第28話 守恒と絵斗那
その日の夕方。
「今日は一段とギアが入ってるね、スミス。もうレ〇ドブルは見えないところに隠したよ」
守恒は、
「こうなったらオールアウトですよ、ボブ。僕もサッカー部の一員ですから」
「それは同じフットボールでもラグビーの方じゃないかな」
「すべてを出し切ってベッドにタッチダウンを決めてやるぞ」
などとアメリカンフットボールの用語を言い、順調に壊れていく守恒を、ロバートは生暖かい目で見守っていた。
「いつか絶対、常連のお医者さんのところに行かせよう」
営業時間も終盤。客も
春物とはいえ黒いダウンにジーパンという出で立ち。丈があっていないのは、メンズを履いているからだ。
「エト。……大丈夫なのか?」
「何がだ、同胞よ」
開口一番、いらっしゃいませもなく心配してきた
「エトの家からここまでは結構歩くし、帰宅ラッシュで、人も車もたくさんだったろ」
「たくさん会った。四回引き返した」
「四回かぁ」
「服も間違えた。もう暖かいな」
「帰りは送っていくよ」
元ひきこもりには、ほんの1.7㎞の大移動だったようだ。苦労をしのびながら、守恒は来てくれた友人に注文を訊く。
「今日は、お詫びとして実験台になりに来てやった」
「そんなマッドなフードは提供してないよ」
「いいから、店長さんと話をさせろ」
「いいけど……」
大丈夫かな、と思った。初対面ではないものの、面識は二回ほどしかない上、ちゃんと話すのは初めてだ。
「いらっしゃいませ、どのようなご用件でしょうか」
口調は丁寧。しかし喋っているのは目算150㎏(四月からさらに増量した)の“ボブ”である。
「て、てて店長さん、あの、墨が作ったハンバーガーを食べたいのですが」
「ほう、料金のサービスなどは出来かねますが」
「もも、もちろん、です。ちゃんと、払います、ので」
内弁慶ネット弁慶な絵斗那にしては噛まなかった方だ。語尾の声量も、猫の髭が風に揺れる音と同等になってしまっていたが、それも及第点である。
「ふふん、スミス。しばらく厨房を明け渡して差し上げよう」
「ありがとうございます、ボブ」
「肩ひじ張って作ったバーガーなんて美味しくないよ。練習通りにやればいいさ」
若干の緊張を察したらしいロバートが言ってくれた言葉を信じ、キッチンに立つ。
席で待っている絵斗那の事を想像しながら、丁寧に、丁寧に作った。
「う……ううう……」
「おい、どうしたエト!?」
マスタードを入れ過ぎたか。ハバネロ抜きの注文を聞きそびれていたか。そもそもやはり自分が作ったバーガーでは満足いただけないのか、などと空回りした頭で考える守恒に、絵斗那はこう言った。
「美味じい゛……」
一安心。しかしながら、どういう情緒だ。
「わだじはなんにもでぎない゛。すみに、めいわぐしか、がげでない゛っ」
空腹だと、感情も表に出なくなる。力いっぱい泣くにも、元気がいるものだ。そういうことなのだろう。
「エト……」
友人を呼ぶ守恒も、何だか泣きたくなってしまった。律義にバーガーの感想を言ってくれた嬉しさか、こんなことを言わせてしまった悲しさか。
「ゆっくり食べててくれ。お店が終わったら、僕の部屋に来てくれるか?」
「へ?」
急なお誘いに、絵斗那の涙がピタリと止まった。
※※
一奈が勝手に上がり込んできたのを別とすれば、守恒が女子を
とはいえ、やり取りは気安い。
「まぁ、狭いところだけど、適当に座って」
「うん……」
そして、そこはかとなく重い。
「モブを辞めても、僕はできないことばかりだ」
口の端を笑ったように歪めながら、守恒は言った。
「さっきみたいに、泣いている友達に何を言ったらいいのかも分からない」
「墨……」
「だから、僕が思っていることを伝えようと思う」
うつむき加減だった絵斗那の顔がようやく上がった。
「僕が知らない名前がある。
守恒は、いつものように、絵斗那のオールバックの頭に、ぽん、と手を乗せる。
「ネットの署名。エトが集めてくれたんだろ? こんな、テレビもない部屋で暮らしてる原始人の僕には、遠い世界だけど」
「……ネット弁慶も、たまには役に立つだろう?」
「いつも助かってるよ」
「それは嘘だ」
「あははっ。ばれたか」
「ふん……ふふっ」
他愛無い会話、ときどき笑い。二人の間にあった悲しみの雰囲気が、風に吹かれ消えていく。
「一馬からは、もっともたれろって言われた」
「うん」
「僕はまだ、その意味がよく分からない。だから、自分がしたいように、相手にしてしまうところがある。それが重荷になってたなら、ごめん、エト」
「そうじゃない……ってことは、ないかも、しれない」
絵斗那は、自分の頭に置かれた手の上に、小さな掌を重ねた。
「今も、そうだ。こうして優しくしてもらうと、すごく安心する。だから頼って、もたれかかってしまいそうになる。そんな自分が嫌になるときも、ある。墨がどうこうじゃなくて、私が……うん……」
尻切れになる言葉の最後まで、守恒はしっかりと聞いた。
「僕がいると、エトが辛いのなら」
「いやだ」
ふるふると首を振る絵斗那。守恒の手を頭からどかし、そのまま、ギュッと握った。
「ねぇ、墨? 私は、君の隣を、いつまでも並んで歩いていたいんだ。一方的に貰うだけじゃなくて、私のことを、君にあげたいんだ、だから……」
言葉が途切れた。一瞬、自分が口にしようとしたことに驚いている様子だった絵斗那は、しかし、次の瞬間には意を決したようになって、こう言った。
「私を……あなたの、彼女にしてくれませんか」
守恒の物語は、新しい局面を迎えつつあった。
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