第17話 行方不明

「もうこれ以上、人を傷つけるのはやめて」

部屋中が静まり返った。微かな視界の中、奴の顔が気まずそうにしているのが見えた。日向さんは心配そうにこちらを見ながら白いハンカチで唇の血を拭ってくれた。

「大丈夫?石川君」

私は頷きながら、ぼんやりと内から湧き出る何かに促され立ち上がった。ふらつく足を踏ん張って、大きくも弱々しい獣の瞳をしている奴の前へ立った。やめとけよ、と声が聞こえてきたが私の体は勝手に動いていた。西島は睨みつけてきた。私は震える息を吸い込み、痺れる唇を開いた。

「吾輩は猫である」

そう言った。それを聞いた西島は阿呆面をして「は?」と聞き返した。私はその素っ頓狂な顔がおかしくて、思わず小さく笑みを浮かべた。

「全く、浅学菲才(せんがくひさい)甚だしい。張子の虎とはまさにこの事。私は嘲笑を引き受けようが何の造作もない。初夏に気急きしてかしましく鳴く蝉のようだ。それ程他愛もない事よ」

西島は眼を大きく開閉させて私を見つめたまま何も言わなかった。それから彼は闘争心の失った動物のよにうに、大人しく肩を落としてテーブルの傍に座った。それから誰も口を開く者はいなかった。私は心身共に疲れきってしまい、早々に部屋から出ていった。壁に沿って廊下を歩いていたら後ろから、待ってと声をかけられた。私が振り向かずに歩き進んでいると、駆け寄ってその手は腕を引いた。私は立ち止まり、音程もなく告げた。

「この章はもうお終いだ。貴女は貴女の、私は私の物語を続けよう」


店を出ると夜は濃くなっており、晴れているのか曇っているのか分からなかった。酒のせいだろうか、体はひやりと冷えていた。私はガードレールで仕切られている歩道を歩きながら、あの人に電話をかけた。今すぐ声が聴きたかった。電話のベルが鳴る間、私は月を眺めた。

「もしもし」

変わらない彼女の声がした。騒々しかった胸の中や、わだかまりといった嫌な感情が一気に体から抜け出て行く気がした。それで、私は何を言うか迷っていた。気がつくと堰が切れたように、涙が溢れ出てしまっていた。

「アサヒ先生……?石川さん?」

車が何台も激しい音を立てて通り過ぎる。

「月夜さん、今少しいいかな」

「ええ、はい。大丈夫です。不思議ですね。今丁度、石川さんの事を考えていたんです」

「私の事を?」

「はい。今、月を眺めながら声を聞いているんです」

「私も同じだ。月を見ているよ。貴女と同じ、月を見ている」

心が温まると同時に、胸がきつく締め付けられる痛みを感じた。耳に宛てがう機械が、言葉が、見ている景色が、何もかもが邪魔に思えた。彼女の声は私の心に直接溶けていく。

「今から会いたいんだ」私はそう言って彼女の返事を待った。数秒間、静かになった。いつもなら迷惑だろうかと考えるものの、今夜はそんな無粋な茶々も入らぬ程に心底彼女を求めていた。

「いいですよ。じゃあ、いつもの公園で」

と、彼女は割と朗らかに答えた。

途端に私は、ロマンチックを置いてきぼりにしたような、慌てた様子で口を挟んだ。

「ああそれは駄目!駄目。夜道は危ないから。私がそちらに行く。少し顔を見れるだけでいいんだ。そうしたら直ぐに帰るから。すまない、こんな夜中に」

「ふふ、いいんですよ。私も会いたかったんですから。じゃあ待ってますね。暗いから気をつけて」

「うん、ではまた後で」

電話を切ると、私は走り出していた。頭の中は彼女の事でいっぱいだった。月夜さんに会いたい。笑顔を見たい。呼吸と一緒に両足が弾む。とっくに疲れきって体力はないはずなのに、いつまでも車より速く走れる気持ちだった。まるでスーパーソニックのように。赤信号で待つ間、むっつりとしている、運転席の会社員らしき男に手を振ってみたかった。


街を転がり続けてようやく、あの公園に辿り着く頃には息が切れていた。私は階を跨いで月夜さんの部屋の前まで来ると、呼吸を整えてインターホンを押そうとした。しかしその前に扉は開き、部屋着姿の月夜さんが目の前に現れた。

「石川さん、どうしたんですか?痣が出来てる」

彼女は吃驚して口と目を大きく開いた。私は黙って彼女を強く抱きしめた。そんな様子も咎めずに月夜さんは静かに紡いだ。

「先生、お酒を飲んでますね。お酒の匂いがする」

私は依然として答えなかった。代わりに一番言いたかった事だけを告げた。

「月を見ていたら貴女を思い出しました。私は朝日にはなれないけれど、貴女を守る雲になります。これからも一緒にいてくれませんか?」

呼吸と心音がいつもより大きく伝わってくる。混沌とした思考や雑念よりも、今は私の素直な心情が彼女にも伝わっていると思いたくて、更にきつく抱きしめた。すると、月夜さんはあやすように背を叩く。

「先生はとっくに私の太陽ですよ」

本物の月のように澄み切った声だった。

「それにパンちゃんもね」

パン。そういえばパンのやつは何をしているだろう。今頃、腹でも空かせて私の帰りを待っているだろうか。私は彼女をそっと離した。

「時間をくれてありがとう。私はもう帰らなくては。あいつが待ってる」

「うん、パンちゃんも先生の帰りを待ってるよ」

それから月夜さんは、私こそありがとうと付け加えた。次に会う約束はしなかった。それでも私は、多分月夜さんも、満たされていた。最後に手指を結んでから解いて別れた。公園に降りて見上げてみると、月夜さんがそこから手を振っていた。私は軽く手をひらつかせて去った。


家へ着き玄関を跨ぐと、ばたばたと床を忙しく踏みながら花谷さんがやってきた。その顔ときたら、死人でも見たかのような青白い顔をさせていたので私は不吉に背筋を震わせて何事かと問うた。

「パンちゃんが……」

花谷さんはそう言った。それだけで私はえも言われぬ不穏が全身を駆け巡り、すぐさま廊下を上がりパンの名前を呼びながら小走りで部屋のあちこちを探した。しかしパンの姿はどこにも見当たらなかった。物置部屋も、台所にもいない。最後に私の仕事部屋へと向かった。縁側の方の窓は開けっぱなしだった。庭の木がざわつき、私は一部欠けているブロック塀の穴を見た。丁度猫なら擦り抜けられる程の大きさだ。

「窓を閉め忘れたのか?」

「パンちゃんが先生の部屋でトイレをしてしまったから、換気をしていたのです。掃除用具を取りに行った時、そしたらパンちゃんがいなくなっていて」

「それはいつ頃の話だ」

「先生がお戻りになる少し前です。慌てて探しましたがどこにもいなくて」

花谷さんは顔を覆って泣き出してしまった。

「すみません。私が見ていないばっかりに」

そう言って何度も何度も謝った。私は背中を軽くさすって、落ち着かせようとした。

「さっきの話なら恐らくまだそれ程遠くへ行ってないだろう。探してくるから花谷さんはここで待っていなさい」

「私も探しに行きます」

「いや、もしかしたらここに帰ってくるかもしれない。だから花谷さんはここに居て欲しい。その時は私に連絡をしてくれ」

「本当に申し訳ございませんでした」

花谷さんは深く頭を下げた。白髪まじりの頭が少し震えているように見えた。

 私は履き慣れた草履を履くとパンを探しに表へ出た。辺りはすっかり暗く、住宅街などは特に詫びしく、不安を煽ってくる。

「おおい!パン、パンや!」

腹の底から声を出して呼んでみる。それでもにゃぁという声一つ聞こえない。めげずに何度でも奴の名前を呼ぶ。

角を曲がり、家と家に挟まれた狭い、道とも言えぬ道を走る。コンクリートに乱雑と茂っている草むらから、にゃぁと小さな鳴き声が聞こえて来て私は思わず声を上げ、両手を地面について四つん這いの格好になりながら、草むらの中を覗き込んだ。

「パン!」

「みゃあ」

飛び出してきた猫は灰色の体をした猫だった。私を見るなり目つきを鋭くして威嚇した。

「うわあっ」

  情けない声を上げて、私はその場に尻餅をつく。その場面を見計らってか、後ろの家の玄関からやってきた腹巻のオヤジがそんな哀れな姿の私を見て怒鳴った。

「おい、うるせえぞ。今何時だと思ってやがるんだ」

しかし私は返ってそのオヤジの元に近寄って、それも四つん這いの姿のままだったからオヤジは呆れ顔よりも困惑した色を浮かべたのも構わず、パンの居所を聞こうとした。

「あの、パンを、喋る猫を見ませんでしたか?」 

「はあ?喋る猫?」

オヤジの顔は、すっかり不審な表情へと変わっていった。だがそんな顔も、今や何も気にもならない。私の頭の中はパンを探す事でいっぱいいっぱいだった。

「喋る猫なんだ。パンって名前で、オレンジと茶を足したような毛色をしている。瞳の色は黄色だ。食べるパンに似てる色なんだ。あいつ、よく私の魚を盗むんだよ。中でもかつおが大好物でね。ともかく見かけたら教えてくれ。お願いだ」

 私が腹巻に縋りつくもんだから、オヤジはとうとう溜息をついて私の手を叩いた。

「ああ分かったよ。見つけたら言うからさっさとこの手を離してくれ」

「ありがとう。本当にありがとう」

腹巻から手を離し起き上がって再びパンを探しに走り出した。あのオヤジは、家へ帰るなり、きっと家族と変な奴に会ったなどと噂をしている事だろう。

 けれどそんな噂は怖くない。それよりももっと怖い事を頭の中に想像して、振り払おうと頭を横に振った。パンがもしも事故にあってでもしたら。血塗れに横たわっている猫の姿が頭に過ぎる。いいやこんな悪い想像は良そう。パンは無事に決まっている。そんなもやもやが頭を巡る中、両足はいつもの公園に来ていた。ここにパンがいなければ……。私は公園の砂利の中を一歩一歩大きく進んでいった。よく座っていたベンチの方へ歩いていく道中、パンがそこにいる事を深く願った。

「パン、そこにいるんだろう?」

私は呼びかけた。返事はない。もっと近付いて、ベンチの下を覗き込んだ。だが、パンの姿はなく、あるのは真っ暗な影のみだった。私は肩を落としベンチに腰を下ろした。

 あいつはどこに行ってしまったのだろうか。丸く浮かぶ月は雲で霞んでその輪郭をすっかり隠してしまっていた。

「パン……」

と呟く。ふと小さな獣の存在感と命の生温かさを思い出す。その小ささは私の心の中にいつの間にか育ち、大きなものへと膨れ上がっていた。

 その時、がさがさとベンチの後ろの植木の群れから、風の仕業とは違う音が聞こえてきた。咄嗟に振り返ってみると、何と葉っぱの合間からパンが姿を現したのだ。

「にゃぁ」

「パン!」

私は思わず叫んで、パンの体を抱きかかえて頬擦りをした。

「良かった。無事で良かった。全く何故勝手にどこか行ったんだ。とうとうお前まで私に愛想を尽かしたのか」

パンの瞳をじっと見つめた。するとパンは幾日かぶりに口を開いた。

「アサヒ。心配かけてすまないにゃ」

「お前、ようやく喋ったな。この猫被りめ」

私は今までの苦労が吹き飛んだように、嬉しく思えて笑ってしまった。

「寂しかったかにゃ?」

パンは懐かしくも思える傲慢な態度でフンと鼻を鳴らしたが、それもまた嬉しく思えた。

「無視をされていたからな」

「これは失敬。無視をしてるつもりはなかったにゃ。これにはふかーい理由があるのにゃ」

「理由?」

「アサヒは最近よく頑張ってるにゃ。だから吾輩がアドバイスをしなくても一人でやっていけるかどうか試してみたのにゃ」

「そうだったのか。余計なお世話だが、まあお前のお陰で変わった所もあっただろう」

「ほらにゃ。吾輩は最初からアサヒは出来る男だと信じていたにゃ」

「何だやけに褒めるじゃないか。さてはお前あれだな。おやつが目当てだな。じゃあ家に帰るぞ。今日は気分がいい。だからお前に高級かつおを振る舞ってやる」

と、私はパンを抱えたまま立ち上がった。

「それは無理にゃ」

パンは言った。

「家には帰れにゃい」

「どうした。猫にも反抗期とやらが存在するのか?それとも私がお前を置いてどこかに行ったのを拗ねているのか」

「もう恩返しはおしまいにゃ」

パンを家に置く目的は、元々パンに餌をやったその恩返しだった事を、私はすっかり忘れていた。

「恩返し。まだそんな事を言っているのか。もう恩返しなどどうでもいい。とっくにそんな関係じゃないだろう」

「駄目にゃ。吾輩は帰れにゃい。アサヒ。アサヒはこれからの人生、吾輩がいなくても幸せを選択する事のできる人間になったにゃ」

 パンは、いつになく真剣な言葉で語りかけた。

「何、言ってるんだよ。冗談はやめろ。嗤えないぞ」

私は精一杯の笑みを作ったが、頬の筋肉が痛かった。それに声は自然と震えてしまっていた。

「やっと、やっと――。お前と友達になれたんだぞ。まだまだこれからだろう。そうだ。私は孤独だった。お前と会うまではずっと、それが普通だった。死んだ蝉のように生きてきた。お前と過ごしてきて気づいた。こんな頭の固い私に気づかせるなんてお前はやっぱり凄いよ。私は孤独が嫌いだ。友達が欲しかったから仕方なく今までは孤独と友達になっていたんだ。孤独は私を笑わず、裏切らない、唯一の理解者だから。だが本当は違う。私はずっとお前みたいな友達が欲しかったんだよパン」

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