最後の慈悲
@dokkanodareka00
Act one
第1話 幕開け
事件現場では十名程の男達が捜査を行っていた。そこは広さ8畳の部屋で、床は古びたフローリング、壁は今にも崩れそうな土壁で成り立っており、中にある家具もほとんどが年季の入った物だった。
午前8時40分、部屋に一人の男がやって来た。男は身長180cmと長身で、肩幅は平均並みだがガタイはがっしりとしていた。男の顎には無精ひげが生えており、それがいかつい顔を一層際立てていた。服は濃いグレーのスーツを着ていた。
彼が部屋に入ると、先に部屋にいた男の一人が挨拶をした。
「おはようございます、浜崎警部」
「ああ、おはよう」
浜崎は部屋を見回した。今挨拶をした若い男を除いて、この部屋には青い服装の男達―――つまり鑑識課しかいないようだった。鑑識は現在進行形で犯人の痕跡をさぐっていたが、若い男はただ突っ立っているだけだった。
浜崎は若い男に目をやる。
若い男は身長170cm後半のスラッとした体形で、見たところ年齢は20代前半のようだった。優男風の堀の浅い顔に灰色のジャケットがよく似合っていた。
浜崎は若い男に尋ねた。
「奥松署から派遣された刑事って言うのはお前か?」
「はい。この度警部と共に捜査をすることになりました、中村良太です。」
浜崎は中村をじっと見た。彼は部長から所轄の天才刑事がサポートにつくと言われていた。しかし中村を見る限りそれが本当かどうか怪しいものだった。浜崎の目には中村は生まれたてのヒヨコのように見えた。
浜崎は心の中でため息をつくと、中村に言った。
「わかった、よろしく頼む。…ああそうだ。部長から事件の概要はお前から聞くよう言われている。現在分かっている情報を教えてくれ」
「わかりました」
そう言うと中村は手帳を取り出し、概要を話し始めた。
それによると被害者は佐藤信行72歳。佐藤は昨晩自室のDボックスで寝たまま窒息死してしまったようで、これは窒息死特有の死斑の強さによって裏付けられている。死後硬直の状態から見て死亡推定時刻は午前2時。
死体の第一発見者は佐藤の娘で、朝食を食べに来ない父親を呼びに行ったところ死体を発見したという事だった。
「それは娘さんが気の毒だな」
そう言いながら浜崎は『俺も気の毒な奴だがな』と心の中で呟いた。
Dボックスを製造しているブラックラック社は警察上層部と癒着があるため、Dボックス関連の事件には迅速な処理が求められた。そのため伝説の刑事と名高い浜崎は非番であるにもかかわらず出動を命じられたのだった。
その時、浜崎の頭にふと疑問が浮かんだ。
「この事件は他殺なのか?今の話を聞く限り自殺としか思えないんだが」
「その点については他殺とみて間違いないです。窒息死はDボックス内蔵の換気装置が切除されていたことが原因なのですが、切除により生まれた穴を塞ぐように犯人からのメッセージが張られていました」
「見せてくれ」
すると中村は申し訳なさそうな顔をした。
「ここにはありません。僕が来た時には既に鑑識に回されていました。メッセージを回収した鑑識は今ここに居ないらしく、お伝えしようにも僕もメッセージの内容を知らない状態です」
「そうか…」
浜崎は落胆した。おそらく事件解決を急ぐあまり捜査員に見せる前に鑑識へ送ってしまったのだろう。
その時、二人の後ろで声がした。
「もしもし」
浜崎と中村は後ろを向いた。するとそこには老年の男が立っていた。男は身長170cm前後で、しわの多い顔と白髪の混じった髪、そして骨と皮しかなさそうな痩せこけた見た目が特徴的だった。男は青い服装をしており、二人は一目で彼が鑑識課の者だと分かった。
浜崎は男を見て驚いた。
「
辻はニカッと笑顔を見せた。
「君も元気そうだな。会うのはギロチン事件以来かな?」
その言葉に浜崎は顔を曇らせた。
「辻さん、その話は…」
「おっと失敬、君にあの事件の話はタブーだったな。まあ、これをやるから許してくれ」
そう言うと辻は胸ポケットから一枚の写真を取り出した。
「これが君らの話していた犯人のメッセージだ。実物はついさっき分析に回して来たばかりだから写真で我慢してくれ」
「十分だ、ありがとう辻さん」
浜崎は写真を受け取った。彼は中村と共に写真を凝視した。犯人のメッセージは段ボールに新聞の文字の切り抜きをはって作られていた。メッセージは『殺人事件』と読めた。中村は首をかしげた。
「どういう意味でしょう」
その言葉は場に沈黙と思考を生み出した。3人は考えを巡らせていたが、15秒後、浜崎が沈黙を破った。
「中村、一つ教えてくれ。ガイシャは生命保険に入っていたか?」
「ええ、娘さんの話によると千二百万円の生命保険に入っていました」
「そうか。そうなれば、少し捜査の方針を変える必要があるな」
すると中村が言った。
「警部はこの事件を他殺に見せかけた自殺だと考えているんじゃないですか?その場合、このメッセージもガイシャ(被害者)が自殺を殺人に見せかけるために用いたトリックだと考えれば説明がつきます」
浜崎は驚いた。
「よくわかったな」
「生命保険を下ろすために自殺を他殺に見せかけるのは刑事ドラマでよく目にしますから」
中村はとても得意気だった。浜崎は中村の知識が刑事ドラマに根ざしていることに少なからぬ危機感を抱き、そんな人物が天才刑事と呼ばれる警察の現状に多大なる危機感を抱いた。
それはさておいて、浜崎は辻に尋ねた。
「現場に残っていた犯人の痕跡を教えてくれ」
辻は頭をかき、大した情報は無いと断りを入れて話し始めた。
その話によると犯人の指紋は全て拭きとられており、拭き取った跡があったのは玄関のドアノブとこの部屋のドアノブ、そしてDボックス周辺だけだったらしい。拭き取りに使われたのは市販のティッシュだったため、そこから犯人を突き止めるのは不可能に近かった。
拭き取った跡以外の犯人の痕跡は先ほど見せた犯人からのメッセージだけだ、と辻は最後に付け加えた。
浜崎は顎に手をやった。
「相当少ないな」
辻はため息をついた。
「科学捜査が大衆に知れ渡りすぎたせいだ。今じゃ脳味噌を少し使えば証拠を残さず犯罪をするなんて造作もないだろうよ」
「確かにそうだな」
刑事ドラマや推理小説が警察の科学捜査を盛んに書きたてるせいで、指紋照合やDNA鑑定などは一般常識と呼ばれてもおかしくないほど知られてしまった。それは警察にとって迷惑な話だった。
「それじゃ、そろそろ失礼しようかね。他にも調べなけりゃならない場所があるんだ」
辻はそう言って中村と浜崎に軽くお辞儀をすると、二人に背を向けた。そして彼は部屋を出ようとしたが、部屋から出るすんでのところで「あ」と言って二人の方を振り返った。
「そうだ、一つ言い忘れていたことがあった」
「いい忘れていた事?」と中村。
辻は頷く。
「ドアノブには犯人が指紋を拭き取った後に被害者の指紋が付いていた。つまり犯人が換気装置を外した後に被害者はドアを使ったことになる。犯人が細工したのは被害者が寝る前だ」
「辻さん、貴重な情報ありがとう」と浜崎。
「いやいや、礼には及ばないよ。そっちも頑張れよ!」
そう言うと辻は部屋を後にした。
辻が部屋を去ったあと、二人はDボックスに視線を向けた。
中村は浜崎に尋ねた。
「警部、一つお願いがあります」
「なんだ?」
「Dボックスの使い方を教えてもらえませんか」
浜崎はあっけにとられた。このご時世にDボックスの使い方を知らないのはスマートフォンの使い方を知らないのと同じぐらい不思議なことだった。
「…本気か?」
「はい、両親が『Dボックスは麻薬だ、あんな物を使ってはならん』としきりに言っていたもので」
「まあ、間違ってはいないな」
そう言うと浜崎はDボックスの前にかがみこみ、説明を始めた。
Dボックスは鋼鉄製の直方体の箱で、高さは50cm、底面は一畳分、箱の厚さは3cmある。表面の色は黒、白、グレーが一般的で、ボックスの上面が蓋になっており、それを外すことで中に入って眠ることができる。鋼鉄の棺桶を想像してもらえれば分かりやすいだろう。
Dボックス内で寝る際にはボックスの横に取り付けられている制御箱と呼ばれる薄い箱の表面にあるタブレットを操作し、そこでテーマを設定する。そうしてDボックス内で寝れば特殊な電波がボックス内を満たし、自分が選んだテーマの夢を見ることのできる仕組みになっている。
今回犯人が切除した換気装置も制御箱に内蔵されており、装置は使用者がDボックス内で窒息しないよう換気を行うための物だ。
浜崎の説明が終わると、中村は彼に感謝した。
「なるほど…そうですか。教えていただきありがとうございます」
中村は近くにいた鑑識からドライバーを借りた。
浜崎は尋ねた。
「おい、何をする気だ」
「換気装置の切除跡を見ようと思っただけです」
そう言うと中村は制御箱の傍にしゃがんだ。彼はドライバーで制御箱の側面のネジを全て取り外し、側面の板を外した。すると箱の中があらわになり、そこには多くの回線と電子部品が張り巡らされていた。そんな中に1つぽっかりと穴が開いていた。これが換気装置を切除した後なのだろう。
中村はしばらく穴を眺めた後、その場を離れた。浜崎は興味をそそられ、しゃがんで穴を観察した。穴の所々に工具で切られたとおぼしき導線や金属の突起があった。上から見るとそれらの切断面は全て左下から右上に向けてできていた。
中村は疑問を示した。
「奇妙な切断面ですね。一体なぜこんな形になったのでしょうか」
浜崎は穴を観察しながら返答した。
「犯人は切除にニッパーを使ったんだろう。あれは刃の部分が斜めになっているから切断面も斜めになるわけだ」
中村は感心したようにうなずいた。浜崎は心の中で『ニッパーの知識は刑事ドラマでは知れないだろう』とほくそ笑んだ。
浜崎はその場で立ち上がると、背伸びをした。
「さて、この部屋を調べるとしようか」
中村は異議を唱えた。
「ここは鑑識に任せて地取り(聞き込み)をした方がいいと思われますが」
浜崎は否定する。
「いや、地取りの前にはっきりさせておきたいことがある」
「"はっきりさせたいこと"とは?」
「この事件が自殺か他殺か、だ。」
その言葉に中村は同意した。
「確かにそれははっきりさせておきたいですね。わかりました、調べましょう」
「ありがとう。よし、じゃあ5分ほど別々に調べて回ろう」
そして二人は部屋を調べ始めた。
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