第37話 モブレイヴの震源

 栄の大規模暴動から二日後。市立木瀬川きせがわ病院。



   同じ夢の中で 遠い海を眺め

   同じ星を繋げてみても 違う物語


   歌おう君の指先が爪弾いた音で

   君に届くように



   同じ夢の中で 遠い空を見上げ

   もやに月が隠れていても 二人繋いでる


   離そうとした指先が 言葉さえ超えて

   愛を伝えたね



   歌おう君の指先が 爪弾いた音で

   空を 海を 超え 届け




 サブに借りたタブレット。それに接続されたワイヤレスヘッドホンから流れる『ユビサキ』。守恒もりつねは、それを聴きながら、待合室の椅子に座っていた。


「いい歌だったな」


 歌が終わったタイミングを見計らったように、サブがやってきた。


「最後にちょっとしたケチがついたが、君のステージングは、百点だった」

「そうでしょうか」


 言葉に力が無い。名古屋の病院で一泊。真緒まおの容態が回復したところで木瀬川の病院に移って、さらに丸一日。流石のハードワーカー守恒も、疲れの色が隠せない。


「それにしても、アンタに助けられるとはな。若月志朗パブリックエネミーさんよ」


 サブの呼びかけに、やや余裕のある渋面を作ったのは、若月わかつき志朗しろう。元財務大臣、政界の大物、地元の有力者、そして現在は轢き逃げ容疑で保釈中の身の上。


「外はどんな感じだ」

「控えめに言って、地獄絵図の一歩手前だ。デマと風説に乗せられた憎悪犯罪やデモが、全国で画策されている。死者が出ていないのは、奇跡だろうね」


 先ほどまで煙草を一服していた若月は、守恒の隣にどさりと座った。こちらも、かなり疲れている。


「こんなことは、前にもあった。父が遭遇した戦時中の集団パニック。集団虐殺。人はかくも脆いものだと教わったよ」


 若月が在日本外国人への支援を始めたきっかけでもあるという。


「まったく、SNSどこ掲示板かしこも東亜人を殺せなどと息巻いているが、連中に区別がつくのか。あの国は多民族国家だ。大陸系、ポリネシア系、南アジア系、日系だっている。そして、この国に在する東亜人かれらは、皆、日本語を話せる」


「どうなるんですか」


 守恒が訊く。若月が、忸怩じくじたる思いを振りほどくように首を振って、言う。


「間違えて他の外国人、下手をすれば日本人が殺傷される可能性が極めて高い。人種差別と絡んで、とんでもない国際問題になることは目に見えている。そして―――ああ、なんということだ」


「第三次大戦だ。だろう? お偉いさん」


 逡巡する若月の代わりに、サブが言った。


「その発端が、“モブレイヴ”などという得体の知れない集団パニックとはな」


 最悪のシナリオが、動き出そうとしていた。


※※


 若月の手配であてがわれた広い病室に行くと、咲久さくが真緒を見舞っていた。


「今、寝たところ」


 守恒がそっとベッドの様子を伺う。痛々しく頭に包帯が巻かれているが、命に別条はなく、障害も残らないそうだ。


薬利くずりさん、私を庇ってくれたんだ」


 守恒は、肯定も否定もしなかったが、その通りだった。あのとき、咲久を狙った“モブレイヴ”が、また起こっていた。


 一体、“扇動者”は何者で、どこにいたのだろう。涼風すずかが撮影した映像を観てみたが、それらしい見知った人物―――咲久に執拗な恨みを持った人間は確認できなかった。


 なんとしても“震源”を突き止めなければ。問題は、戦争の引き金になるかどうかまで来ている。


「僕なんかに、そんなことが―――」

「大丈夫? 守恒くん」


 口をついた小さな弱音が、咲久に聞き届けられたらしい。真緒を起こさぬよう、個室の隅で椅子を並べ、座る。


「うふふ。お疲れの守恒くんに、お姉さんの肩を貸してあげよう」


 おどける咲久の言葉に何も返せず、ただただ甘えてしまう。首を彼女の肩にもたれると、一瞬動揺が伝わったが、すぐに落ち着いた。


「大変だったね」

「……はい」

「あのね、守恒くん」

「はい」

「私ね、ほんとは、サッカー、辞めたかったんだ」

「―――え……?」

「お母さんは怖いし、お姉ちゃんは厳しいし、それを見てるお父さんは、悲しそうだった」


 涙のように、咲久の言葉が零れ落ちていた。


「私がもっと強い子だったら、こんな風になってないのかな、とか、はっきり嫌だって言えてたら、とか、いろいろ考えてた」


 守恒は、聞きたくない、と思ってしまった。


「高校に入って、いじめられてる先輩がいて、それなのに部はいい成績だった。健全な魂は~なんて、嘘っぱちだね」


 だが、言葉は止まらない。


「で、もういいやって思った。サッカーのことも、応援してくれる人もどうでもいい。どうにでもなっちゃえって。だから、先生に言いつけたの。これで、ようやく辞められるって思ったのに」


 耳を塞げない。


「部活が終わったら、ひとりぼっちになっちゃった」


 心を覆った黒い雲から、雨が落ち始めた。


「誰も、いなくなっちゃった……わたしには、サッカーしか……なかったんだよぅ……。大っ嫌いなものしか、私の中には……ない……っ!」


 顔を覆った両手から、涙が溢れ出る。


「自分なんて、だいっきらい……! このからだも、こころも、ぜんぶ、ぜんぶ、きらい……っ!!」


 自分自身への、強烈な憎しみ。呪い。それに“扇動”されていた、“感化者”たち。


 咲久の呪詛を聞いた瞬間、守恒は理解した。


 “震源”は、坂ノ上先輩このひとだ。


「ごめんね、守恒くん。嫌な話、聞かせちゃって。……先に帰ってて。私は、お姉ちゃんが迎えに来てくれるから」


 すべてを吐き出し、少し落ち着いた様子の咲久に従うがまま、守恒は石のような足を動かした。


 ―――何も、言えなかった。


 頭だけが、ぐるぐると空回りを続ける。


 ―――これじゃ、モブだ。


 そんなことも、今ではどうでもよかった。


 一人きりの部活。

 サッカーボール。

 夕焼け。

 誰よりも、美しいと思った。

 あの光景。

 あの姿。


 でも、違った。あれは、咲久にとって地獄だった。行っても戻っても、どちらにしたって彼女には苦悩しかない。


 その一つを選ばせたのは―――僕だ。


「……あれ?」


 ―――いつの間にか、木瀬川の堤防沿いを歩いていた。


 生温なまぬるい風。

 湿った臭い。

 梅雨の気配。

 いつ頃からか、雨が降り始めていた。守恒に、打ち付けていた。


 歩けない。

 立ち止まる。

 うずくまる。


「……クソッ……クソッ……!」


 頭も割れよとばかりにかきむしり、守恒はひざまずいた。


 そして、咲久と同じように呪詛を吐き散らした。


 独りよがりに、大切な物を苦しめ続けていた自分自身に向けて。











 しばらくして、ようやく頭が正常に戻ってきた。


 モブレイヴ。

 戦争前夜。

 扇動者。

 震源。


 そうだ。止めなければ。


 濡れ鼠になった身体を走らせ、病院に戻ったとき、既に遅かった。


 坂ノ上咲久は、姿を消していた。


『ごめんなさい。私のせいです』


 そう、走り書かれた手紙だけが、残されていた。

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