第38話 帰宅

 雨はあくる日も降り続いた。どうやら梅雨入りも発表されたらしい。


 サブはレコーディングの仕事があるため、名古屋に帰って行った。

 事件で怪我を負った東亜民援事務局長・克也かつや真緒まおの退院の目途も立った。

 カフェ・シューメイカーが臨時休業を挟んで再開した。

 守恒もりつねは、寝不足の身体を押して店のオープン作業を片付け、涼風すずかとともに登校していった。


 一見すれば、日常が何事もなく再開したかに見えた。

 しかし、それを支えていた底が抜けていた。

 大切で、決定的なものが壊れてしまっていた。


 坂ノ上さかのうえ咲久さくは、一晩経っても発見されなかった。


「守恒様……」

「守恒さん」

「……ん? どうした」

「「お茶、飲めてませんよ」」


 ランと涼風から声を揃えて言われてしまった。


 守恒は虚ろな目で、びっしょり濡れてしまった制服を見つめていた。


 咲久も同じミスを犯していたなと思い出す。


 ―――先輩。


 昼休み。生徒会室。


 心ここにあらずを超えて、ただならぬ様子の守恒に、クラスメイトでチームメイトの恵華えっかも話しかけられず、後輩二人に助けを求めた結果、静かで人の寄り付かないここで食事を摂ることになった。


「ほんの何人かお休みしてるだけですのに、なんだか、学校が酷くがらんとして見えるのですよ」と、ランが呟く。


「そうだね。火が消えたみたい。……ふふっ。いっつも賑やかにしてくれる人たちがいないからかな?」と、涼風も同意する。


 今はいないこの部屋のあるじ、真緒の見舞いで、一奈かずなも学校を休んでいた。


 その兄、一馬かずまは、坂ノ上姉妹たちのシェアハウスに行っている。咲久の失踪で、姉の咲希さきが相当に取り乱してしまい、なだめ役として白羽の矢が立ったのだ。


 それらの影響で、女子サッカー部の練習は中止。咲久が戻ってくるまでは半休部状態だと思っていたが、どうやら恵華が中心となって、自主練習を計画しているらしい。だが、今週末の試合で勝てるかは微妙だ。


 何故か絵斗那えとなも休んでいる。やっている個人ブログに、とんでもない数のアクセスとコメントが集中していて、それを捌いているらしい。何をやっているのだと守恒は思ったが、元気そうで安心した。


 こぼしたお茶を拭き終えると、ランが訊いた。


「咲久様のことが、心配でございますか」

「うん、それももちろんあるんだけど」

「お兄ちゃん、しばらく実家に帰ることになって、そのことで頭がいっぱいなんだよ」


 涼風が、わざとふざけた調子で言う。


「別にいっぱいってわけじゃ―――いや、いっぱいかな」


 昨晩、意気消沈する守恒に、ロバートが暇を出したのだ。


「事情はなんとなく分かった。咲久さんは、愛する家族の期待と犠牲に応えようと必死だったんだね」


 モブレイヴなどの特殊なことは省いて、咲久との最後の会話を守恒から聞かされたロバートは、そう言った。


「期待と犠牲、ですか」


「自分が辞めたいとわがままを通せば、それを裏切ることになる。知ったかぶった人間はサンクコストなんて言ったりするんだろうけど、クソ喰らえだね。そんな単純な問題であってたまるか、だよ」


 熱を帯びた声を収めるように、ふう、と息を吐く。雨粒が、キャンピングカーの天井を叩いている。ロバートが、また話し始めた。


「家族とは、逃れられぬくびきのようなものだ。生まれたときから、その人を縛り続ける、永遠の宿命。それに祝福される人もいれば、そうではない人もいる。すべては神の思し召し、と、ボクの父なら言うだろうね」


 ロバートはそこで分厚い唇を皮肉げに歪めた。微笑と憮然の中間。


「ボクはね、スミス。この国で育ったアメリカの黒人として、色んなものを見てきたんだ。君は学校に行きながら働いて、娘や、いろんな人たちの助けになって、とても頑張っているけれど、ボクはそれよりもほんの少しだけたくさん頑張ってきた自信があるよ」


 ほんの少し、などというものではないだろう。マイノリティの外国人として、店を構え、家族を養う。その努力を思えば、自分などの倍でも利かない。そう、守恒は思った。


「だから言うよ。スミス、君はしばらく、仕事を休むんだ」

「え?」

「ボクがいいというまで、ダメだよ。その間、君は実家に帰り、お父さんと一緒に暮らすんだ」

「ボブ、どうして―――」

「君が君らしくないからだ。いつもなら、着るものもとりあえず飛び出して、咲久さんの捜索に加わっているはずなのに、会わせる顔がないと、しょんぼり帰ってきてしまった。君の悪い虫が出てきてしまっているんだ」


 悪い虫。心当たりがなかったが、ロバートは見事にそれを言い当てた。


んだ。人を愛することはできても、愛される自信がない。それを振りほどこうと必死になればなるほど、君はその思いに絡めとられる」


 自信のなさ。自分が胸を張って咲久を探しに行けない理由。


宿。今のままじゃあ、君はいつまでも、君を愛してくれる人と向き合えないだろう。だから、まずは君を縛る家族しゅくめいと向き合ってくるんだ。君ならできる」


 ロバートの形相には、有無を言わせぬ迫力があった。眉間に刻まれた皺の深さは、彼の生きてきた苦難の歴史だろうか。


「そして、いつかここに帰ってきたとき、今度こそ、ボクらと家族になってくれると嬉しいな」

「……っ!」

「涼風のこともよろしく頼みたい―――いいや、これは冗談だよ?」


 そう言って、口調と表情を、いつもの“ボブ”に戻した。


※※


 どこにでもある、閑静な住宅地。木瀬川高校からバス一本の、その一角。


 守恒はその敷地に入れず、立ち尽くしていた。


 もう、帰らないと決めていた。その自宅の、のドアが開いた。


「おかえり、ツネ。とりあえず、俺んちに入れよ―――咲希さんは、とりあえず大丈夫だ」


 物心ついたときからの幼馴染。


「……今ちらっと玄関の奥にいたのは、どっちの母親?」

「どっちも母親だよ」

「相変わらず難しいね」


 近所でも曰く付きな“腹違いの双子”の長男・一馬だった。

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