第25話 咲久の想い、守恒の想い

 ―――ヒロインには、なれないなぁ。


 咲久さくは、傷だらけ、凹みだらけの白いアウディの助手席で、そう思った。


 車窓から見える景色は、台風一過の如き静けさを取り戻していた。


 逃げている最中はとても怖かったが、こうして終わってみると、頭は妙に冷静で、決死の鬼ごっこをしていた身体も、やけに軽やかだ。


 こういうとき、漫画のヒロインだったら、ヒーローに泣きながら抱き着いて、お礼を言ったりできるんだろうな。


 しかし、状況があまりにもぶっ飛び過ぎていた。まさか守恒ヒーローが、本当に車をぶっ飛ばしながら現れるとは思わなかった。


「……運転、どこで習ったの?」

「居候先の店長ボブがクルマ好きなので」


 店の私有地で運転させてもらったことがあったのだそうだ。


 ―――って、違うよっ! 馬鹿ッ!!


 咲久は己を痛罵する。そんなどうでもいいことはどうでもいいでしょ。お礼! 感謝! 感激を雨あられと言わなきゃいけないんじゃないかなっ!


 はぁ……、また一奈かずなに正座させられる。お姉ちゃんに叱られる。さやかさんに呆れられる。


 そして、今日の超絶かっこよかった守恒くんの勇姿を陽が昇るまで語り続けてまた一奈に怒られるんだ。憂鬱だよぅ。


 最後のは完全な自業自得で、自重さえすれば事なきを得るはずだが、そんな考えは脳をかすりすらしない。


 咲久は、驚くほど冷静に、全力で守恒に惚れ直していた。


「先輩?坂ノ上さかのうえ先輩、着きましたよ」


 そんなポンコツ乙女ストライカーだが、車の窓越しに両親と姉の顔を見た瞬間、涙腺が堰を切った。


「う……うわああああああぁぁぁぁぁん!!!!」


 そのまま、手近にあった存在に抱き着く。初めて手を繋いだ時と同じ。考えなしの方が、思ったように動ける。


「せ、せんぱ……」


 抱き締められた守恒は、咲久の頭にそっと片手を置き、もう片方で背を軽く叩いてくれた。


 初めて抱き締めた男性の、守恒の身体は、思ったよりずっと、たくましかった。


※※


 主人公には、なれないな。


 守恒は、アクセルが妙に緩く、クラッチが異常に固いアウディの運転席で、そう思った。


 あちこちにヒビの入ったフロントガラスから見える町は、呆けたように立ち尽くす人々で埋め尽くされていた。


 “モブレイヴ”は終わったらしい。氷月が“扇動者”を倒したのか。それとも、“震源”と呼ばれる異世界の化け物が去ったのか。


 はたまた、何も終わっていないのか。


 何も分からない。


 助手席の咲久は、現実感のない様子で外を見ている。しかし、姿勢はしっかりしている。横顔には意思があり、傷はない。強い人だ。改めて、そう思う。


 立ち返って自分。守りたいものは守れた。及第点。法律はいくつも破った。覚悟の上。


 それでも町が一つ壊れた。

 多くの人間が怪我を負った。

 覚悟を決めても、これが限界。


 車の鍵を貸してくれた氷月は、「墨守恒しゅじんこう」と呼ぶ。真に受ける類の発言ではない。


 だがしかし。


 ―――僕には、無理ですよ。


 大体が、ここまで誰も轢かなかったのが奇跡だ。ガードレールや電柱には、だいぶダメージを与えてしまったが。


 あと、咲久の父に借りた携帯がどこかに行ってしまった。車内にあるだろうか。無ければ弁償。正直、働けど働けどお金が貯まらない状況を、そろそろ脱したい。


 そんな悩みも随分チンケで、モブでなくとも、小市民。苦笑しながら、どうにかスポーツクラブのカフェまで辿り着いた。


坂ノ上さかのうえ先輩。着きましたよ」


 さきほどよりスーツがよれた氷月が店から出てくる。二本指で軽薄な敬礼。


 若月を狙った襲撃があったらしく、地面には十人ほどが、毛皮の絨毯のように倒れている。余裕か。もう全部この人でいいんじゃないか。


 その後ろから、坂ノ上家の面々。


「ほら、安心させてあげましょう」


 と、言うつもりで咲久の方を振り向く。大きな質量が首にぶつかる。そして、抱きしめられた。肩が、熱い涙で濡れる。


「せ、せんぱ……」

「ありがとう、守恒くんっ……! こわかった、とっても、こわかったよぅ……」


 守恒に縋りついて泣き続ける咲久は、“強い人”ではなかった。


 不器用な手つきで頭を撫で、震える背をぽんぽんと叩く。これが正しい仕草なのかは分からない。守恒も冷静ではない。胸の内から正体の分からない熱い感情が込み上げて、脳に回っていた。逆上のぼせていた。


 ただし、一つ、確かな感覚があった。


 初めて抱き締められた女性の、咲久の身体は、思ったよりもずっと繊細で、柔らかかった。


※※


 念のため、咲久は救急車で近くの病院に運ばれていった。義足が壊れた咲希と、母親の香子かこも付いて行った。


「また君に家族を助けてもらった」

「僕は何もしてませんよ」

「これは、もう私も覚悟を決めるしかないようだね」

「英治さん?何を言って―――」

「違うだろう、墨くん。お義父さんと呼びなさい」

「呼びません」


 おかしなテンションになっている咲久父も、ついでに救急車に放り込んだ。


「なかなか、面白いことになっているじゃあないか」

「氷月さん、ずいぶん楽しんでますね」

「仕事は楽しまなければ。そういえば、君の実家に言伝ことづてを頼んだときに、父上殿から、こう言われたよ。「息子をよろしくお願いします」って」


 誰に言っているのだ。


 この一年、まったく寄りついていない家の主人に内心で突っ込みを入れながら、守恒は、こう口にした。


「それは、どうも」

「では、私はこれで。この騒ぎだ。君が罪に問われることはなかろうが、もし何かあったら上手いこと揉み消しておくよ」

「ソレハドウモ」


 同じ言葉を、今度は棒読みで言った。


「俺は愛車の修理代を、組織うえに請求しなければ」


 錐のような顔、霧のような雰囲気の男はそう言うと、かすみのように何処いずこへと消えた。


「君かね、私を助けてくれたのは」


 もう終わりだろうと思ったら、さらに声がかかった。気絶から目覚めたらしい、若月。守恒はよく知らないが、何らかの罪に問われている元大物政治家。


「あれは、いわれのない罪だ。それが、様々なメディアを通して巨大な私刑リンチに変わった。恐ろしい話だ。私は、断固、無罪を訴え続けていくよ」


 言葉は決然としているが、顔には涙と涎の後、服はボロボロ、ズボンには大きな染みを作った爺様が言っても、締まらない。


 それに。


「僕は、あなたのことはどうでもいい。これから検察や、裁判で明らかになることです。僕が口出しすることじゃあない」


 若月は面食らった様子だが、すぐに柔和な笑みを形作った。


「ならば、こちらもだ。君がどう思うかはどうあれ、私は、原理原則を重んじる若者が好きだ。何か困ったことがあったら、頼って―――」

「そうじゃない」


 若月の言葉をぴしゃりと遮って、守恒は言った。


「僕の敵はモブだけだ。―――ただ、それだけのことです」

「……なんて?」


 思わず素の声で突っ込む若月。


 守恒は、陽が落ちるH市の空を見上げた。


「あっ……」


 彼の自己評価通り、守恒は普通の人間である。


 流石に今回の修羅場モブレイヴは許容量オーバーだった。


 間の抜けた声と共に、糸の切れた人形よろしく、地面にばったりと倒れた。

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