7 【第ナナ話】 (約2300文字) 【向こう側 the other side】

【一口ショートホラー】

7 【第ナナ話】


【向こう側 the other side】


 深夜。

 鏡の怪異の話を聞き終えて帰宅したわたしは、顔を洗うために洗面所へと向かう。

 鏡の前に立って、ふと自分の姿を眺めたとき、気付いた。鏡に映るわたしの背後、ちゃんと閉めずに少しだけ開いている洗面所のドアと壁の隙間に、皮と骨ばかりのような、透き通るほどに白い手が覗いていた。

 わたしのところに来たらしい……。どうやら、この怪異は移動するタイプのもののようだ、聞いた者のところへと……。

 後ろを振り返るが、そこには何もない。これも話に聞いた通り。

 前を向き、ドアをつかんでいる白くて細い手を鏡越しに眺め続けていると、スーッとドアが音もなく開いていき、徐々に手が、腕が、肩が、現れ始め、その指先がこちらへと差し伸ばされてくる。

 わたしは鏡の中へと視線を向けたまま、腕を背後へと伸ばし、こちらに向かってくる華奢な手をつかんだ。

 そして決して離さないように力を込めて、思いきり、弱々しいその手をわたしの方へと引き寄せる。……と。


 まるで石を投げ入れた水面のように、鏡が波打って、その向こう側から、顔が隠れて見えないほどに髪を伸ばした、一人の人物が飛び出してきた。


 わたしはその人物の身体を抱きとめて、そっと床へと下ろす。

 身長はわたしよりも少し低いくらい。年齢はおそらく十代半ばくらいだろうか。白いワンピースを着たその人物は、自分に何が起こったのか理解できないという風に、きょろきょろと辺りを見回す。

 そっと指先を触れて、わたしがその人物の長すぎる髪の毛をどかすと、中から現れたのは、頬がこけてやせ細っているものの、悪意など全く感じられないような、無邪気で可愛らしい少女の顔だった。

 ……なるほど……そういうことだったのか……。

「あ……え……」

 こちらを見上げ、驚きと困惑が入り混じった表情を向ける彼女に、わたしは優しく話し掛ける。

「安心していい。きみは自由になったんだ」

 わたしは洗面所の鏡を見やった。

「きみは鏡のある場所、おそらく洗面所にいたときに、何かしらの原因で死んでしまったのだろう? そして死後、きみの魂は鏡の中に閉じ込められてしまった」

 もう一度、彼女へと顔を向ける。

「鏡を覗き込んだ者に手を差し伸ばしたのは、その者を鏡の中に引きずり込むため、ではなく、きみを鏡の外へと助け出してほしかったから。ドアに付着していた水滴は、ここから救ってほしいという、きみが流した涙だったんだ。そうだろう?」

 わたしの推論と問い掛けに、こくり、と、彼女は小さくうなずいた。流れるような綺麗な髪をした少女の頭に、わたしはそっと手を触れる。

「もう大丈夫。きみは助かったんだ。鏡の牢獄から」

 わたしの言葉を聞いて、自分の両手や身体を見下ろして、助かったのだという実感が湧いたのだろう、ぱあっと、彼女の顔に喜びの笑みがこぼれた。

「……あ、あの……あなたは……」

 見上げ、問い掛けてくる少女に、わたしは答える。

「わたしはヨウゾウ。オオバヨウゾウ、だ」

 感謝の念を示すように、彼女は手を組み合わせて、


「助けてくれて、ありがとう……ヨウゾウさん……」


 最後にそれを伝えると、少女の身体が淡い光に満ちて、天に昇るように静かに消えていった。


 携帯端末に連絡が入る。画面に表示されたのは、よく知っている相手だった。

「なんだ、きみか。斡旋屋」

『なんだとはなによ。せっかく連絡したのに』

 少し不機嫌な、少女のような女性の声が聞こえてくる。

『知り合いの怪異から聞いたんだけどね、鏡の怪異について新しい情報が入ったわよ。長すぎる髪のせいで顔は分からないけど、白いワンピースを着ていて、少女のような外見をしているんだって。どうも、朝、洗面所で顔を洗っているときに大きな地震が起きて、鏡に頭をぶつけて死んじゃった子らしいわよ。名前は『ナナ』っていうみたい』

「へえ、ナナちゃんといったのか、あの子は」

『あれ? その口振り……もしかして、もう解決しちゃったの?』

「まあな。きみにとっては残念な話かもしれないが」

「なによ、ひとを守銭奴みたいに。でも、ちぇっ、せっかく新しい情報伝えたのに、これじゃあ追加の情報料がもらえないじゃない」

「やはり守銭奴じゃないか」

 わたしのつぶやきを意に介さないように、彼女が続ける。

『でも、すごいわね。さすがは【人間失格】なだけあるわ』

 感情を消して、わたしは不愛想に言う。

「きみに言われたくはないな。【怪異斡旋屋】。もう用がないなら切るぞ」

『あ、怒った? ごめんごめん。まあまあ、機嫌直して。また変な事件や怪異の話が入ったら提供するからさ。もちろんお金は取るけど』

 わたしは溜め息を吐く。

「わたし以外に客はいないのか、きみには」

『あたしだって頑張って開拓しようとはしてるんだけどね~。あんたみたいに、お金を払ってまで怖い話や変な話を聞こうとする人って、なかなか見つからないのよ。あんたは【人間失格】だけどさ』

 わたしは再び無愛想に言う。「切るぞ」

『もうちょっとだけ話を続けさせなさいってば。……それで? いま何話目くらいになったの?』

「…………。七話目、だ」

『へえー、まだそんくらいなんだ。それじゃあ、【百物語】まで、あと九十三話ってところね。で? 【百物語】を語り終えたとき、あんたは何を願うつもりなの?』

 プツンッ。

 わたしは通話を切った。




 鏡の中、中途半端に開いたドアに何かが見えたとしても、どうか慌てないでほしい。

 そして、それが本当に悪意あるものなのか、邪悪な存在なのか、見極めてから行動してほしい。

 あるいは、それはあなたに危害を加えようとしているものなのかもしれない。

 しかし……。

 もしかしたら、それは、鏡を見ているあなたへのSOSの可能性もあるのだから。




 ――スーッ。




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