第2話 坂ノ上咲久の素顔

 また少し時は巡り、進学・進級の慌ただしさも落ち着き始めた県立木瀬川きせがわ高校。


 そこに通う、坂ノ上さかのうえ咲久さくは公称179㎝、実際は180㎝に届いているのではないかと噂される長身を活かしたポストプレーと、柔らかなボールタッチができる器用さも兼ね備えた日本女子サッカー界の至宝である。


 少し茶色がかったショートヘアは活動的な印象を与え、顔立ちや普段の服装もボーイッシュ。また、部活動ではチームメイトたちを背中で引っ張るキャプテンと、どちらかといえば「女子に人気が出るタイプの女子」だ。


 しかし、その実態は―――。


「でね? でね!? ハーフタイムに御子柴みこしばさんが「日本人の男の子がいる」って言って、もしかしたらと思って観に行ったらホントにいたのっ! きゃーって声上げちゃった! 私のこと、応援しに来てくれたのかな?どう思う一奈かずな

「まぁ、そうなんじゃない? 守恒もりつねに「私の試合は全部観に来て」って言ったんでしょ、アンタ」

「そんなこといってないよぉ!」

「グホォ!!?」


 言葉とは裏腹に、大層嬉しそうな表情で一奈の背中をバシンと叩く咲久。小柄な一奈は、アイドル然とした顔に似合わない野太い悲鳴を上げて吹っ飛ぶ。


「ゲホッ……ゲホッ……あんたね、自分の体格と腕力を計算に入れてツッコミなさいよね。さっき食べたウィンナー出てきちゃいそうだったじゃん」

すみくんが言ってくれたんだよぉ。「先輩が不安なとき、いつでも僕がそばにいますから」って」

「聞いてねぇな。っていうか、それもかなり記憶捻じ曲がってるからね? 「行ける試合にはできるだけ行きます」って言ってなかった?」


 まぁ、それで行けちゃったのがすごいんだけど。と、一奈はタブレットに映るニュース記事を読む。


 『〇東亜に響いた日本の歌謡曲

 全体主義の独裁国家らしい、一糸乱れぬ声援と静寂を乱したのは、たった一人駆けつけた高校生の“美声”だった。見事逆転の2ゴールでデビュー戦を華々しく飾った坂ノ上の高校の生徒だという彼の応援は、我らが日本代表に力を与えてくれたはずだ。』


「かっこ良かったよぉ。チームのメンバーもみんなホッとしたって言ってたし。東亜のペースもちょっと乱れたしね」

「TV中継にまで届いてたからね、どんだけデカいんだよアイツの声」


 一奈の呆れる対象は、隣で「あ、墨くんちょっとだけ写ってる。ね、一奈、この部分だけ切り取っちゃっていいかな」と、浮かれポンチな発言を続ける咲久にも向かっていた。


「えへへぇ、プリントアウトしちゃおっかなぁ」

「後輩には見せらんないよなぁ、この恋愛脳の乙女っぷりは」


 これが、一躍日本代表の救世主となった選手の素顔である。


 外見とプレースタイルのイメージとは裏腹に、頭の中は一年ですっかり心を奪われた後輩のことでいっぱいだった。


 で、友人の了承も得ずに勝手にタブレットを操作して「えへへ、私のクラウドに送っちゃお」などと、赤くなった頬に手を当てて呟く咲久が憎たらしいやら可愛らしいやら。


「あ、守恒、お疲れ」

「ひゃう!?」


 嘘ではない。女子サッカー部の部室に、マネージャーたる守恒がやってきたのだ。だが、観客席で米粒程度に映り込んだ想い人のトリミングに余念がなかった咲久が奇声を上げるには、十分な発言だった。


「先輩? 一奈、なにかあったの?」

「なーんでもないよ。遅かったじゃん」


 きょとんとした表情の守恒の、しらばっくれる一奈。


「先生、怒ってた?」

「それほどでもないよ」

「だってさ。良かったね、咲久」


 後ろ向きでボールを受けたときのターンより鋭い動きでタブレットを一奈に返却した咲久が「う、うん!? す、墨くん、お、おは、おはよ」と、スクラッチしながら言う。


「先輩、昨日はホントにカッコ良かったですよ。ますますファンすきになりました」

「ふぇっ!?」

「お、先制攻撃決まった。相変わらず守恒アンタ、声は良いよね」

「一奈、ってことは―――、あるかな?」


 言って、「あははっ」と黒髪を掻き上げる守恒。顔も背格好も普通な高校二年生。特徴と言えば、その優男然とした顔には似合わぬ渋めのバリトンボイスくらいだ。


「そ、そんなことないよ。墨くんは、ちゃんと―――カッコいい、よ?」


 勇気を振り絞ったらしいお褒めの言葉も、だんだんと小さくデクレッシェンドして、最終的に疑問符がついてしまっては説得力がない。やれやれと首を振る一奈。だが、守恒は破顔し、うつむく咲久の隣に座る。


「僕の味方は先輩だけですよ、いつもありがとうございます」


 そして、冗談めかした言葉を耳元で囁く。深い声が咲久の耳孔じこうに挿しこまれ、鼓膜のひだを撫で、その奥を官能的にくすぐった。


「ひゃう!?」

「お、またクリティカルヒット。守恒ぇ、その辺にしとかないと、咲久の脳みそ溶けちゃうよ?」

「と、溶けないもんっ」

「うん、知ってる。もう溶けてるもんね」

「うう~……そんなこと、ない」


 友人と後輩から挟まれる格好で、幾分、座高も低くなったように見える咲久。ここがチャンスと見た一奈がやおら大声を出す。


「咲久!」

「ひっ!? な、なに?」

「こんなかったい腹筋してるくせに、もっと大きな声はでないのかぁ!」

「きゃあ!? やめて、お腹弱いの知ってるでしょお!?」


 普段ならば、小柄な一奈などすぐに振りほどかれてしまうが、今は守恒によってかなり脳が溶かされている。腹をくすぐりながら、大きな友人にこう囁く。


「あんたね、もう三年でしょ。ここらへんで一気に攻め切っとかないと、ずーっと今のまんまだよ」

「攻めるって、どういう意味」

「そりゃあ、あんたのこの憎たらしいほど綺麗に鍛えられた足! 腹! 身体! を、この後輩に見せつけてやりゃあ一発だって。性欲薄そうだけど、枯れてるわけじゃないでしょ。良い感じにエロい雰囲気になったら、私はどっか行ってあげるから、今日の内にゴール決めちゃいな! いや、ぶち込まれるのはアンタの方かな?」

「一奈! 女の子がグヘグヘ笑いながらなに言ってるの!?」

「うっさい! こうなったもう押し倒してでも決めなさい! 夜のPK戦に持ち込みなさい!」

「何一つ上手くないよぅ!」


 時は新学期の春。咲久と守恒の関係は、昨年度一年間いろいろあった割に、『仲の良い先輩後輩』から何一つ進展していなかった。


「ほれほれ守恒ぇ、この女子おなごの肢体に催さんかぁ? 劣情的なアレを……」

「助けて墨くん! このオッサン女子高生から私を助けてぇ!」

「僕は弁当食べないと」


 アイドル系とアスリート系の少女同士のは刺激が強かったと見え、とっとと顔を逸らす守恒。


 なんだかんだと平和に過ぎていく木瀬川高校の昼休み。


 が、その平穏を打ち破る音が、一人の声と共にもたらされた。


「いるか、墨守恒。ネットで、君に殺害予告が出てるぞ」


 大事件だった。

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