第5話『雨がやんだら』
さっきから、ずっとつけられている。
雨の日には、ずっとこうだ。
ここはどこだろう?
アイツをまこうとして、知らない角を何度も曲がった。
気が付いたら、周りの風景は私が知っているものではなくなっていた。
これで何度目だろう。
傘をさしていても、少し強めの雨は私の制服にだんだん染み込んでくる。
早く、学校にたどり着かないと。
高3のこの時期に、得体の知れないヤツに追われて遅刻なんて、イヤすぎる。
大人は、誰も私の話をまともに聞いてくれない。
もう何回も、アイツにはつきまとわれている。今日のように登校時を狙って朝っぱらから付きまとわれることもあれば、夜のこともある。
今、自分でそう言ってて気が付いたことがある。
そういえば、こういう目に遭う日って、決まって雨が降っているなぁ、って。
今日も雨だし。
なんか意味があるの?
ま、たとえあっても、私は聞きたくないかな。
今日に限って、私の行く先々で通行人がいない。車も走ってない。
チラッと後ろを見ると、数十メートルくらいの間隔を取って、物陰からアイツがついてくる。間違いじゃない。私はストーカーされている。
誰か歩いて来たら、事情を話して一緒に歩いてもらおうと思うんだけど——
ここは東京。田舎の山中じゃないはずのに、さっきから通行人と出会わない。
そのことも、偶然なのかもしれないけど私を不安にさせる。
……ダレカ、タスケテ。
突然、肩を触られた。
私は、声を失った。
あまりの驚きに、声が出ないどころか体まで硬直して、動けない。
……いつの間に、距離を詰めていたんだろう!?
こちらが逃げ出せないのをいいことに、アイツは肩を撫でてくる。
やっとのことで、「イヤだ」という思いが硬直に勝った。
体の自由を取り戻した私は、全力で駆けた。
通学カバンを落としてきたけど、そんなことは今どうでもいい。
アイツから逃げ切らなきゃ、負けだ。
私の人生、まだまだこれからなんだ。
あんなヤツに、高校時代の思い出を台無しにされてたまるか——。
やっと、見覚えのある街に出てきた。
通行人もチラホラいるし、車も走っている。
私は、一番手近にいた、会社員風のオジサンに声をかけた。
オジサンはじろっと私を一瞥した後、無視してどんどん歩きだしてしまった。
次に、OL風の女性に声をかけたが、やはり結果は同じ。
その後も5人に声をかけたけど、皆能面のような表情で、私を無視した。「ごめんね」とか「忙しいから」とかもなし。皆、無言で機械のように同じ反応をする。
私は、ちょっと怖くなった。
なんか、今いる場所が本当の「その場所」じゃないような……
ああ、国語の成績もビミョーな私の表現じゃ、上手く言えないのがもどかしい。
とにかく、誰も助けてはくれないということは分かった。
交番があったら駆け込むことも考えたけど、この辺でどこにあったか、どうしても思い出せない。
私に今できるのは、とにかく学校を目指すことだ。
校内に入ってしまえば、高校生じゃないアイツなんか、すぐに不審者扱いされるはず。ってか、まともな頭があったら、学校の中まではさすがに追ってこないでしょ。
ストーカーをまくために余計な回り道をしたせいで、もう完全に遅刻な時間だ。
だから、学生っぽい人はさっきから見かけなかったが——
強めの雨でくすんで見にくいが、向かいから私と同じ女子高生が歩いてくる。
私はブレザーの制服だけど、あちらは違う。どうやら、隣町の高校の子だ。
ここらじゃ最近はめっきり減ったセーラータイプなので、目立つんだよな。
私は、わらにもすがるような思いで駆け寄って、ダメもとでその子に声をかけた。
「あの……」
その子は傘をちょっと上げて、私に顔を向けてきた。
よかった。今までのような「能面」じゃなくて、ちゃんと表情がある。
「なぁに? なにかあったの?」
安心した。やっと、フツーに声を出して対応してくれる人間を捕まえることができた。でも不思議だ。私は「あの……」と声をかけただけで、困っているとも何とも言ってない。道を聞いてきただけかもしれないのに、「何かあったの?」って聞いてきた。
まぁ、私がそれだけ切羽詰った表情だったからかな?
それで、深読みして何か事情があるんだろうと考えたのかも。
「うん。ちょっとね、怪しいやつにあとをつけられてるの」
学校は違うけど、同じ高校生だからため口でいいかな、って思って敬語は使わないことにした。
仮に使ったところで、うまく使えないだろうけどね……
「それって、アイツのこと?」
その子は、私の後ろのある一点を指差した。
確かに。電信柱の陰に、アイツが潜んでいる。
「う、うん」
「逃げるよ」
その子は、短くそれだけ言うと、私の手を取ってダッシュしだした。
傘も放りだして。私も、全力で走るのに邪魔になって、同じように傘を手放した。
私たち二人は雨に打たれるがままになったが、構わず走る。
髪の毛が頬にべっとりまとわりつく。
雨水がローファーと靴下を通り越して侵入してきて、気持ち悪い。
でも、何か爽快だった。
ヘンだよね。何かに追われている状況なのにね。
私には、兄弟はいない。
でも、『お姉ちゃん』という存在がもしいたら、こういう感じなのかなぁ、って。
私を引っ張るその手は華奢で、楽器でも上手そうな繊細そうな指。
でも、そこからしっかりしたエネルギーの流れみたいなものを感じる。
どういうわけか、体の一部が彼女とつながっているというだけで、妙な安心感が流れてくる。
しかし、その一瞬の安心が命取りになった。
私のつま先が、路上のアスファルトの裂け目につまづいた。
大きくバランスを崩した私は、固く握られていたその手を離してしまった。スピードを出して走っていたので急には止まれず、お互い5メートルほど離れてしまった。
雨のせいで外見には全然分からないだろうけど、じわっと涙が溢れてきた。
……私を置いて行かないで。
ひとりにしないで。
声には出さなかった。ちょっと大きめの声で言った、心の中の独り言。
言い終わった瞬間、ものすごい力が私を背後から引っ張った。
首の向きを変えて確かめるまでもない。アイツだ。
私は、数メートル先でこちらを見ているあの子が、この怪力男に勝てる気がしなかった。
間の悪いことに、その道路周辺には、高校生の女の子二人とそのストーカー男以外誰もいない。
絶体絶命、ってこういう時に使う言葉なのかな?
私は、見捨てられても仕方がない、と思った。
誰だってさ、自分のことがかわいいでしょ?
人助けってのはさ、基本自分が安全な保証があってこそ、できるものだと思うんだ。余裕があってこそ、できるものなんだよね。
人を助けて自分が大変な目に遭う、ってそんなの物語の中だけ。
親だとか好きな人のことだったら、あるいは体を張って守る人もいると思う。
でも、目の前の子は、さっき偶然会ったばかりの他人。時間にして十分すら経ってない出会い。その相手が、私のために勝ち目のない格闘に参加する理由なんてある?
……逃げて。別にいいよ。二人とも犠牲になるより、一人のほうがまだいい——
私はそう思って、目を閉じた。
私を羽交い絞めにしたままアイツはその場から去ろうとした。
どうやら、目的は私だけらしい。
目撃されようが後で通報されようが気にしないのか、もうひとりの子のことは気にもしてない。
大した自信ね。こんなのに狙われた私は、もう終わりかも……
でも、雨音以外は静寂が支配するその空間を破って、大きな声が轟いた。
「あなたをひとりぼっちになんかしない。
私は逃げない。
あなたを置いていきはしない——」
体を抱えられているのでよくは分からなかったが、どうやらストーカー男は体当たりを食らったようだ。
アイツが体のバランスを大きく崩すと同時に、私を抱える腕の力がゆるんだ。
ここぞとばかりに、私は身をよじって、脱出を試みた。
でも、すぐに体のコントロールを取り戻したアイツは、私を離さぬまま体制を立て直した。視界の悪い私にはチラッとしか見えなかったが、あの子だ。さっきの女の子の足が、物凄いスピードで迫ってきた。
恐らく、アイツの頭にヒットしたんだろう。鈍い音がした後に、アイツもろとも私は道路に叩きつけられた。
もう体中、雨水がしみていないところなんかなくなっていた。
でももう、そんな気持ち悪さなんかどうでもいい状況だった。命がかかっていた。
私は濡れそぼった体をよじって、男の腕から脱出した。
しかし敵もさるもの、まだ意識はあるようだった。
すぐには動けないようだが、目はこちらの動きを追っている。
「行くよ」
その子は、私をおんぶして走り出した。
見た目華奢で、全然体育会系に見えないこの子のどこに、そんな力があるんだろう? あのストーカーを倒したのも、よく考えたらこの子だ。
それよりも不思議なのは、私が口にしたはずのないあのこと——
ひとりにしないで、置いて行かないでという心の声に、あの子が偶然にも答える形になったこと。
考えにくいが、私の心の中を……読んだ?とか?
そんなことをつらつら考えている間にも、その子は私をおぶったまま雨の街を駆けていた。
「……ありがとう」
学校の前に着いた。
目の前のこの子は、いわば命の恩人だ。その恩人に、ありがとうくらいしか言葉が出てこない自分が、ちょっと情けなかった。
「ま、この後はまっすぐ保健室に行くことだね。まずは服をなんとかしなきゃだね」
目の前の子は、自分もズブ濡れなのに、私を気遣ってくれた。
「先生や警察に相談するのは、その後で間に合うから」
私は、人生で他人からこんなに親切にされた経験を思い出せない。
おそらく、これが最初だろう。
まさか、道で偶然会った同年代の子に「あなたはひとりじゃない」と教えてもらうとは思わなかった。あれだけ孤独だった私の心は、こんなに辛い体験だったけど、今は満たされている。
「……また会いたいな」
私は恥ずかしがり屋だが、この時は自然と言葉が出た。
私たちはお互いに名前を教え合った。ケータイ番号も交換したかったが、防水でないスマホだったのでお互いオシャカになっていた。
メモるにも、紙という紙は全部びしょぬれで、書き留めるというわけにもいかなかった。
「じゃあ、雨がやんだら——」
曇り空を見上げて、その子は言った。
「その時私から、会いに行くね」
【一週間後】
「……今日は、正直来てくださるかどうか不安でした」
都内の、とある喫茶店の店内。窓際の席に座る一人の女子高生の向かいに、あとからやってきた中年女性が腰を下ろした。
「ええ、私も最初にあなたから連絡を受けた時には、あり得ない話だと思いました」
外は、天気予報通りの雨。広い窓の全面を、無数の雨粒が濡らしていた。
「うちの里美から、藤岡美奈子さん、という名前は聞いていました。だから、あなたから最初の電話があった時に、名前が一致していたので、ああこれはただのホラ話じゃないな、って分かりました」
あとから来た里美の母は、注文を聞きに来たウェイトレスにコーヒを頼む。
そして、一度中断した話をまた始めた。
……うちの一人娘、里美は——
高校1年生の時に、ひどいストーカー被害に遭いました。
訴えても、警察はあまり親身になって動いてはくれませんでした。
実際、一定の距離を取って近付いては来るようですが、間近まで来て話しかけたり、体に触ったりという実害が一切なかったことも一因でしょう。事が起こってからしか動かないのが警察だ、という話がテレビドラマの中だけの話じゃないとよく分かりました。
でも、手をこまねいているうちに悲劇は起こりました。
いきなりです。それまでは、遠巻きにつけてくるだけで、話しかけさえしなかったのに——
人気のない路地で、あの子は襲われました。
言葉にするのもイヤですが、事に及ぶ前に人が通りがかったので未遂に終わりましたが……服を破かれ、半裸にまでされたあの子の心の傷はかなり深いものでした。
犯人は捕まりましたが、それで事件は終わりません。
あの子は、あの犯人がまだそこらをうろついていて、自分を襲おうと狙っている、という妄想を抱き始めました。里美にとっては、もうそれは妄想ではなく「現実」のようでした。
里美は『妄想性障害(パラノイア)』と診断され、重い統合失調症のように入院するほどではなかったのですが、大事を取って精神病院の病棟に空きがあったので、身を寄せました。
犯人は捕まっていて、里美のところに現れることはないのだ、といくら説明してもダメでした。きっとくる、とかひどい時にはホラ、そこにいる……ということの繰り返しでした。
それがどうでしょう。ある日、急にあの子は変わった。
「おはよう」って明るく挨拶してくる。
妄想のようなことも言わず、あの事件が起きる前のあの子そのものでした。
精神科医も看護師も、ただ首を傾げるばかりでした。この子に何が起きたのか、不可解だと。
里美は、「隣町の高校の藤岡美奈子ちゃんのおかげなの。あの子が雨の降る日に、あいつから私を守ってくれた。だからもう、怖くはないの」と繰り返し言います。
入院以来、一歩も外に出ていない里美が、そんな体験をするはずがない。
だから、あなたから電話があった時、会ってみる気になりました。
あなたが、うちの里美と何かしらの関りがあったことを認めないと、この件は説明がつかないと思ったんです。だから、どんなに信じがたい話でもちゃんと最後まで聞きますから、是非今回の件の真相を聞かせてください——。
それに対する美奈子の返答は、以下のようなものだった。
「……私の通っている高校は、里美さんの学校の隣町にあって、お互い日常生活の活動範囲が違います。だから、普段は出会うことも、知り合いになる機会もありませんでした。
でも、ある日私は、特別な用事ができて、普段は歩き慣れないこちらの町を歩いていました。すると、私には里美さんが道端で怯えているのが見えたんです。
お母さんがおっしゃるように、里美さんは現実にその場にいたのではありません。
正確な言い方じゃありませんし誤解もある表現ですが、それは里美さんの「生霊」です。
「いきりょう」。そう呼ぶのが怪しいということでしたら、強すぎる思念エネルギー体と言ってもいいです。とにもかくにも、他人には「妄想」でも里美さんにとっては、まぎれもない現実だったわけです。
きっとそこは、里美さんが犯人に襲われたいわくつきの場所だったんでしょう。
にわかには信じがたいとは思いますが、私はエスパー、いわゆる超能力者です。
だから、現実にはいない里美さんが、そこに見えたのです。
だって、里美さんには「現実」だったから、私の特殊な視覚がその恐怖の体験をしている里美さんを認識できた。私はとっさに判断しました。彼女に付き合って、彼女をその妄想に絡め取ってしまう「元凶」と向き合い克服しないと、いつまでもそこから抜け出せない、と。
私は、里美さんの妄想……いやそう呼ぶのは失礼かな? 彼女なりの「現実」に付き合うことにしました。だから私は、里美さんの「内的世界」に登場することで、いわば彼女の夢の世界に侵入した形になりました。
相手の思いの世界に、自意識を持った他人が侵入するのは、かなりのリスクを伴います。でも、それでも私は助けずにはいられませんでした。
だって——
私を置いて行かないで。
ひとりにしないで。
……これが聴こえてきたからです。
私も、人とは違う力を与えられ、そのことで良いことばかりどころか、苦しむ経験のほうが多かった。
だから、私には里美さんの心の叫びがよく分かりました。
いいえ、むしろまったく同じだと言ってもいい。
だから、里美さんを助けないなら、それは自分を助けないのと同じだ、と思えました。彼女に幸福な未来がないなら、私にもないのだ、と認めることになると思いました。大げさに聞こえるかもしれませんが。
里美さんの思いの世界では、普段使っている超能力は使えませんでした。
だから私は、彼女の思いの中に住む犯人と、人間としての力で戦うしかありませんでした。思いの世界の中とはいえ、叩かれれば痛い。血も出る。感覚は、現実そのままです。
でも、不思議と勇気を与えられました。力も湧いてきました。
なぜでしょうか、私には里美さんが 「妹」のように思えたんです。
彼女も私も、一人っ子みたいですね。同級ですが、人生経験のことだけでいえば能力のせいでやたら大人な世界ばかり見てきた私を、「お姉さんみたい」と里美さんは思ってくれたみたいです。
とにかく、私と里美さんは、架空の敵とはいえ心の闇に打ち勝ちました。
もう、大丈夫です。里美さんは、今からきっと、これまでの分も幸せを取り戻すでしょう——」
長い話を聞き終えた里美の母は、ふと窓の外を見て小さく声を上げた。
「あら、いつまにか雨がやんでますね」
「……ホント」
母親は、バッグの中から電話番号をメモした紙を取り出し、美奈子に手渡した。
「里美の携帯の番号です。里美が話してましたが、その……あの子なりの現実の中では、携帯が雨水でダメになったうえに、番号をメモする紙すら使い物にならなかったみたいですから、改めて」
椅子から腰を浮かしかけた母は、思い出したように付け加えた。
「雨がやんだら、あなたが迎えに来る。あの子は病棟でそればっかり言ってました」
外をよく見れば厚い雲を掻き分けて晴れ間が覗いており、うっすらと虹も確認できた。じきに、空は晴れてくるだろう。
「昨日退院して、里美はあなたを待っています。会ってやっていただけませんか?」
「もちろん」
美奈子は傍らの通学カバンをつかんで、勢いよく立ち上がった。
「雨上がりには迎えに行くね、って約束したんですもん!」
思いの世界ではない、初めての里美との出会いに、美奈子は心弾むのだった。
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