第33話 ○○という言葉を使わずに○○を表現するな
よう、古城ろっくだ。ボウモア飲んでる。
さすがに12年もかけるとこんなにスモーキーになるんだろうか?それともボウモア特有のピートの利かせ方が原因なんだろうか。これストレートでちびちび飲んでるだけで幸せな気持ちになるぜ。
……そう。普段は安い酒ばっかり飲んでるから量が増えるんだね。すると月々の酒代も跳ね上がるから、結局はコストパフォーマンスも悪くなる。
そうなる前にたまには良い酒を飲めって事だな。
さて、本題。
ツイッターなんかやってると、たまに回ってくる面白いハッシュタグがある。
『#○○と言う言葉を使わずに○○を表現する』
例えば、死という言葉を使わずに死を表現する、とかだ。興味があったらやってみても良いんじゃないかな。自分の語彙力を上げるトレーニングにもなるし、表現の幅も広がる。まあ、使える言葉に縛りを設けて練習するってことだな。
スポーツで言うところの、高負荷トレーニングである。
そう。トレーニングなんだよ。
本番で使用するものではない。
僕がなろうで初めてエッセイを書いたとき、その内容は『感想』に関するものだったな。
その時の作品はアカウントごと消えたが、何を言ったのかは大体覚えている。こんなことを言った。
『感想なんて思ったことを素直に書けばいいんだよ。極端な話、「作者死ね」って思ったら「作者死ね」って書けばいい。死ねと思っているのにそれを使わず、適当に取り繕った感想なんか貰って嬉しいか?僕は嬉しくないね。自分の使う言葉くらい自分で選択して、自分で責任持てよ』
って書いたはずだ。
これは小説でも一緒。自分が書きたい言葉があるなら、それを制限することなく自由に表現していい。僕はそう思っている。
まあ、言論統制がひどく、前後の文脈から何も読み解かない某大手小説投稿サイトさんで同じことをやると、ボット検出より低精度なバイトテロ同然のBANを食らうことになるが。
おっと、話がそれたな。
要するに、小説を書く時の正解は『○○という言葉を使ったうえで○○以外の表現も加えていく』だ。
細かく表現するならたくさんの語彙は必要になるだろうから、それを普段から鍛えておくのは練習としては素晴らしい。ただ、本番に持ち込んではいけない。
鉄下駄マラソン?
トンボ素振り?
タイヤ引き?
ああ、昔からあるトレーニングだし、それ自体を否定はしないさ。ただ、試合本番でバッターボックスに立つときは、必ずスパイクとバットを持ってきてくれ。鉄下駄を履いてトンボを構え、タイヤから伸びるロープを腰に巻いたまま打席に入るな。
何を書きたいのか。それを読者に表現するために文章力を使うんだ。自分がどんなに頭がいいかをアピールするために文章力を使ってはいけない。大事なのは作者の頭の良さアピールではなく、作品で表現したいものアピールだ。
本当に頭のいい作者は、分かりやすく表現するのが上手い。
以下、余談も良いところだが……
中には、『○○という言葉を使わず○○を表現することが文学です』なんて押し付ける連中もいる。その次にくる言葉は大体ラノベ批判やなろう系批判。あるいは売れている大衆文学批判だ。
彼らは何かしらルールに則らないと怖いんだろうな。自分の作品のどこが文学的かと問われたときに、誰かから借りてきたようなルールを持ち出して当てはめないと、自作を文学だと言いにくいんだろう。まあ、そんな微妙な作品を書くなよって話だけど。
そんな連中に、僕から宿題を出そう。
『#文学を定義せずに文学作品を創作する』
これが出来たら一人前と認めてやる。
いや、まあ『自分の作品はそうありたい』みたいな個人的思想に関してまでケチは付けないけどね。ただ、その延長線で『文学とはかくあるべき』みたいな正義マンが多くなってきたからビシっと言っておくかと思ってさ。
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