第36話

 恐ろしい勢いで突っ込んでくるシグに対し、圭介は自分から前進した。

 もちろん、正面から殴り合うつもりはない。

 途中で円を描くように動き、シグの側面へ回り込んだのである。

 間を置かず、右拳を左脇腹へ叩き込もうとした瞬間。

 強烈な打撃音が周囲に響き渡り、空気が震えた。

 シグが一瞬で左腕を上げ、甲の部分で受け止めたからだ。

 巨体とは裏腹に、反応が極めて速い。


「悪くないパンチだ」


 言って、シグは右腕を振り回した。

 凄まじい速さで空間に弧を描き、風切り音と共に圭介の側頭部へと迫る。


「!」


 焦りの表情を浮かべながらも、素早く後退して何とか回避する圭介。

 直後。

 見えない衝撃が、彼に襲いかかった。


(風圧……!?)


 シグが右腕を振り回した際の風圧だ。

 それを浴びて圭介は踏みとどまれず、靴裏で床を滑りながら十メートル以上も後退してしまう。

 止まると同時に彼は素早く構え直したが、胸部に痛みを感じ、少し表情を歪めた。


(胸骨が何本か折れたか……あるいは亀裂が入ったかもしれないな)


 風圧だけで、この有様。

 直撃を受ければ確実に終わりである。


(分かっていたことだが強い……今まで戦ってきた魔獣の中でも最強だ……!)


 おまけに体格差が圧倒的。

 手足の長さと太さも大きく違い、シグの方が遥かに間合いが広いのだ。

 加えて反応も速いため、かなり不利と言えよう。

 圭介が冷静に考えていると、シグは右手の指を鳴らしながら口を開いた。


「今のパンチは中々だった。動体視力と反応速度も悪くない。今のお前は間違いなくザジよりも強いぞ」


 シグの称賛に、言葉を返す余裕もない。

 どれほど小さな隙であろうと、この強豪が相手では命取りとなる。

 圭介は全神経を研ぎ澄ませ、必死に考えた。


(対抗手段が……ないわけじゃない)


 二メートル以上ある筋肉質の巨体と、長く太い手足は確かに脅威だが、懐へ飛び込めれば問題なくなる。

 理由は簡単。

 長すぎる手足は、超至近距離にいる相手との攻防に不向きだからだ。


(懐に飛び込めれば……勝機はある……!)


 心の中で決意した直後。

 圭介は十メートル以上の距離を瞬時に詰め、右拳で殴りかかった。

 前進の勢いと体重を乗せた強烈な一撃が、正確にシグへと襲いかかる。

 直後に、再び打撃音が鳴り響いた。

 シグが左手を素早く突き出し、掌で軽々と受け止めたのだ。


「中々ではあるが……私には通じんぞ」

「どうかな……!」


 言い返しながら右拳を引き戻すと、圭介は次々にパンチを繰り出した。


「はぁぁぁっ!」


 五十分の一秒間隔で繰り出される超高速連撃。

 ザジと戦った頃とは、比較にならないほどの圧倒的手数だ。

 立て続けに打撃音が周囲へ響き渡るが、それは圭介がシグの巨体を殴っているからではない。

 

「通じんと言ったはずだ」


 シグが片手を素早く縦横無尽に動かし、掌で連撃を受け止め続けているのだ。

 恐ろしいまでの技量。

 圭介のパンチは一発たりとも、シグの防御を突破できていない。

 

(くっ……!)


 心の中で呻きながらも圭介は怯まない。

 連撃を中断して素早く走り、シグの左側面へ回り込もうとする。

 だが、次の瞬間。


「遅い」


 言いつつ、シグは右腕を大きく振り回した。

 半ば反射的に後退することで、何とか直撃だけは避けたが、風圧をまともに浴びてしまう。

 十メートル以上も吹っ飛ばされ、床に打ちつけられる圭介。

 左膝に激痛が走り、思わず表情を歪めた。

 骨に亀裂が入ったようだが、今そんなことを気にしている暇はない。

 間髪を入れず、シグが駆け寄ってきたからだ。


「!?」


 圭介が慌てて横転し、その場から動いた直後。

 ほんの一瞬前まで彼がいた場所に、シグの右拳が超高速で叩き込まれた。

 響き渡る、爆発のような轟音。

 破片と風圧が圭介を打ち、猛烈な勢いで吹っ飛ばし、遥か後方の床へ叩きつけた。


「うぅぁっ……!」


 圭介は呻き声を上げ、床の上を転がった。

 腹部と左足に破片がめり込んで出血し、全身に痺れが走っている。

 それでも圭介は近くの柱に寄りかかりながら、何とか立ち上がって構えた。

 ダメージは大きく、特に左足の怪我は深刻。

 膝の骨へ亀裂が入ったことに加え、破片が深々と突き刺さり、出血量も多い。

 片足がこんな有様では、満足に動けないだろう。


「ぐぉっ……!」


 激痛に耐え、シグに向かって前進するが、歩みは極めて遅い。

 やはり片足を引きずったままでは、素早い動きなど無理がある。

 そんな隙だらけの状態をシグが見逃してくれるはずもなく、凄まじいまでの勢いで殴りかかってきた。

 何とか右足だけで跳躍しようとするが、間に合わない。

 シグの左拳は圭介の脇腹にめり込み、凄まじい打撃音を周囲に響かせた。

 苛烈な衝撃が筋肉を突き抜け、肋骨を粉砕し、内臓を激しく圧迫する。


「がはっ……!」


 圭介は激しく吐血し、五十メートル以上も吹っ飛んだ。

 床へ落ちて転がり、止まると同時に片手を伸ばし、近くの柱をつかむ。


「はぁ……はぁ……!」


 全身が痺れ、脇腹と左足に激痛を感じ、大きく肩で呼吸しながらも柱を支えに立ち上がった。


(今のは……死ぬかと思った……!)


 咄嗟に跳躍で回避しようとしていたため、何とか直撃を避けることができ、致命傷には至らなかった。

 それでもあの凄まじいパンチを受けたのだから、無事で済むはずがないのは明白。

 脇腹に走る激痛は尋常なものではなく、粉砕された肋骨の破片が内臓に刺さりかけているかもしれない。 

 加えて、左足の傷口から流れ出る鮮血の量が増え、ズボンの半分が赤く染まった。

 ダメージは甚大だが、圭介は諦めることなく拳を構えて前進する。


「……」


 シグは動かない。

 何も言わずに圭介の姿を見据えるだけで、攻撃してこないのだ。


(どういうつもりだ……?)


 疑問を覚えつつも、前進を続ける。

 傷口から鮮血が流れ、衣服を伝わって次々と床にこぼれ落ちていく。

 痛みは激しさを増すばかりだが、圭介は歩みを止めない。

 やがて、シグとの距離が十メートル前後まで縮まった直後。


「本当に大した奴だな」


 感心するような表情で、シグは呟いた。


「私のパンチを受けて死ななかっただけでも驚きだが……そんな状態でまだ戦うつもりか?」


 シグが動かなかったのは、驚いていたが故らしい。

 彼の言葉を聞くと、圭介は即座に答えた。


「当然だ…まだ俺は……強さを示していない……!」


 圭介の攻撃は何一つシグに通じず、一方的に押されているだけだ。

 かすり傷を負わせることさえ、できていない。


「お前を倒せるだけの強さが、志を貫き通せる強さがあるということを、俺は示さなきゃいけない……!」

「……」

「シグ……俺はお前を超えてみせる……!」


 宣言した直後に、よろめいてしまう。

 出血が酷いせいで、体力が急速に失われつつあるからだ。

 倒れてしまいそうだが、何とか踏みとどまった。


「見事だ。お前は尊敬に値する」


 呟き、右手で拳を作るシグ。


「手は抜かん。最後まで全力で戦う」


 言うなり、彼は歩み寄ってきた。

 そして圭介の数十センチ前方で足を止め、拳を構える。


「行くぞ、御堂圭介……!」

「来い、シグ……!」


 そう叫んで、圭介は構え直した。

 志を貫き通す強さがあることを示すための決闘。


(絶対に……負けられない……!)


 ようやく戦争を終わらせられるかもしれないのだ。

 しかも、人間と魔獣のどちらかが滅んだ結果ではない。

 和睦という形でだ。


(南雲教官……藤堂教官……雪彦)


 圭介の考え方に理解を示してくれた者達。


(茜……!)


 最後に、大切な相棒の姿を思い浮かべ、闘志を燃やした。


(俺は残された力の全てを出し尽くして……シグに勝つ……!)


 勝算がまったくないわけでは、ない。


(勝つ方法は一応ある……成功するかどうかは別だが、やらねばならない……!)


 心の中で決意した瞬間。

 シグが雄叫びを上げ、殴りかかってきた。

 同時に左拳でパンチを繰り出す圭介。

 両者の腕が、空間に神速で直線と弧を描いた直後。


「ぁぁっ……!」


 凄絶な打撃音と共にシグの呻き声が、響き渡った。

 右手首が見事に折れ曲がり、骨が皮膚を突き破って飛び出し、傷口から鮮血が流れている。

 圭介が狙ったのは、拳でもなければ胴体でもなかった。

 正面からパンチを放ってもシグの防御は突破できず、懐にも飛び込めない。

 ならば、どうするべきか。

 鉄壁の防御を支える部分、すなわち両腕のどちらかを使えなくすればいい。

 だが普通にパンチを繰り出しても通じないため、シグが攻撃してきたと同時に殴りつけ、カウンターの形で手首を破壊したのである。

 しかし成功したのは運の要素も大きい。

 シグがパンチではなく蹴りを出していれば、あるいは超高速の体当たりでも仕掛けてきていたら、殺されていただろう。

 命が風前の灯であったことを悟り、青ざめながらも圭介は動いた。

 左腕を伸ばし、シグの右手首をつかんで自分の方へ引き寄せ、渾身の力でパンチを放ったのだ。

 腰の回転と体重を乗せた拳が、凄まじい勢いで空間に流麗な軌跡を描き、一直線に突き進んでいく。

 それはシグの胸部に見事命中し、深々とめり込み、打撃音を響かせた。


「ぐぅぅぅっ……!」


 鮮血を吐き出して呻き、よろめくシグ。

 右拳に伝わる手応えからすると、間違いなく胸骨は砕け散ったはずだが、まだ彼は倒れない。

 もう限界が近い圭介は一瞬だけ怯むも、即座に気を取り直して構えた。


(だったら……もう一発……!)

 

 叩き込んでやると思い、圭介は再び右拳を構えた。

 シグは左手で何とか対応しようとしているが、今の両者は距離が極めて近い。

 彼の大きな武器である長い腕も、この超接近戦には不向きで活かしにくいのだ。

 しかも右手首を破壊された直後なので、素早い反撃ができるはずもない。


「はぁっ……!」

 

 左手を強引に払いのけると、圭介は先ほどと同じように、シグの胸部へ渾身の一撃を叩き込んだ。

 鳴り響く凄絶な打撃音。

 シグは口から大量の鮮血を吐き出し、呻き、よろめいた。

 胸骨を粉砕され、ほぼ間を置かずに同じ位置を殴られたのだから、確実にダメージは大きいだろう。

 なのに、シグは倒れない。


(何てタフな奴だ……!)


 体内で胸骨の破片が飛び散り、臓器を傷つけているはずだが、それでも立っていられるのは脅威としか言えない。

 戦慄しながらも圭介はシグの右腕から手を離し、両拳を構えた。

 しかし、すぐに大きくよろめいてしまう。

 もはや立って構えるだけで精一杯だが、倒れるわけにはいかない。


(限界なのは……シグも同じはず……!)

 

 心の中で叫び、闘志を奮い立たせた瞬間。

 圭介は、シグの様子がおかしいことに気づいた。

 手で拳を作っておらず、構えてもいない。

 戦意がまったく感じられず、穏やかな雰囲気である。


「シグ……?」

「御堂……圭介」


 ここまで優しい表情ができるものなのか。

 そう思い、圭介が面食らっていると、シグは言った。


「お前の強さ、確かに見せてもらったぞ……志だけの弱者ではないと分かって、安心した」


 彼は左手を伸ばし、圭介の肩を掌で軽く叩いてから、続ける。


「その志と強さを認めよう……私の負けだ……!」


 やはり、既に限界を迎えていたらしい。

 言い終えてすぐに片膝をつくと、シグは優しく微笑んだ。

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