第一話 邂逅

「ねぇ、華澄。まだなの?」

 この台詞は、最近の夏帆の口癖だった。

 あの告白のことを夏帆は知っていた。誰にも見られないために、私をひとりで体育館に残すよう、夏帆は向坂に協力していたらしい。

 あれ以来、おはようの朝の挨拶の後は、毎日決まってこの話題だった。

 夏帆とは中学校からの付き合いだ。高校に進学してクラスは変わってしまったが、家が近くて、部活も同じため、高校へも一緒に登下校している。

 七月も半ばだというのに、今年はそんなに暑くない。

 毎朝、混んでいる蒸し暑い電車に乗るのが大嫌いだった。今年はそれがまだマシなのに、夏帆の質問攻撃が暑苦しい。

「も~、またそれ?」

「ねぇ、なんで早く返事しないの? いいじゃん、向坂。男バドのエースだし、頭も別に悪くないし。顔は、まぁわたし好みではないけど、悪くもなくない?」

 夏帆は私と向坂をやけにくっつけたがる。なんとなく、友達に突然起きたゴシップを楽しんでいるんだと思う。

「うーん、まぁそう言われればそうなんだけどさ」

「じゃあもう付き合っちゃえばいいじゃん」

「とにかく、ちょっとまだ保留なの」

 そう告げて、到着した電車に一足先に乗り込む。

 満員ではないが混雑している車両のため、席は空いていない。ただ空調が利いているから、それだけでありがたかった。

「もっと、他の話題ないの?」

 遅れて隣のつり革につかまった夏帆に問いかけると、その視線が一点に注がれているのに気がついた。

 ドラマのつり革広告――『雨音と恋模様』。放送日は木曜の夜十時。

 雨粒がついたガラス越しに男女のシルエットが映っていた。これからキスするんだろうなって距離。

「華澄、『あまこい』見てないんだっけ?」

「うん」

 夏帆はドラマが好きだった。特に恋愛ものが。

 ほぼ毎日違うものを見ていると思う。そういえば、これは夏帆が今期イチオシのドラマだったっけ。

「見てって何回も言ってるのに! もしだったら録ってるから貸すよ! 初主演の秋斗くんの演技、超~~~かっこいいんだから」

 秋斗あきとくん――篠原しのはら 秋斗は、最近夏帆がハマっている俳優で、元はモデル出身らしい。ちなみに夏帆はモデルの時から彼のファンだという。

「いや、私水曜の夜は塾だから」

 ドラマも俳優も、特段興味のない私は、そういった情報を夏帆から仕入れている。

 家でお母さんが見てるドラマをちらりと見ることはあるけど、そのくらい。

「今、七話なんだけど、も~超やばくてさ。私もこんな恋してみたいって思って――」

 夏帆は『あまこい』について夢中になって話し始めた。

 私は話題が向坂から反れたことに、ひっそりと安堵していた。

 素直に、こんな恋がしたいと言える夏帆が羨ましかった。きっと夏帆が向坂に告白されていたなら、その場でOKしていたに違いない。

 向坂も、夏帆みたいにドラマが好きで、恋に憧れてるような女の子らしい子を好きになれば良かったのに。

 私といったら、ドラマは見ていない。好きな俳優もいない。興味がないわけじゃないけれど、毎日部活と塾で忙しくて、恋愛どころではない。告白されたって、まだ答えが定まらない。

 一週間待たされて、向坂はどう思っているだろう。あれから向坂とは特に話をしていない。

 合同練習での男女打ち合いで順番が回ってきたから、少しラリーをしたくらい。

 別にいつもと変わらない向坂に、少しホッとした。 

 夏帆からは待たせすぎ、と毎日怒られている。でも、考えてるのに決められないんだからしょうがない。

 

『じゃあもう付き合っちゃえばいいじゃん』

 

 夏帆の言葉が響く。

 ――好きでもないのに、付き合うの? それでなんか違うなって思ったら、別れるの?

 ガタンゴトンと電車が揺れる。

 まだ向坂に返事はできそうになかった。

 

 

 ***

 

 

 私が通う公立第三高校は偏差値55くらいの、地元での評判はそんなに悪くない高校だ。

 大学進学率も80%くらいで、普通に勉強すれば多分、二流大学くらいになら易々と行ける。

 ただ地元の名門A大に入るには、今の私の成績では塾に行かないと難しかった。

 AAA塾は家から自転車で十分のところにある全国区の有名塾で、私は月曜と水曜と土曜の夜九時から一時間、授業を受けている。

 部活の後じゃないと行けないから、わりと遅い時間にしか行くことができないのだ。

 水曜日の塾帰り。その日は雨が降りそうだからと徒歩で向かったため、帰りも歩くしかなかった。

 夜十時。雨はしとしとと降っていて、夏の気温を下げてくれている。

 それでも湿気は多く、元々くせっ毛な髪は、いつもより広がりを見せていた。

 早く制服を脱いで、お風呂に入りたいなと思いながら、公園の横を通りかかった時、ぱしゃりと水が跳ねる音がした。

 思わず視線を向けると、誰かが公園の水溜まりの中に倒れているように見えた。

 ぎょっとした。心臓がドクドクと速くなったのがわかった。

 傘を差しているし、見なかったことにして帰ろうか、そんな考えが頭をよぎった。

 でも、もし死んだりしてたら……。最悪な事態をわざと見過ごすことになったら、きっと後から凄く後悔する。

 スマホもあるし、もしも……もしも本当にやばかったらお母さんに連絡しよう。

 そう決めて、私は夜の公園に足を踏み入れた。

 公園には古びた街灯がひとつあるだけで、薄暗い。

 水溜まりに近づくと、やはり人がうつ伏せに倒れていた。男の人だった。雨も降っているし、生きているのか死んでいるのか、さっぱりわからない。

 スカートに泥がつかないようにしゃがむ。

 傘を打つ雨の音がやけに大きく聞こえた。

 恐る恐る声を掛けようとしたら、突然うつ伏せの男性が動いた。

「あーっ!」 

 男性がうなるような声を上げて水溜まりを手で叩くのと、私が悲鳴を上げたのは同時くらいだったろうか。

 怖くて、びっくりして、思わず尻餅をついた。

 私の悲鳴にびっくりしたのは男性も同じだったようで、水溜まりから飛び起きた。

 男性だと思っていたけれど、背格好から、たぶん私と同じくらいの歳の男の子だった。

 長めの前髪も頬も泥水で汚れている。

 ――あなたは誰? 生きてるの? なんで倒れてたの? 何してたの?

 聞こうとしたのに、上手く声が出なくて、私は開いた口をパクパク動かすしかなかった。

 男の子の方も突然悲鳴を上げた女子高生を見て、唖然としていたけれど、私より早く正気に戻ったようだった。

「すみません。あの、大丈夫ですか?」

 思った以上にマトモな対応に、少しだけ安心した。変質者とか不良とかではなさそう。

 まだ声が出ない私を見た後、焦ったようにきょろきょろと辺りを見回す。

 悲鳴を上げられたから、誰かが駆け付けたりしないかと思ってるのかもしれない。

 腰が抜けたのか、足に力が入らなかった。しかも転んだ時に傘を手放してしまったようで、身体が雨で濡れていく。

 男の子はどうしたものかと右往左往した後、とりあえず私の傘を拾ってきてくれて、これ以上濡れないように私に差しかけてくれた。

「あ、の……」

 ようやく声が出た。

 男の子は後ろめたいからなのか、私から顔を反らした。

「あの、大丈夫ですかは、こっちの台詞なんですが」

「え?」

 泥水に濡れた顔がこちらを向く。暗くてよく見えないけれど大人っぽい顔をしていた。大学生くらいかもしれない。

「水溜まりの中に倒れていたから、死んでるのかと思ったら、突然動き出すし、なんか叫ぶし、それに――」

 思ったことを全部物凄いスピードでぶつけていた。その間、男の子はきょとんとして私を見ていたと思う。

「つまり、あなた誰で、何してたんですか!」

 一気に捲し立てた後、とにかく聞かなくてはいけないことを端的に聞いた。

 制服は濡れてるし、スカートは泥まみれだし、早く帰りたかった。この人がなんともなければ、すぐに帰ろう。

 そう思ったのに、私に傘をさしかけたまま、男の子はなぜか良かったと呟いたあと、うーんとかなんとか言って、言葉を濁した。

 何が良かったんだろう。こっちはこんなに怖い思いをしたのに。

「親に連絡しますよ」

 悪い人じゃなさそうだけど、怪しいヤバイ奴だったら怖い。まぁ普通の人は水溜まりの中で倒れていたりしないから、すでにヤバイ奴なのかも。

 咄嗟に口走ったら、さすがの男の子も観念したようだった。

「えと、連絡は勘弁してほしい。……俺は山岸やまぎしれん六校ろっこうの三年、です」

 六校とは私立第六高校の通称で、県内随一の名門校だ。私が狙ってるA大への合格率No.1を謳っている。六校生は皆ガリ勉だと思っていたけれど、そんな優等生がこんな夜中にこんな公園で何をしていたんだろう。

 私の訝しむ視線に気づいたのか、それから逃げるように彼は目を泳がせた。

「実は、色々悩んでて……」

「悩んでるから、泥水に倒れたの?」

「あ、いや。……うん。そう、かも」

「勉強のこと?」

 優等生がそこまで悩むことってなんだろう。なんとなく、気になってしまった。彼が思い詰めたような顔をしていたからかもしれない。

「勉強じゃない。……そうだな、自分の、身の振り方って感じかな」

 ようやく身体に力が戻ってきたようだった。

 私は手をついて、よろよろと立ち上がる。

「大丈夫?」

「……大丈夫じゃない。スカート泥々だし。お母さんに絶対怒られる」

「……ごめん」

 本当に申し訳なさそうに謝る彼の方が全身泥々だったから、怒る気も削がれてしまった。

 ありがとうとお礼を言って、彼から自分の傘を受け取る。

 傘のおかげで、ブラウスの被害は最小限で済んだ。

「傘ないの?」

 冷静になって彼を見ると、手ぶらで何も持っていなかった。スマホくらい持っているのかもしれないけど。

 黒いTシャツに黒いズボン。暗いから余計見えないけど、たぶんどっちも泥まみれで、ずぶ濡れ。

「あー、うん。何も持たずに来たから。なんとなく、雨に打たれたい気分でさ。モヤモヤを、流したくて」

 その言葉にハッとした。たぶん、私も同じ気持ちだったから。

 身の振り方……。 

「ねぇ、あなたの悩んでること教えて」

 彼は驚いたように目を丸くした。長い前髪の隙間から、はっきりとした二重が覗く。

「いや、もうこんな時間だし。見ず知らずの人に聞かせる話じゃないから」

 正論だった。六校生っていうのは嘘じゃないんだろう。

 でも気になった。共感したかったのかもしれないし、同情したかったのかもしれない。

「私は公立第三高校二年の立川華澄。これからあの水道でスカートの泥だけ洗うから、その間だけ聞かせて」

 泥をつけさせた負い目もあるのか、彼は渋々了承した。

 公園の簡素な水道でスカートの泥を流す五分足らずの間に、彼はつらつらと、でも簡潔に悩みを述べた。

 詳しくは言わないそうなのだが、結局は、自分が望まないことをやらなくてはいけないのかどうかということらしい。

 やらなきゃいいじゃんと思ったが、――ちなみに声に出ていた――他人にはそう望まれているから、悩むらしい。

「他人に望まれている自分が、本当の自分なのかなって。それでも俺を認めて欲しい人がいるから……」

「……なんか、難しいね」

 私の恋愛の悩みより、かなり重い話なのかも。三年だから将来のこととか。だからって泥水に浸かるのは理解できないけど。

「まぁ、そう思うよね」

 とりあえず応急処置をしたスカートを絞る。

「でもさ、結局決めるのは自分なわけじゃん。だから他の人に望まれる自分と、自分がなりたい自分を半分ずつくらい取った、バランスの良いところを見つけるしかないんじゃないかなぁ」

 自分に言い聞かせるように、彼に告げた。そう、結局最後は自分の意思でしか物事は決まらない。

「まぁ私は、なりたい自分が、他の人からも望まれる自分であったらいいな。なんて、欲張りかな」

 あははと苦笑すると、彼はふふと笑みをこぼした。

「いや……、いい理論だ」

 スカートを洗っている間も傘を持っていてくれた彼にお礼を言って、カバンからタオルを取り出し、差し出す。部活用の予備のタオルを持っていて良かった。

 彼はまたきょとんとした。

「これ、使ってないやつだから。良かったら使って」

「え、悪いよ」

「いや、私ばっかり傘差しててもらって、申し訳ないと思ってたから。夏だからって風邪引くと大変だし。それに……、私も悩んでることあったからなんとなく、聞けて良かった」

 なんの解決にもなっていないのだけど、傷を舐め合うというのだろうか。なんとなく、気が楽になっていた。

「悩みって……」

「あぁ、たぶん山岸……さん、よりも、軽い系だから。もう夜遅いから帰りますね。そのタオル、あげるから」

 こうして不思議な男に出会った私は、足早に公園を後にした。遅くなったからお母さんが心配しているはずた。

 背中からありがとう、という呟きが聞こえた気がした。

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