第85話 僕たちはエッセイを勘違いしていた

 よう、古珍ろっくだ。今日のBGMは……そうだな。こうのとりバンドの『パーティー』って曲を流そうかな。

 恥ずかしながら、僕はこのバンドの事もよく知らないし、この曲がどういった経緯で作られた曲なのかも知らないんだが、ギターのヘヴィなサウンドは理屈抜きで素敵だよな。

 ああ、腹減って来た。たこ焼き食べたいのらー……


 まあ、たこ焼きや曲の話はさておき、本題。

 今日はタイトルの通り『僕たちはエッセイを勘違いしていた』かもしれないって話について、だ。

 じつは恥ずかしながら、僕は小説家になろうってサイトに行くまで、エッセイとやらを読んだことが無かったんだ。

 で、なろうで初めてエッセイってやつを読んだ。

 いや、本当に教養が無いってのは怖いな。

 僕はてっきり、そのサイトのランキングを席巻しているエッセイを読んで

「ああ、エッセイって言うのは適当に自分の『こんな世界が正しいんだー』ってエゴを語る作品なのか」

 と、まあ不正解ではないけど正解でもないようなことを考えていたわけだ。




 さて、ここで突然だが、エッセイを書いたことのない人でも簡単に書ける、エッセイの書き方講座ってやつをしてやろう。ちなみに教鞭をとるのは僕だ。なので、あんまり信憑性のない内容になる(笑)


 まずは言いたいことを決めるんだ。いわゆるテーマだな。今回だったら『エッセイとは?』って感じのテーマになる。

 次に、このテーマについて「何故そんなことを書いたのか」っていうやつを、初見の読者にも分かるように説明するんだ。

 今回だったら、

「前回の感想欄に『古城ろっくさんのツイッターを見ただけだと分からなかったことが、このエッセイを読んだら半分くらいわかった』みたいな書き込みがあったので、その説得力の違いはどこから来るのかを考えていた。そしてエッセイとは何なのかを、僕自身が気づいた」

 ってのがそれに当たる。

 ……意外なことだが、この段階が出来てない作者は結構多い。


 この世界で『何が世界にとっての正しさなのか』を語るのは、多分たかが人間の分際では不可能だ。やろうとしたら自分のエゴを周囲にまき散らすだけの汚い文章が完成しかねない。

 大事なのは『何が自分にとっての正しさなのか』を語る事なんだ。こっちならみんなにも出来そうだろう?僕ごときにも出来る。

 そして、それが読み物として面白ければ成功だ。正しいかどうかではなく、面白いかどうかが最後に重要になる。

 それがエッセイだ。エッセイが文学作品として、小説や詩と同等の扱いを受ける理由はひとえにそれである。


 なろうのエッセイスト連中は、『何が言いたいのか』だけを語って満足する。肝心な『どうしてそう思ったのか』を語らない。

 これは小説で言えば、プロット段階で作品を提出する行為に等しい。主人公である作者の物語が描かれず、ただラスボス倒してハーレム作ったと言う事実だけが記載されたものになる。

 読者としては知りたいことが沢山あるだろ?

「主人公はピンチに陥ったとき、どうやって敵に勝利するのか」

「最初はただのおもしれー女だと思っていたヒロインに、どうして心惹かれたのか」

「仲間だと思っていた人に裏切られたとき、主人公はどんな思いだったのか」

 などなどが、物語の面白さだ。だってのに

「主人公はピンチになるものです。そして最後に勝つものです」

「ヒロインに主人公が惚れるのはおかしなことではありません」

「仲間が裏切る展開はウケると聞いたので挿入しました」

 なんて答えをされても、いや、そんなの求めてねぇよと言えてしまう。ストーリーをくれ。ストーリーを!

 エッセイでも同じだ。

「作者はどうして批判が良くない事だと思ったのか」

「作者自身に何か嫌な過去があったのか」

「作者はどんな批判があったら辛いのか」

 みたいな話をエッセイで聞きたいのに、なろうエッセイの書き方と来たら、

「作者がそう思ったからそうなんです」

「常識だからです」

「一般的に考えたら分かります」

 ……そんな答えは求めてねぇんだよ。


 それらを踏まえたうえで、僕のエッセイとかツイッターとか、他人のエッセイとかを読んでいたら気づいちまった。

 ツイッターでは文字数の制限もあるから、あまり身の上話をするのに向いていないんだ。だから結論だけを書くことになるんだが、それで面白いと思える意見を出すのは難しい。

 一方で、これだけ自由に文字数を費やせる小説投稿サイトなら、少なくとも『自分がどうして正しいと思ったのか』って話くらいはできる。

 だから読者も、

「同意できるかどうかはさておき、作者がいろいろ考えた末の結論だって事は分かった」

「共感するかどうかはさておき、作者の考えを理解し同情するまでには至った」

 って感覚を得られるわけだな。

 そしてそれが一定の新しい視点を与えたり、あるいは作者自身が主人公として充分に通用するキャラクター性を持っていたりすると、エッセイとしての面白さは確保できるわけだ。


 つまり『何が正しいか』ではなく『何が面白いか』で勝負するのがエッセイだ。

 なので、みんなも自分がそう思った理由を飛ばさずに書くんだ。面倒だから結論だけ書きたいのは分かるが、それじゃ設定厨の書いた小説(という名のプロット未満)と同じだ。




 ――BGMのせいで何も頭に入らない講義だったな。すまん。

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