第60話 作者は批判に反論してはいけない?

 よう、古城ろっくだ。今日はもう寝付けないと思うので、このエッセイを執筆する。まあ、投稿はまた別な日になるだろうけど、ね。

 さて、今日は芋焼酎をストレートで飲みながら話をしていこうか。本日は『こくいも』ってやつ。コスパとバランスの良さが絶妙なので、お金が無い時とか、ただ酔っぱらいたい時とかに重宝する。今日は後者だ。

 まあ、ちょっと嫌なことがあったからさ。違う話でも書いて、少しでも気分転換したかったんだ。



 さて、ちょっとした報告だ。

 僕は今まで、何度もみんなに訴えてきた。「読者は自由に批判をしていい」とね。

 その効果があったわけではないのだろうけど、最近「読者は批判を書いていい」って言ってくれる作者が目立って多くなってきたように思える。我々ダイソン作家たちの勝利だ!……これ名乗ってんの僕だけなんだけどね(笑)

 ところが、その反動でこんな話まで出始めてしまった。


「作者は読者から来た批判に反論してはいけない」


 ……ん?

 いやいや、いくら吸引力の変わらないただ一つの掃除機だって、多分クリアビンの中が詰まったら何も吸引できなくなるぞ。僕は何度だって、「作者も読者も自由だ」「作者と読者は対等だ」と訴えかけてきた。

 だというのに、彼らは読者に反論するなというのだ。そんな、馬鹿な……

 もらった感想に反論くらいさせてくれても……感想に反論くらい……


 ……ちょっと待って。『感想に反論』ってなんだ?




 さて、本題(いまさら)。

 今日は『反論って言葉の意味を知っているかい?』ってのが焦点だ。多分、上記の吸引力の落ちたダイソンたちは、反論って言葉をナチュラルに誤用してしまっている。だから僕が直々に、分かりやすく教えてやろうと思うのだよ。

 物書きなら覚えておいて損はない話だから、聞いてくれたまえ。

 まず、熟語の中に『反』だとか『逆』だとか『非』だとか『不』だとかが付く場合は、それに対して付かない場合の単語もあると思ってくれていい。

 要するに『論』がないところに『反論』は出せないわけだ。ピッチャーが球を投げてないのに、バッターが打てるわけないだろ。それと同じさ。

 で、読者の『感想』とは、そもそも『論』ではない。本論のない所に反論は無いのだから、『感想』に対して出せるのは『感想』だけだ。

 例を出そうか?


読者「この作品は、つまらない(感想)です」

作者「この作品は、面白い(感想)はずです」

読者「好みが合いませんね」

作者「はい。好みが合いません」


 ……これ、どこかに論なるものがあったか?いわゆる『議論』『討論』として成り立っていたか?いや、成り立っていない(反語)。

 仮に読者の感想文に対する『反論』なるものがあるなら、それは読者の『感想』に対してのものではなく、その感想の元となった『論説』に対するものになる。そしてそれは両者にとって有益なのだ。

 例文を出そう。


読者「この作品はリアル路線だそうですが、作中の事象については現実ではこのようになっています(論文の引用、あるいは体験からくる自論など)ので、私はつまらないと感じました(感想)」

作者「その事象につきましては、このようなデータもございます(反論)ので、私はおもしろいと思って書いています(感想)」


 ――と、このように、

 読者が何かを前提としている時、その前提が間違っている場合に正すことが出来るのが、作者の『反論』なのである。これは作者にとって自己弁護の機会になる……だけではなく、自作や自論に間違いが無いかを確かめる行為にもなる。

 そして、読者も知らなかったことを勉強する機会になる。もしかしたらそれで作品への感想や評価さえ変わる場合もあるし、変わらなかったとしても読み手として(あるいは、その分野に精通する者として)、作者の技量や世間一般の理解レベルなどを知る機会となる。

 ほらな。いいことずくめだ。いやまあメリットの大きさはバラツキがあるが、少なくともデメリットは無いと言っていいだろう。

 もちろん、読者や作者が死ぬほど忙しくてそれどころではないとか、あるいは悪意があって相手を蹴落としたいとか思っているなら、話は変わる。例えば作者が『俺はこの読者が個人的に嫌いだから、こいつを賢くしたくないぜ』って思っているなら、まあそれはそれだ。


 いいかい?反論だとかいう言葉を安易に使うより先に、そもそもそれは『論』なのか『感想』なのかを見極めるんだ。

 そして相手が持ってきたのが『論』であるなら、作者はそれに『反論』してもよい。

 相手が持ってきたのが『感想』なら、そこに作者はそもそも『反論』できない。


 この点を踏まえてみれば、最初に言った「感想に反論するな」という理屈は、「ピッチャーが投げる前にヒットを打つな」というルールを明文化するくらい不必要であることが分かるだろう。

 彼らが言いたい『感想に反論するな』とは、正確には『感想に腹を立てるな』であることくらい、容易に想像できよう。

 作者のみんな。感想が来た時に、その感想文の中の前提が間違っていたら、いくらでも反論していいんだぜ。ただ、最終的な感想だけを否定するようなことはするな。そこは肯定して受け入れろ。

 そして読者のみんな。感想に反論が書かれたら、自分の論と照らし合わせてみよう。照らし合わせることが出来たなら、それはまさしく『反論』なのだから、受け止めていくべきである。もし自分の論からずれたことが書かれたなら、それはただの『作者の感想』だ。それに対して君が腹を立てる必要はない。ただの雑談だと思って流しておけ。


 以上。

 あー、ちょっとは僕の気が晴れた気がするよ。いや、晴れたっていうより、紛れた。おかげでぐっすり眠れそう。

 みんな、付き合わせてごめんね。僕がもし小説で読者からお金をとるなら、エッセイでは読者に僕がお金を払わないといけないな、とか思ってる(笑)

 まあ、友達のよしみでまけといて。

 それじゃ、おやすみ。




 ――ところで、今日この話をしていて思い出したことがあるんだ。余談だけどね。

 キラキラネームが流行ったころ、それを馬鹿にするスレみたいなのも立っててね。女の子の名前で『和音』って書いて『どれみ』って読ませる魔女見習いみたいな子がいたんだ。

 それに対して「ド・レ・ミは和音じゃねーし!不協和音だしwww」みたいな書き込みをしている人がいたんだけどさ。

 ……うん。間違ってんだよね。

 結構多い間違いなんだ。和音の反対が不協和音だと思ってるやつ。

 実際には、不協和音も和音の一種なんだよ。『和音』っていう大きなくくりがあって、その中で『協和音』っていうやつと、『不協和音』ってやつに分かれる。

 この協和音と不協和音はどちらも和音なので、和音と書いてどれみと読ませること自体は(人間の名前として適切かどうかはさておき)間違ってはいないんだ。もし協和音と書いてどれみと読ませたら、それは間違いだけどね。

 ちなみに、ドとレとミの音から構成される和音だと、コードネーム的には『C add9 (omit5)』だよ。楽譜を書く時に参考にしてね。

 と、こうやって『ドとレとミは和音ではない』っていう間違った音楽理論に『いや、不協和音と言う名の和音だ』と返すのが反論。

 そして『どれみは人の名前としてふさわしくない』って感想に、『僕は素敵な名前だと思う』って返すのは反論ではなく感想。

 覚えておいてね。

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