ヴァチカン生まれのTさんは

川魚鮎子

01 汝、隣人を愛せよ

 一九九二年五月、いつもとまったく変わらない美しい夜のことだった。

 イタリアのなかにある、世界最小の国土をもつ宗教国家、ヴァチカン市国の夜だ。人口は数百人程度で、職員も大抵がヴァチカン市国外から通いできている。

 観光客がいなくなれば荘厳な宗教国家に戻り、あたりは静まりかえっているはずだった。

 一人も立ち入っていないはずのサン・ピエトロ大聖堂から音がすると、修道士のあいだでさざ波のように騒ぎが起こり、スイス衛兵の青年が数人で無人で真っ暗な教会に入っていった。

 石造りで空気は初夏と思えないほど冷えているなか、最初衛兵たちは仔猫の怯えた鳴き声かと思った。どこからかまぎれこんだのだろうと笑みを交わしあったが、その声がじょじょに大きくなり、天井の高い教会に幾重にも響いて聞こえはじめ、やがて彼らの顔から笑みが消える。

 巨大なステンドグラスから差し込む月光は、無数と思えるほどの色を交えて『彼』を照らし讃えていた。

 白い大理石で彫られたマリア像の、その腕のなかでまだへその緒をつけたままの赤子が泣いていた。小さな手は天につき出され、頭髪は羊水で濡れている。

 立ち竦むスイス衛兵たちのまえで、『彼』は何も纏うことなくただ泣き続けていた。



ヴァチカン生まれのTさんは



 二〇一九年二月、アイルランド西部に位置する港町ゴールウェイ。

 昨晩雪が降ったものの今日は比較的に暖かく、海から吹く風もさほど強くない。

「はじめまして、本日はお呼びいただきありがとうございます」

 アーネストは胸ポケットから名刺を一枚取りだし、丁寧な仕草で依頼人の老夫婦に差しだす。しかしポケットに直で入れていたため、四つの角はすべて折れてしまっており、丸味が帯びている。

「『パラノーマル・リサーチ社』のアーネスト……さん、ですか」

 年老いた主人は、夕方になり白いヒゲがわずかに生えてきている顎をぞろりと撫でた。自分で呼んだくせに、彼は加齢により濁った目玉で疑わしそうにアーネストを見やる。

 彼の妻もまた、眉間のしわを更に深くして訝しそうにアーネストを見つめていた。上半身は痩せているが、彼女の腹は太く洋なしのような体型をしている。顔がよく似た夫婦だな、とアーネストは深い疑念を持っている彼らを見返し、ただ柔らかな笑みを浮かべた。

「我々パラノーマル・リサーチ社が科学の力によって心霊現象の調査を行い、必ずや原因を取り除いてみせますので」

 白々しいほどに明るい声でそう言うものの、不健康に痩せた三十代前半の男が『超常現象研究家』を名乗れば、疑わしいこともあるだろう。肩口ほどのぼさぼさの金髪をうしろに一つでくくり、無精ひげが生えてTシャツとジーンズのおそろしくラフな姿だ。


『パラノーマル・リサーチ社 ダブリン支社

  超常現象研究家  アーネスト・ホワイト』


 名刺に目線を落としている彼らをよそに、アーネストは尻ポケットから小型の手帳を取りだし、今回の依頼について確認する。

 ゴールウェイの中心部からすこし外れた場所にある依頼人の家は、むかしイギリスの貴族が別荘地として使用していたものだ。二人で住むにはすこし大きいが、彼らには子供が三人おり、夏になると孫を連れて戻ってくるので手放せないのだそうだ。

 二階建てで部屋は全部で十数部屋、さらに地下があるもののまえの住人たちの物置となっており、依頼人……旦那のデイヴ・キーティングと妻のエマも何があるか把握しきれていないのだという。

 依頼を受けてからすぐにアーネストたちも家について調べたが、第二次世界大戦まえまでは建てた貴族の一族が所持していたこと以外はあまり詳しくわからなかった。戦後、国からの課税に耐えきれずに泣く泣く家を手放したのだろう。

「それではこちらが契約書になります」

 うしろで控えていたパラノーマル・リサーチ社事務員のリサが、テーブルを挟んで座るデイヴのまえに書類を置いた。

「前払いですか……」

「機材のレンタルなどもございますから」

 胡散臭そうに見やるデイヴに笑みを送り、アーネストはボールペンを差しだす。

 不服そうに、それでもサインを書くのは金に余裕があるからなのか、それとも本当に切羽詰まっているからなのか……。

「ありがとうございます。ではこれから一晩、我々だけ残りますので。見取り図に幽霊が出た場所へのチェックしていただけますか?」

 デイヴは眉間にしわを寄せながら、チェックと見た幽霊の詳細を記入していく。太陽はゆるゆると下がりはじめ、夫妻が家を出る頃には薄暗くなっていた。

「……実は夜にもう一人呼んでいます」

 玄関口に立ったデイヴが、言いにくそうにそう口にした。アーネストは目を丸くし、うしろで機材の準備をしていたリサと目を合わせる。

「もう一人? 調査のためですか?」

「ええ、神父さまに。エクソシストの」

「エクソシスト? 悪魔払いではなく、悪霊なのでは?」

 思わずアーネストは眉根を寄せ苦笑すると、彼らは夫婦で目を合わせて申し訳なさそうに眉尻を下げた。しかし、結局「念のためですから」としか言わず、家をあとにして都心のホテルへと向かう。

 一晩、アーネストとリサは泊まりこんで調査を行い、明日の夕方に戻ってきた夫妻に結果を報告する。彼らなりのやり方を行うため、そこに部外者がいては面倒が多くかなり厄介だった。

「エクソシストって……あのエクソシストですかね」

 日本人と英国人のダブルだというリサは、その整った眉をわずかに歪める。いい大学を卒業したくせに、なぜかパラノーマル・リサーチ社のダブリン支社(支社と名乗っているがダブリンにしかないため、本当は本社なのだが)に入社して数年。

 リサの見た目は現代っ子らしく、とてもじゃないが心霊調査をしているとは思えない。

「あの有名な映画のな。エクソシストはギリシャ語で『厳命』って意味で、悪魔にとりつかれた人間から悪魔を祓うことをいうんだ。カトリックだったら資格が必要だろうし、そういった奴は易々と依頼に応えたりしないだろうな。悪魔払いをすること自体、ヴァチカンに申請しなきゃならない。十中八九同業者だ」

「なぁんだ、ちょっと見たかったなぁ。結局インチキかぁ」

 リサは栗色のポニーテールを揺らして、深い溜息を吐き出す。本当に残念そうな声色とその発言内容に、アーネストは機材を用意する手をとめて彼女を振り返る。

「オレ達はインチキじゃねぇよ。お客様の心に寄り添ってるだけだ。幽霊なんているわけねぇだろ」

 アーネストの言葉にリサは適当に肩を竦め、カメラの準備を続けた。むかしからアーネストが「幽霊なんていない」と言う度に、リサはすこし寂しそうな表情を浮かべるのだ。

 心霊現象の原因は、もちろん幽霊なんかではない。というのがアーネストの見解だ。

 一番多いのが『勘違い』。何かの影が人に見えただとか、仔猫の鳴き声がいもしない赤ん坊の叫びに聞こえただとか。あとは壁奥に配置されたパイプの空気音だとか、湿気が多い部屋は壁紙の裏でカビが発生して人々の健康被害を起こさせたり。

 怪異などは、大抵そんな原因で起こっている。

 それ以外で起こることも時折あり、その場合は解決したように見せなければならない。やり方はお祓いもどきや動画の編集、リサの母親の故郷である異国の御札を貼ってみたりすれば、大抵の客は勝手に安心してくれる。

 夫妻はアイルランドの多くの国民と同じくカトリックとあったので、清めるふりと幽霊が消える瞬間の映像を作れば納得してくれるだろう。そうアーネストが思っていたところに、リサの戸惑いがちな声がかけられた。

「所長、これ、確認しましたか……?」

 いつも元気のいいリサが、めずらしく眉根を寄せて怖々とした様子でアーネストに紙の束を差しだす。それは夫妻に書いてもらった幽霊の出現場所のチェックシートだった。

 アーネストはチェックシートに目をやり、絶句した。それと同時に、首筋にぞわりと冷たいものが走る。

 見取り図には赤色のペンで真っ赤になるほどチェックが書き込まれ、そのほとんどの横には「girl」と書かれている。姿を確認したのが六割ほど、残りは『笑い声』や『悲鳴』、『意味のわからない言葉』などを聞いたようだ。

「……こりゃあ、面倒くさいな」

 無理に笑うとリサは肩を竦めてから、「ですね」と同調して無理矢理に笑った。

 とりあえず一階のリビング近くにある台所へと二人で向かい、紅茶をつくりながら調査を行うことにする。食品は高価なもの以外なら口にしていいとのことで、リサは嬉しそうに冷蔵庫をのぞいていた。

「ここにいたのも『girl』か……」

 どんな年格好なのかもなく、ただひと言『girl』と書かれている。聞いた声については結構詳しく書いてあるものの、見た物はどの姿も違っていてわからないという言葉だけが下に書かれていた。

「こんなに散漫としてるのははじめてですね」

「そうだな。何かしら理由があるとは思うんだが」

 ぼさぼさの金髪を掻き、アーネストは唸るようにつぶやいた。リサには無精髭が汚らしいと散々言われたけれど、アーネスト自身はセクシーだと思っているので剃る気はない。

「もうすぐ夜がきちゃう」

 リサは紅茶が入ったマグカップを手に、とりあえず台所にカメラをひとつ設置した。リビングにもカメラをひとつと熱感知センサー、それから夫妻の寝室と、ひんぱんに『girl』たちが目撃される子供部屋にも設置している。

 幽霊に果たして熱があるのかはわからないが、幽霊に怯えている人間はなにかと科学に頼りたがる。理解できないものと向きあい続けることができずに、逃げ出してしまいたくなるのだろう。

「女の子の動画ってあるよな?」

「ええ、半透明化して合成するなら簡単にできますよ」

 リサの回答に満足し、アーネストはポケットからアンティークな香水瓶のような小瓶を取りだし、硝子製のキャップを外した。

「聖水ですか?」

「そ、俺んちの聖なる水道から出た水だ」

 リサは苦笑しながらも、アーネストのそばから離れる。アーネストが聖水を撒く映像に、半透明な少女が消えていく映像を合成すれば完成だ。

「でも人数が多すぎますよね。全部聖水で済ませるわけにはいかないし……」

「少女は全部で三人だったってーのは?」

「それは無理ありません?」

 アーネストとリサは軽口をたたきながら、着々と新しい映像や音声をとっていった。

 アーネストが聖書を読むと子供の悲鳴が交じる音声、勝手にワードローブの扉が開き子供が逃げ込んだふうの映像、合成前のそれらをとり終えたときにはすっかり日は暮れていた。

 最初から寒いとは思っていたけれど、日が落ちてからますます寒さが増している。アーネストとリサは何度も手を擦りながら、どうにか作業を続けていた。

「そういえば所長、ヴァチカン生まれのTさんって、ご存知ですか?」

「ヴァチカン生まれ? 産気づいた妊婦の観光客が産んだのか?」

 ヴァチカンの住人はほとんどが聖職者で、カトリックの神父や修道女は結婚できない。ヴァチカンの出生率なんて聞いたこともない。

「それが違うんですよ。ある日の夜中、急に赤子が教会にあらわれたんですって。だから無原罪だ~なんて言われてるんですけど、国家機密なんだとか」

「なんで国家機密をリサが知ってんだよ」

 ツッコミどころが多すぎる情報に、アーネストは苦笑しながらもマイクの設定を終わらせた。リサは数度またたいてから、無邪気に笑ってカメラを設置する。


 夕食にピザをとって食べながら、二人がかりで合成作業を行う。夫妻が戻ってくるのは夕方との約束だが、できるだけ基本はつくりあげて深夜にようやく仮眠をとることにした。

 アーネストは居間のソファ、リサは二階の寝室へとひっこんだ。

 アーネストはなかなか寝つけず、しばらくとろとろと夢うつつの状態でたゆたっていたとき、不意に誰かが軽い足音をたて駆けて来てアーネストの顔を覗きこむ気配がした。その呼吸さえ感じて、アーネストは全身が強張るのを感じる。

「ああ、アー二―! お前はこんなところにいたのね」

「……グランマ」

 祖母は生前と変わらない顔つきで、安堵の表情を浮かべてからあたりを窺う。頭ははっきりしており、そこが依頼先の家の居間であることもわかっていたが、祖母のすべてがあまりにリアルで混乱する。

 痩せぎすの体に、しわは多いがしみはない肌、軽くカールした髪は真っ白ながら歳に反してふさふさとしていた。

「何度も言ったじゃない、こんなところにきちゃダメなの」

 どうしても祖母の仕事場に行ってみたくて、何度となく忍びこんではこうやって叱られていた。同級生は祖母のことを『魔女』だと言うけれど、アーネストにとっては優しい祖母である。

 けれど、結局彼女は……。

 祖母は用心深い目つきで、薄暗い居間を見回した。古くて擦れたカーペット、綿がほとんど潰れたソファ、前時代的な模様のカーテンや花器が息を潜めて存在している。まるで映画のなかで観るヴィクトリア朝のようだ。

 夜の幕は厚く、すべてが静まり返りよそよそしい。その静寂のなか、どこからともなくカリカリとなにかをひっかくような音が不気味に響いてくる。

「いい、アーニー。隣人を愛しなさい。あなたのことを守ってくれるのだから」

 ソファの外に投げ出されたアーネストの手を、しわだらけの祖母の手が摑んだ。生前の口癖だった言葉を最後に、煙のように祖母の姿はかき消え、今度こそゆったりと意識は浮上していく。

 目を覚ましたアーネストは、数秒まどろんだのち、血の気が一気にひいていく感覚を覚えた。先ほど夢のなかで祖母が握っていた手に、冷たく細い指が絡んでいることに気がついたのだ。

 アーネストが覚醒したことがわかったのだろう、その指に力がこもり優しく握られる。

 全身が強張り体中冷たくなりながら顔をあげれば、ソファのまわりに十数個の白いものが浮かんでいた。それが全部、無表情で自分を見つめる女の子たちの顔だとわかるまで時間はかからない。

 カリカリと、どこからともなく夢のなかで聞いた音が響いてくるのを、十数人の少女たちに見つめられながら聞いていた。

 服装はワンピース姿や中世貴族のような格好、エプロン姿など多岐にわたるものの、全員十二歳以下程度の幼さで、金髪で蒼い目だということは一致している。全員が何も言わず、けれど何か言いたげにアーネストを一心に見つめていた。

 指先も動かすことができず、アーネストは全身がじょじょに冷たくなっていくのを感じていた。


 ジリリリリリリリリリリ!


 不意に玄関ベルが激しく鳴りはじめ、少女たちは一様に目線を玄関の方角にやった。アーネストがまばたきする間に彼女たちは姿を消し、あとに残ったのは冷ややかな空気だけである。

 自身の心臓が高速で動いているのをぼんやり聞いていると、ふたたび玄関ベルがうるさいほどに鳴りはじめた。

 恐ろしさと、助かったという安堵をおぼえながら立ち上がると足が震えており、思わず苦笑を浮かべた。その震える足でどうにか玄関に向かい、チェーンをかけたまま鍵を開ける。ドアの隙間から、黒の奥底にあるような夜のなかでもわずかに輝くような、若く美しい男がアーネストをのぞきこんで人懐っこい笑みを浮かべた。

 彫りの深い顔貌、黒くすこしウェーブのかかった髪にブラウンの目。服装は黒一色の立襟で裾の広い、シンプルでワンピースのようなキャソックと呼ばれる神父の服と、そのうえから羽織る白いサープリス、そして首にかける長い紫色の布のストラだ。

 それらはすべて、カトリック教のエクソシストたちがエクソシスムを行うときに着る、伝統的な服装である。

「はじめまして、遅くなってしまい申し訳ありません。わたくし、エクソシスムを専門に行います、神父のTと申します」







続きは今日中にあげます。

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