第40話 ソリチュード・ワールド

 ―――私の、せいだったんだ。


 咲久さくは混濁した意識の中で、その事実に行き至った。


 一年前。


 “個”のない世界―――ソリチュード・ワールドから、幽霊のような生命体がやってきた。


 は、偶然、彼女さくの中に入った。


 は、初めて見るに怯えた。


 最初は、咲久の心にある“自己嫌悪”に作用し、彼女を排除する群衆を作り出した。周りの人間の意思を剥ぎ取り、操る力を行使した。


 やがて、の力は広く伝染していった。


 大きな怒りや憎しみに“扇動”され、周囲の人間は次々と“感化”されていく。


 時として街を壊すほどになったの力を人は“モブレイヴ”と呼んだ。


 そして、今。


 の力は、咲久の意識すら飲み込み、彼女を中心に増幅し、拡大し、この世界の心を、一つの色に染め上げようとしていた。


 北京。

 モスクワ。

 ウランバートル。

 デリー。

 イスタンブール。


 世界中で、ニュースが叫んでいた。


「人間が、人形のようになっている」と。


※※


 六月三日。夕方。一台のレクサスが、大阪に到着した。


「……遅かったか」


 氷月は、アウディの代車として手配した車から降りると、険しい表情で、そう呟いた。


 車が。

 街が。

 人が。


 


 通りの人々はその場に立ち止まり、あるいは座り込んだまま動かない。


 その顔に、性別や、ある程度の年齢以上に個を判別できる要素はない。


 


 着信。組織から。ワンコールが終わる前に出る。


『氷月、状況は』

「街中が丸ごと蝋人形館だ。一両日中に、世界は孤独の世界ソリチュードワールドからの客人の所有物になる」


 氷月とて例外ではない。今も心を塗り潰し固める、タールのような何かが這い寄る気配があった。


「世界が終わる前に、仕事にかかろう」

『了解。死ぬなよ』


 その冗談ともつかない声に、氷月は返答できなかった。


 今一度。


 は他者を認めない。


 別世界の主が操る人間たちが、他人ひづきへと、一斉に襲い掛かってきた。


※※


「―――とまぁ、新たなモブレイヴを潜り抜けてきたわけだ」


 同日午後十時。守恒もりつねの実家。関西中の人間とカーチェイスを繰り広げた氷月が、ことのあらましを説明し終えたところだ。


「ところで、お父上は大丈夫なのか。前歯が折れているようだが」

「ひょういんひは、へんらくひまひたが」

「病院には連絡したと言ってます」


 守恒が通訳するが、全人類が一つの意思の元で操られている状況では、救急車すら来るかどうか。仕方なく、氷月が応急処置をする。


「誰に襲われた?」

「僕がやりました。せっかくモブを卒業したのに、またモブになろうとしてたので」

「家庭内暴力の理由としては特殊過ぎるが、俺の仮説が当たっていたようだ」

「仮説って?」

「自我の強い人間に、モブレイヴは効かない。そして、まだ洗脳が浅いうちにば元に戻る―――よし、止血はした。差し歯の持ち合わせはないので、これで我慢してもらおう」


 治療を終えた氷月は、守恒に訊く。


「さて、坂ノ上さかのうえ咲久さくさんはどちらにいるかな?」

「僕が知っているとでも?」

「今の君なら分かるはずだ」


 氷月は断言した。

 守恒は、吹っ切れている。

 そう判断した。


「関空から既に出国しているところまでは掴んだ。だが今は2030年だ。一日あれば地球上のどこにだって行ける。闇雲に探すには少々広い『ウォーリーを探せ』だ」

「先輩の行きたそうにしてた国なら何となく分かりますけど」


 今は“お化け”に操られている。手がかりなし。八方ふさがり。


「ツネ!」


 しかし、状況は二つのことから動き出した。


「開けてくれ!!」

「お願い!!」


 ただならぬ叫び声。一馬かずまだ。そして、腹違いの双子の母親たち。


「どうした、かず―――まっ!?」


 ドアを開けると、家の前がカーニバルだった。ゾンビパニックの様相。モブレイヴ。ご近所さんが、正体を失くして群がっていた。


「立てこもるとジリ貧だな。押し通る。全員目を閉じろ」


 氷月が何かを放り投げる。墨家と倉本家の人間が目を閉じる。眩い閃光。スタングレネード。


「ちょっと狭いが俺のレクサスに全員乗り込め。走れ」


 目を押さえうずくまるご近所さんを押しのけながら、堂々と路上駐車されていた自動車に乗り込んだ。急加速。


「一人二人轢くかもしれんが、目が覚めるのなら丁度いい」


 恐ろしいことを平然とのたまう氷月がハンドルを捌く。奇跡的に、触車した人間はいなかった。


※※


 どうやら、“モブ”たちに与えられた指令は、モブ化していない人間を見つけたら襲えということらしい。


 故に、見つからないように別の場所に立てこもることになった。


「おやおや、お早いお帰りだったね、スミス」


 カフェ・シューメイカーの店主が、呑気に出迎える。


「父を連れてきましたよ、ボブ」


 ぎゅうぎゅう詰めの車内から降りた守恒は、父親を紹介する。


「あ、あの、息子がお世話に―――」

「やぁお父さん、初めまして。……前歯はどうされたのです?」

「親子の語らいですよ、ボブ」

「ふふん、グッジョブだ、スミス」


 ウィットに富んだ守恒とロバートの会話に、父・邦光は恐れおののいていた。


「さて、思ったより状況は切迫しているな。あと数時間で、日本はモブに飲み込まれるだろう。世界が終わるのは、さらにその数時間後ってところだ」


 氷月の予言を受け、守恒が言う。


「とりあえず、コーヒーかハーブティでも飲みましょうか。用意してきます」

「ツネ、お前ってほんとこういうとき肝据わってるよな。俺の母親たちなんてボロボロなのによ」


 一奈が心配なのか、一馬もそわそわと落ち着かない様子だ。


「落ち着くには、温かいものが一番だよ」


 そう言う守恒も、決して完全に冷静なわけでもない。厨房に入ろうとして、トイレのドアを開けてしまっていた。


「お兄ちゃん……?」


 飲み物の準備をしていると、涼風すずかが二階の部屋から降りてきて、声をかけてきた。


「どうした、涼風」

絵斗那えとなさんから、電話。助けて欲しいって」

「何かあったのか」

「ブログに世界中からコメントが来て手が回らないから手伝ってほしいって」

「この非常時にもか」


 呆れながらも、どこか安心した守恒は「ちょっと見せて」と、涼風からタブレットを借り、絵斗那のブログを閲覧した。


「ほんとだ。見たこともない数のコメントが、見たこともない言葉で書かれてる」


 空前絶後の大炎上だ。それにブログ主たる絵斗那が百人組み手を挑んでいた。あっぱれなネット弁慶ぶりだが、それがさらに燃料となり、今では世界を震撼させている“モブレイヴ”の元凶呼ばわりだ。


「―――あれ?」


 翻訳アプリを利用しながら読んでいくと、その中の一つに、「背の高い女が来てから人間がおかしくなった。お前の手下か」というものがあった。


「氷月さん! 分かりました」


 そのコメント主が書いた場所に、守恒も行ったことがあった。ロシアの空港。


「東亜です。あの時間にあの空港。間違いない。先輩はそこに向かってる」

「全体主義国家か。モブ好きな幽霊が好みそうな場所だな」


 ネット弁慶も使いようだった。

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