第三話 傘の下で

 ここ数日、空を見上げることが多くなった。自分でも驚くくらい、雨を待ちわびていた。

 断る理由が欲しいかと、山岸は聞いた。

 断る理由――例えば、私が向坂以外の、とか……。

 あの時、欲しいと答えたら、どうなっていたのだろう。

 

 

 火曜日。朝から一日雨の予報で、明日には晴れるとのこと。

 私は昼休みに塾に電話をした。

「はい。……そうです。部活の関係で、今日じゃないと無理で」

 私は、初めて嘘を付いて、水曜の授業を火曜にずらした。

 バド部に所属していることは塾の教師も理解している。だから部活と言えば簡単に信じてくれた。

 親には塾の教師の都合で曜日がずれたと伝えた。

 ――これで、また山岸に会えるだろうか。

 

 夜十時。授業の後、私は駆け出すように一目散に公園に向かった。

 私を突き動かすこの気持ちを確かめたかった。

 今まで会えたのはいつも水曜日だけど、火曜日もいるのだろうか。

 そんな不安も杞憂に終わる。薄暗い公園の真ん中には、傘をささず雨に濡れている山岸の姿。

 またしても全身黒ずくめ。好きなファッションなのかもしれない。ただ、マスクはしていない。

「風邪、引いちゃうよ?」

 近づいていって、少し傘をさしかける。山岸の方が私より背が高いから、腕を伸ばす形になった。

 ブツブツと何かを呟いていた山岸はびくりと震えて、こちらを見た。今、ようやく私に気づいたみたいだった。

「びっ……くりした」

「ごめん。ずぶ濡れだったから」

「いや、ありがとう。雨の音って、結構集中しちゃうんだよな」

「何か、やってたの?」

「いや、色々考えることがあるから」

「でも雨の中で風邪引いたら大変じゃない?」

「夏だから大丈夫。それより、今日、火曜日だよね? 会えるとは思わなかったな」

 ドキリとした。あなたに会いたくて塾の曜日を動かしましたなんて、口が裂けてもいえない。

「そ、そういえば、毎回この公園の雨の日の夜って何か理由があるの?」

 誤魔化すには無理があったが、日に日に募る疑問のひとつだった。六校は、ここの最寄り駅から五駅先。なぜ、山岸はわざわざこの公園にいるのだろう。

 少しの間があって、山岸は困ったように眉尻を下げた。濡れた前髪が顔を隠している。

「……立川さんが答えられないことがあるように、俺も言えないことがある、じゃ、ダメ?」

 夜なのは、思い詰めた姿を同級生に見られたくないから、とか。雨の日なのも同様の理由なら納得できる。

 想像はできても、これ以上、追求はできなさそうだった。もしかしたら家がこの辺なのかもしれない。

「……悩んでたことが、解決するかもしれないんだ」

 雨音が響く中、山岸が切り出した。

「え? ほんと?良かったじゃん」

「うん……」

 山岸にとっても嬉しい報告のはずなのに、あまり嬉しそうじゃないのはなぜだろう。

「あの、立川さんは?」

「あ~」

 なんて言おう。

『あなたから断る理由が欲しいです』

『あなたが気になっているから断るつもりです』

『好きな人ができたから断ります』

 ……全部、遠回しに告白しているようなもの。

 言うつもりもないのに、そう考えただけで喉の奥が震えた。

 こんなことを突然告げたら、彼はどう思うだろうか。迷惑になるに違いない。

 そうか、向坂はこんな気持ちで――。

「あのさ……山岸さん。この間、『断る理由が欲しいか』って聞いてくれたの、あれ、どういう意味か、聞いていい」

 雨音に負けそうな、か細い声しかでなかった。恐らく真っ赤に染まっているだろう顔を見せたくなくて、思わず俯く。

 雨が地面に打ち付けられていく。

 視界に白い手が伸びて、そっと私の頬を上げた。

 目の前には、長い睫毛に高い鼻――ものすごく綺麗な顔立ちの山岸。

 あぁそうだ、相合い傘をしていたんだったと思った時には、唇に温かい感覚が走っていた。

 何が起こったか理解する前に、手から傘が落ちたのがわかった。

 身体を雨が濡らしていく。

「立川さんが……思った通りの意味、だったよ。……俺にしとけよって、意味」

 何が起こったのか、いまだに理解できなかった。唇と、唇が触れた……?

「でも、ごめん……。今のは、忘れて。あと、たぶん会えるのは今日が最後」

 山岸は申し訳なさそうに項垂れる。

「え、どういう、こと」

 頭がついていかないのに、どんどん話が進んでいく。

 忘れて? 会えるのは最後?

 待って、待って――。

「本当にごめん」

 視界が揺らぐ。

 山岸の手が私の目元に延びる。

 どうやら私は泣いているらしい。そんなことも、まだわからない。

「ごめん……。ありがとう……」

 やまない雨音と冷えていく身体と、熱を持つ唇だけが確かなものだった。

 

 それからどうやって家に帰ったのか、私は覚えていない。

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