しい。

「それ……どうしたんですか?」

 愕然としたリサが指差したのは、Tの手のなかの頭蓋骨である。Tはまるでバスケットボールでも持つかのような気軽さで、リサにもよく見えるように掲げてみせた。

「地下室で見つけたんだ。キーティング夫妻に要連絡だな」

 首筋に手をあててため息を吐きだすと、リサは数度またたきしてから、申し訳なさそうに上目遣いでアーネストを見やる。

「あの……所長、ずっと『夫妻』だとか『エマ』だとか言ってるんですけど、依頼人はデイヴさんだけですよね? わたし、デイヴさんは独り身だと思っていました」

 アーネストの脳裏には、眉間に深いしわを寄せて疑り深そうにアーネストを見る老婦人の姿がよぎった。

 リサは書類もデイヴだけに手渡し、Tにもデイヴの名前だけを伝えている。

 見えていたのはアーネストだけで、そもそもリサにはエマの姿は見えていなかったのだ。もしかしたらデイヴ氏にもエマの姿は見えていなかったのかもしれない。

 リサは呼吸が止まって立ち竦むアーネストをと、不思議そうにアーネストを見やるTへと交互に視線をさまよわせた。

「なるほど、つまりアーネストさんは『誰か』をデイヴさんの近くに見ていたんですね」

 その場にいなかったはずのTが唯一納得した声をあげたのをきっかけに、アーネストは弾かれるように駆けだした。階段の途中に飾られていた写真を手にとり、躊躇なく額縁から外す。

 写真の右隅には、オレンジの文字で写真がとられた日付が印刷されている。


『18. 02. 1954』


「一九五四年……つまり『エマ』は母親か……――!」

 写真のなかではエマが子どものころのデイヴと手を繋ぎ、心底つまらなさそうな顔をしていた。白黒写真だがそれでも色は薄れ、服装も古臭い格好をしているとは思っていたが、まさか戦後から十年経っていないころの写真だとは思わなった。

 アーネストのうしろから写真を見やっていたTは、宝石に似た目を大きくさせてから場に似合わない柔らかな笑みを浮かべる。

「わたしは昔、天使を見たことがあるんです」

 はっきりとした声色と、まったく辻褄の合わない台詞にアーネストとリサは目を丸くして彼を見上げる。しかしTは、悠々とした口調で話を続けた。

「それは十四歳のころ、イタリアからスイスへと向かう列車のなかからでした。天使は草原のなかに立ち、優しい笑顔を浮かべていたのです。あれほど美しいものは、今まで一度も見たことありませんでした」

 緊迫していた場が、Tの言葉につられてゆっくりとほどけていくのを感じる。

「悪魔も、天使と変わらずうっとりとするほどの美しい姿をもっています。ただ……それは生の正反対、ものが朽ちて腐っていくような臭いがするのです。わたしが今回の調査の話を、友人であるアイルランドの神父から聞いたとき、その臭いがしてきたんです」

 デイヴさんにはお会いしていないんですけどね。と付けたし軽く笑った。

 アーネストは、先ほどジッポの火を消した吐息を思い出す。そのときに過った腐ったような臭いが鼻の奥に感じられた気がして、眉をひそめた。

「だから来たんです。でも家のなかにはいませんでした、地下室で感じた一瞬以外は」

「あの少女たちは?」

 いまも暗がりで、彼女たちが興味深げにことの成り行きを見つめているのは気配でわかる。Tは鷹揚に頷いてから、机のうえに置いていた聖書を手にとった。

「あの子たちは、恐らく無作為に呼ばれただけでしょう。すべてが終わったら、わたしが天の国にお送りします。天の国は小さき者たちのためにあるのですから」

 階上に顔を向けた彼の言葉に、少女たちは一様に目を輝かせてTを見つめている。




続きは明日以降にあげます

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