第5話 翌日、墨守恒の日常
ここで働き始めて二年が経つ。すっかり慣れた手際で、朝の仕込みを進めていると、ワイン樽の如き巨躯の黒人がヌッと姿を現した。
「ボブ、今日は遅かったですね。二日酔いですか」
「おはよう、うん、PTAの飲み会でね」
何とも日本的な理由で深酒してしまったこの喫茶店のマスター、ロバート・シューメイカーは、「ボクはまだ厨房にいない方がよさそうだ。モーニングの仕込みは任せたよ、スミス」とへろへろの様子で言って、店内の清掃と準備に回る。
面接で「墨です」と名乗ったとき、「そうか、じゃあスミスと呼ぶことにする」と言われたときは「なんで?」と思ったものだが、ロバートの家族や常連にもすっかり定着してしまった今では、愛着あるニックネームだった。
開店は八時だが、早起きが身体に沁みついた近所の
働き始めた当初こそ失敗だらけで随分と迷惑もかけてしまったが、二年の研鑽がもたらした効率の良い動きで、七時には大体の準備が完了した。
「今日は少しゆっくり朝ご飯が食べられるね、スミス」
「はい、ボブ」
公称120㎏、守恒の見立てでは140㎏なロバートの体重を受けた木製の階段が、断末魔のような悲鳴を上げる。朝食と昼食の弁当用にと多めに作ったサンドイッチを、二階にあるシューメイカー家のリビングへ持っていき、扉を開ける。
「だからなんでそんな真っ白にするの! そんなにお父さんと一緒が嫌なの!?」
「だから違うって言ってんじゃん!!」
こちらも大騒ぎだった。
「Ouch……!」
「Oh,Jesus……」
家主と居候の父子のような仲の良さに相反して、実際に血の繋がった母娘が喧嘩の真っ最中だった。謎に欧米スタイルで目の前の惨状を憂いてみせる
「どうしたんだい?
「
ロバートの妻、静佳・シューメイカーと、その娘・涼風が、バツが悪そうに沈黙する。夫や父だけならまだしも、居候の男の子に見られたのはまずかったようだ。
何はともあれ朝食にしようと、ちょっと気まずい朝の団らんが始まった。
トーストをもしゃもしゃと食べる沈黙の食卓。
ロバートの、でっぷりとした巨大な顔に小さくついた目が、
「涼風、昨日は大変だったな」
「そだね」
まずは今年から同じ高校の後輩となった涼風に、昨日の騒動について話を振る。暴漢六人は全員逮捕されていた。
「守恒さんは大丈夫なの、なんか、皆が噂してたんだけど」
「モブの噂なんてどうでもいいさ」
「あんまり無茶しないでね、スミス君」
「はい、静佳さん」
前は両親と同じく「スミス」だったのに今年に入ってから、涼風は守恒のことを「守恒さん」と呼ぶようになった。難しい年頃。
「涼風、化粧は楽しいかい?」
アメリカの黒人父と日本の黄色人母を持つので、顔やスタイルこそ母に似て細面でスリムだが、肌はそれなりに浅黒い。そんな彼女がちょっとやりすぎな美白にこだわり出したとあれば、もしかしなくてもデリケートな方面の話だ。
「楽しくは、ないかな」
「じゃあ、やめよう、今すぐ落とそう可及的速やかに。話はそれで終わり」
守恒がきっぱりと言い切る。
「何を言われたか知らないけど、モブ共の勝手な言葉を聞く必要はない」
「……理由とか、訊かないの?」
「うん」
きっぱりと言い、守恒はこう続けた。
「僕はモブを辞めるために自立したかったけど、中学生を働かせてくれる場所なんてどこにもなかった。
ボブは、そんな世間知らずで何もできない僕を受け入れてくれた、唯一の大人だったんだ。すごく尊敬できる、立派で、かっこいい大好きな人だよ。涼風は、どう?」
「よしてくれ、スミス」と、ロバートは椅子から立ち上がって大きな団子鼻をすすった。静佳はそんな夫の姿に笑いつつ、彼女自身の目も少し濡れていた。
「うん、まぁ、好きかな」
「そうか。なら、その黒んぼ顔を今日も元気に晒していこうか」
「うん、ありがとう、お兄ちゃん」
シューメイカー家の食卓がまた再び、沈黙に落ちた。
「ボブ」
守恒が言う。低い声を一段と低くした、真剣な語調。
「なんだね、スミス」
ロバートの顔と声も真剣そのものだった。渋みがある。いわば、太ったデンゼル・ワシントン。雰囲気だけだが。
「あなたをお父さんと呼んでも構いませんか!?」
「ダメだ! しかし、お義父さんならウェルカムだ!」
「実の息子ではダメなんですか!?」
「逆に訊くが義理の息子ではダメか!? いや、率直に言おう! 娘を貰ってくれ、スミスッ!!」
「ボブッ!!!!」
「あらあら。すずちゃんはどう? お兄ちゃんと旦那さん、どっちが欲しい?」
突如として興奮し出した二人の男たちをニコニコと見守る静佳に言われ、白くなった黒い顔が真っ赤になる涼風。
「あーもううるっさい!! もう学校行くよ、お兄ちゃ―――じゃない! 守恒さん!」
「その前にその“白塗り”をちゃんと落としていくんだぞ、涼風」
「弁当も忘れるなよ。ちゃんと野菜も食べるんだぞ」
「急に冷静になるな! 息合い過ぎでしょ二人とも!」
何が起きても、守恒の日常はここにあった。
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