第17話 咲久と守恒

 木瀬川高校から徒歩五分。少し大きな二階建ての一軒家。坂ノ上さかのうえ姉妹と一奈かずなが暮らすシェアハウスだ。


 家主は、在宅で仕事をしている咲希さき。もう一人、咲希の友人が暮らしているが、あまり家にいない。


 リビングの連絡ボードに、彼女の筆跡で『そろそろ会社に殺される』『どうせみんな社畜になる』などと赤い文字で書かれている。残った三人で無理やり慰安旅行でも連れ出そうと計画されていた。


 そして現在。


「うぅ……」


 件のリビングに、咲久さくは正座させられていた。サッカーで日々鍛えている膝は柔らかい。長時間の正座にも耐えられる。


「なんでぇ……」


 だが、身に覚えのない罪で責められるのは合点がいかない。今日は練習試合で、二得点三アシストだったのに。


「なんでもカンテもないんだよ、妹」

「お姉ちゃん、カンテ好きだよね」


 現役時代MFミッドフィルダーだった咲希さきらしい好み。ちなみに咲久は、ズラタン・イブラヒモビッチが好きだった。


「ンなことはどうでもいい。本当に分かんないの?」

「わっかんないよぉ、一奈かずなぁ」

守恒オトコがポッと出の新キャラにさらわれようとしてんだろうがァ!」

「ホントに何の話っ!?」


 ランの話だった。


「アンタ、あの子のことどう思ってんの?」


 咲希が訊く。


「とってもいい子だね。練習試合も手伝ってくれたし」

「分かる」

「同意しちゃった!?」

「あ、ごめん」

「咲希さんもキッチリほだされてんじゃないですか。恐ろしい子」


 そういう一奈も、今日の試合ではランという少女がどれほど“いい子”であるか、思い知らされた口だ。


「邪気が無い恋敵。ガチ強敵」

「あのぅ、足が痺れてきたからそろそろ崩していいですか?」

「いいけど立つな。咲久あんたが立つと私らが圧倒される」


 一奈と咲希は、共に身長161㎝だった。


「とにかく、モオさんはたった三週間でゴール前まで来てる。とんでもない決定力だから、アンタもなんとかしなさい」

「指示が試合並みにざっくりだよぅ」


 咲希は完全感覚型の監督だった。戦術は、咲久と守恒が、毎試合顔を突き合わせて頭を捻っている。


「咲希さんは置いといて。咲久、守恒がランちゃんを好きになってもいいの」

「守恒くんが好きになった人とお付き合いすればいいと思う……」

「小学生か。いや、それ並みなのは知ってたけど」


 何しろ、手を繋いで名前呼びになるまで一年かかった天然素材だ。


 一奈が溜息を吐くと、咲久は「守恒くんが私を好きになってくれれば、それは嬉しいよ」と言う。


「でも、守恒くんの好きな私を演じても、きっと辛くなるだけだろうし」


 それに、と、咲久は困ったように言った。


「多分、守恒くんは怒ると思う。「モブみたいなことするな」って」

「……かもね」


 そういえば、と、一奈は今更ながら思った。


 守恒も、ずっと咲久のことは名前で呼んでいないな、と。


※※


 翌日。河川敷グラウンド。今日は試合の後ということで、女子サッカー部の練習は早めに上がった。


「では、守恒様。正式にお断りの連絡を入れておきますね」

「よろしくね、ラン」


 グラウンドの片隅。帰宅するランに、手を振る守恒。それを見ていた咲久が、声をかける。


「守恒くん、どうしたの」

「なんでもありま―――いいや、言わない方がモブっぽいか」


 咲久には理解不能な自問自答の末、守恒は、ランが持ち込んだ件について話した。


「―――というわけで、何か妙なことも起こってるし、部活にも集中したいので、断ったんです」

「行ってきて、守恒くん」

「でも……」


 その反論は、咲久が両肩をぐっと掴んできたことで封じられた。


 互いの額が触れ合う寸前まで顔が近づく。逸らすことを許さない強い目が、守恒を射る。


「守恒くん。私は誰?」


 その謎かけのような問いは、以前、守恒が咲久にしたものだった。


 去年、日本代表合宿に初めて招集されたとき、またぞろ咲久の弱気の虫が覗いた。


 そのとき、今とは逆の体勢で、守恒がこう訊いたのだ。


『坂ノ上先輩、あなたは誰ですか?』


 その後に続く言葉を、守恒は繰り返す。


「あなたは、日本人で二人目の、バロンドールを獲る選手です」

「うん、よろしいっ!」


 弾んだ言葉とともに、こつん、と、軽く額同士がぶつかった。


「負けないよ、私」


 囁くような声。でも、しっかりと聞こえる。触れ合った箇所から、皮膚と、骨を震わせ、脳の、心の奥底まで響く、強い声だった。


に何を言われたって、どんな目で見られたって、平気。だからね、守恒くんも、自分の“試合”に行ってください」

「……はい」

「それが終わったら、また私の試合を観に来て、力を貸して」

「僕なんかで―――痛い」


 さっきより少し強いヘディングを額に貰う。


「ファールですよ、先輩」

「味方にやっても笛は吹かれませんよー」


 言って、咲久はおでこを外し、今度は両手で、守恒の頬を優しくつねる。


が、なんだって?」

「ふいまへん」

「よろしいっ」


 しばし見つめ合い、ややあって、笑い合う。


※※


 ―――その夜。所はまた、シェアハウス。


「うきゃあああああ!!!!」

「うるっせぇよ!! この猿! 咲久じゃなくて猿ッ!」

「一奈隊員、今度はなんだ」

「はっ。咲希隊長、ついに咲久が守恒と手繋ぎ以上のスキンシップを成功させた模様であります」

「キスは?」

「寝言は寝て言えであります」

「だよね。ま、そこのベッドでのたうち回ってる咲久ぶったいにしてみれば、MVPか」

「デカブツが転げ回って眠れないであります。咲希隊長、あなたの部屋に行っても―――」

「ダメ。一奈アンタやべー奴だし」


 それほど心外でもない自分が恨めしい一奈だった。


※※


 同時刻。カフェ・シューメイカーで、皿の割れる音がした。


「スミス!? 今日はなんだかミスが多いよ。スミスだけに」

「すみません、ボブ」

「スルーかね。めっちゃ上の空じゃないか。伝票に¥600,000-って書いてあったときは目を疑ったよ。局地的にインフレがエグイよ」

「面白いですね」

「感情ゼロの声で社交辞令はやめるんだ。体調不良かい?」

「強いていうなら、おでこと、両方の頬っぺたがずっと熱いです」

「……おたふく?」

「多分、違うと思います」


 クローズ作業をなんとか終えると、守恒は寝床のキャンピングカーに潜り込み、こう呟いた。


「あれが、未来のバロンドールの決定力か……」


 咲久と守恒。互いに、眠れぬ夜が更けていった。

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